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栃木市大平町蔵井の明治天皇遺蹟 [石碑]

栃木市大平町蔵井に、明治天皇が御野立された地を記念して建立された石碑が、良く管理された状態で残っています。
蔵井の天皇遺蹟.jpg
(大平町蔵井の東端の地に建つ、護国殿や石碑)
私がこの石碑に初めに出会ったのは、3年程前の事に成ります。大平町の東域を流れる巴波川と永野川の二筋の河川の中間部を北から南に縦断する様に流れる杣行木川(そまゆきがわ)を、流れに沿って歩いた時でした。
石碑の建っている所は、大平町蔵井の東端、大平町上高島との境界近くに有ります。上高島の集落の中に鎮座している鹿島神社の前を東西に走る道路を、西方向に200メートル進むと、杣行木川に架かる橋の上に出ますが、その橋の北東側橋詰に成ります。
上高島の鹿嶋神社.jpg杣行木川に架かる橋.jpg
(大平町上高島の鹿島神社)       (鹿島神社の西方を流れる杣行木川に架かる橋)
それでは石碑を見て行きます。3年前に撮影した時には、まだ石碑にそれほど興味が無かったので、碑面に刻された文字をどう読んだらいいか分かりませんでした。最近、天皇の聖蹟を記念して建てられた石碑を見て歩き、そこに刻された漢字の読み方も大分理解して来ました。
この石碑正面の文字は「篆書体」で「天皇駐蹕之所(てんのうちゅうひつのところ)」となります。
蔵井の天皇駐蹕記念碑.jpg天皇駐蹕之所(大平町蔵井).jpg
(「天皇駐蹕之所」と刻された石碑)          (碑陰に刻された碑文を書き写しました)
石碑の裏側に刻された碑文には、
≪惟レ明治四十年十一月陸軍大演習ヲ常毛ノ野ニ挙行セラルルニ際シ 畏クモ同月十六日 天皇陛下 下都賀郡瑞穂村大字蔵井ノ地ニ御野立アラセラレテ親シク諸兵ヲ統監シ給フ・・・・・・(後略)≫と、記されています。
この、明治40年11月の陸軍大演習に関しては、茨城県の結城小学校に大本営を置き、栃木県の南部から茨城県結城市を中心に挙行されたものです。
栃木市史では、栃木中學校(現栃木高等学校)を行在所や大本営を置いて行われた、明治32年の近衛師団機動演習での明治天皇の栃木行幸や、大正7年の陸軍特別大演習での大正天皇の栃木行幸については、記されていますが、この明治40年の件は載っていません。
田代善吉著の「栃木縣史・皇族系図編」によると、「明治40年11月16日に明治天皇が栃木停車場より馬車にて、藤岡街道に出て、瑞穂村蔵井の林間に設けられた「御野立場」に午前10時に到着。終始大演習を御統裁。午後3時30分、「御野立場」を後に、栃木停車場より結城行在所に御還幸された。」事が記されています。
石碑には更に下記の如くあります。
≪・・(前略)・・・・記念ノタメ此故ヲ以テ瑞穂南尋常小學校建設シ御駐蹕ノ碑ヲ御野立場ニ建テ 聖駕ノ蹟ヲ不朽ニ傳フト共ニ・・・・・(後略)≫
瑞穂南尋常小學校は明治43年、瑞穂西尋常小学校と瑞穂南尋常小学校を統合して建てられています。
ちなみにこの碑文の撰文者は、当時の下都賀郡長吉屋雄一(女流作家、吉屋信子の父)。
石碑は明治44年、瑞穂村による建立です。

現在、陸軍大演習が展開された地域は、昭和40年代の土地改良事業により大きくその姿を変え、瑞穂南尋常小学校は大正13年名称を「瑞穂南尋常高等小学校」と改称、その後の昭和6年4月17日に瑞穂東尋常高等小学校、同校川連分教場と一緒に廃止され、瑞穂村全村一校となり「瑞穂尋常高等小学校」と称し、現在の大平東小学校の地に移されてます。

一方、この時大本営が置かれた茨城県結城市の地は何処なのか先日現地を訪問して来ました。
結城小学校はその東側に結城城址、西側には市役所、南側に県立結城第一高校が隣接する中心地に有りました。その小学校の南西部、御幸通りと玉岡通りとの交わる辺りに現在「文化の広場」と称して整備した地に、「明治天皇結城大本営」の碑を初め、「日露戦役記念」の忠魂碑、「駐蹕之遺蹟」の石碑の他、「結城行在所跡」の説明板などが建てられています。
結城の明治天皇大本營.jpg結城の駐蹕之遺蹟.jpg
(結城小学校の南西部「文化の広場」) (「駐蹕之遺蹟」碑、後方に結城小学校が有る)
駐蹕之遺蹟(結城市).jpg
(「駐蹕之遺蹟」碑陰に刻された碑文を書き写す)
結城諸学校門柱.jpg結城小学校正門.jpg
(行在所が置かれた結城小学校の門柱) (結城小学校正門)

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