SSブログ

上三川町道路元標について [石碑]

これまで、真岡市や益子町、茂木町方面は良く出かけています。
栃木市からですと、壬生町から国道352号線をひたすら東方向へ、新国道4号線の立体交差の下を抜け、そこから県道47号線で更に東へ、鬼怒川を渡って行く事に成ります。ですから東北新幹線の高架下を過ぎた所から、鬼怒川を渡るまでの間、いつも上三川町を通過している訳ですが、何故か上三川町を訪れた事は一度も有りませんでした。強いて思い起こすと、会社勤めをしていた現役時代に、一度「日産自動車栃木工場」の工場見学をさせて頂いた事が有りましたが、上三川町を訪れたと言う感じは有りません。
ですから今回、「上三川町道路元標」の設置場所確認という事で、初めて上三川町の市街地を訪れた事に成ります。
最初に「上三川町役場」を訪れて、玄関ロビーにて「上三川町文化財マップ」を頂き、それを元に町の中を探索する事にしました。
まずは近くの「白鷺神社」に参拝、境内は早くも新年を迎える準備が始められており、来年の干支である鳥を描いた大きな絵馬が飾られておりました。又境内東側には<日本一の「平和の剣」>と言う、白鷺神社御鎮座1,220年(平成15年)を記念し奉製された、長さ1,220センチメートル、青銅製の剣が翔舞殿と呼ばれる建物に収められています。
白鷺神社1.jpg
(上三川町、白鷺神社正面入口より撮影)
日本一の剣1.jpg
(翔舞殿に収められた「日本一の剣」)
白鷺神社2.jpg
(来年の干支の鳥を描いた大きな絵馬)
この白鷺神社が上三川町の中心と成っているようで、この神社の正面から南に町の大通りが通っています。文章では説明がおぼつかない為、今回も概略図を作ってみました。現在の道路状況では多くの新しい道路が出来ていますので、明治初期に作られた迅速測図を今回も参考にさせて頂いて、古くから通っていた道路が分かる図にしました。
明治初期上三川村略図1.jpg
(明治初期の上三川村の概略図)
白鷺神社から南に伸びる広い道路を歩いて行くと、右手(西側)に立派な寺院が建っています。その付近で道路は少し西側にずれる様に曲り、又真直ぐ南に伸びています。この道のずれを町の人に尋ねて見たかったのですが、歩いている人が居りませんでした。
上三川町大通り.jpg
(道路正面奥に白鷺神社、手前左手の寺院が「普門寺」)
その先を更に進んで行くと、道路沿いに大きくて立派な建物が現れました。町の文化財マップにも出ています。立派なはずです、国の登録有形文化財に指定された建物で、「旧生沼家住宅」でその説明文によると≪町中心部の角地に建つ商家。桁行、梁間とも7間半とし、切妻造、平入の南北棟の北端に、東西棟の入母屋造の2階部を載せた特異な構造。(後略)≫
上三川町道標3.jpg
(国登録有形文化財となっている、旧生沼家住宅と、手前カラクリ時計)
この商家は明治40年発行の「栃木県営業便覧」によると「肥料商」と記されています。
そしてこの交差点の南西角付近に、探す「上三川町道路元標」が建てられています。この場所は先の「栃木県営業便覧」によると、「宇都宮警察署上三川分署」の有った所ですが、現在は「夢のジャングルジム〜希望の響き〜」と題する「カラクリ時計」が建てられています。
上三川町町道路元標1.jpg上三川町からくり時計.jpg
(上三川町道路元標と脇に建つカラクリ時計)
又、このカラクリ時計の足元には「道路元標」の他に、もう一つ古い四角柱の道標が建っていました。
その道標の4面はそれぞれ東西南北に面していて、「北 宇都宮方 」一番下の文字がハッキリしない。「東 大沼渡舩場經眞岡道」「南 吉田村結城町道」「西 石橋町栃木」の文字が確認出来ました。
上三川町道標1.jpg上三川町道標2.jpg
(カラクリ時計の脇に建っている古い道標、東西南北に行先の地名が刻されている)
この道標からもこの場所が、幹線道路の交差点であった事を物語っています。
あらためて明治初期に作られた迅速測図「栃木県下野国河内郡上三川村」を確認してみると、街の中央を白鷺神社を迂回しながらも南北に縦断する道路には、「従宇都宮至結城町道」(宇都宮より結城町に至る道)と記され、道標の建つ交差点で東西に街を横断する道路には、「従眞岡町至石橋驛道」(真岡町より石橋町に至る道)と記されています。この交差点から東に向かう道路は、現在ではセンターラインも無く、車がすれ違うのがやっと出来る程度の道幅で、恐らく昔のままでしょうが、通りの名前は「城址公園通り」と成っています。
城址公園通り.jpg
(真岡方面への道、街路灯に「城址公園通り」と出ている)
名前の通り交差点から200メートル程行くと左手に「上三川城址公園」の入り口が有りました。
入口から入ると駐車場が有り、「上三川城」の案内板が立っています。
≪上三川城は建長元年(1249)、宇都宮氏の一族である横田越中守頼業が築いた城で以来、慶長2年(1597)に芳賀高武に攻められて落城するまで、348年間続いた城です。(後略)≫との説明が記されていました。
上三川城址1.jpg上三川城址2.jpg
(城址公園入口駐車場に建つ説明板)(入口の堀に架かる橋)
城址公園は上三川城の本丸跡で周りは土塁と堀が巡り、中は現在芝生広場に成っていました。
上三川城址濠1.jpg上三川城址濠2.jpg
(城址公園の周りを囲む堀、東側と西側を北側より撮影)
道路元標の脇に建つカラクリ時計、説明板に演奏時間1日5回と記され、午後3時にも演奏されると成っていました。折角だからとその時間にカラクリ時計の前に、3時に成るのを待ちました。どんな曲が流れるのか、どんな動きをするのか楽しみに待ちましたが、時計の針が3時を過ぎても演奏は始まりませんでした。
上三川町からくり時計3.jpg上三川町からくり時計2.jpg
(カラクリ時計)
少し残念な気持ちを残して、上三川町を後にしました。




nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0