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錦着山に建つ句碑 [石碑]

錦着山はその形が巾着に似て、春には桜やツツジの花が全山を錦に彩る所から、錦着山と呼ばれるようになったと言われています。以前は所在地の名をとって、箱森山などとも呼ばれていた様です。
1980年錦着山全景(バイパス歩道橋上より).jpg
(1980年に栃木環状線薗部町歩道橋上より、錦着山を撮影)
1980年ツツジの錦着山.jpg1980年錦着山ツツジのトンネル.jpg
これらのツツジの花に彩られる錦着山の写真は、私が1980年に撮影したものですが、此の頃はまだツツジの木も元気が有った様で、現在は少し花が少なくなった気がします。
2016年4月錦着山の桜.jpg
(2016年の桜の錦着山、西側の永野川堤から撮影したものです。)
錦着山の標高は80.5メートル、山頂に三等三角点が建てられています。
三等三角点錦着山1964年8月撮影.jpg
(1964年8月に撮影した錦着山上の三角点。現在も変わっていません)
山上に祀られている護国神社は、明治十二年に初代栃木県令の鍋島幹が、大参事藤川為親や小参事柳川安尚ら朝野の有志と図り建立したもので、当時は招魂社と言い、栃木及び下都賀郡内で、西南の役や日清・日露の戦役で没した勇士の霊が祀られ、その後は上海、満州、日支事変の戦没者の英霊も合祀されています。現在社殿の両側には「日露戦役忠魂碑」「支那事変大東亜戦争戦没者慰霊碑」など多くの慰霊碑が建てられています。
2013年7月護国神社(錦着山).jpg
(錦着山の山上に祀られている護国神社)
2013年7月護国神社2(錦着山).jpg2013年7月護国神社1(錦着山).jpg
(護国神社の社殿両側には、数多くの戦没者の慰霊碑が建てられています。)
他にも山上には多くの石碑が建てられていますが、風化が激しく碑文の判読が出来なくなっている碑や、又、篆額の文字が何と読んで良いのか判らない碑も多く有ります。
そんな石碑の中に、山の東側中腹辺り、坂道の脇に建つ少し小ぶりの自然石に文字を刻した1基について、今回確認をしました。
錦着山の句碑1.jpg
(錦着山の東面中腹に建つ句碑)
碑の表面には「俥から 所在見上げる 雲雀かな」の俳句が刻されています。
碑の右下部分にこの句を詠んだ俳人の号と思われる「耕圃」の文字を読む事が出来ます。又、碑陰にも何やら刻されておりますが、ハッキリ確認出来ません。ただ最後の部分に「昭和二十九年七月七日建之」の文字が確認出来ました。
錦着山の句碑2.jpg錦着山の句碑3.jpg
(碑面)                         (碑陰)
碑面に刻されている「耕圃」と言う俳人はどんな人なのか、調べてみました。
「目で見る栃木市史」の中に、郷土の俳人と言う資料が有りそこに、「おろす帆の 結句めて度き 田面かな  耕圃 (薗部 前橋定治)」の句が掲載されていました。
それでは、この「前橋定治」と言う人はどんな人物なのか。最近発行された「石崎常蔵著 栃木人」に「栃木倉庫銀行専務」として紹介されていました。
「明治三年(1870)8月、当時の薗部村に生まれ、栃木町収入役と成り、その後その職を辞して、明治38年から大正3年、栃木町最初の耕地整理事業を委員長として完成させ、百有余町の美田をつくり県南地方の農業を著しく進展させた」と記しています。その他にも、栃木倉庫銀行を栃木町萬町に開業し専務取締役に就任、また、明治40年9月郡会議員、大正6年には町会議員になり、地方政治活動に手腕を発揮しています。又同大正6年には栃木商業会議所副頭取、昭和4年(1929)4月顧問、また俳人(号、耕圃)等多方面に輝かしい経歴を持つ人物で有る事を知る事が出来ました。 
錦着山の路傍に建てられた小さな句碑から教わりました。

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