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人目に触れることなく、山中に建つ石碑 [石碑]

今回紹介する石碑は、「目で見る栃木市史」の中にも掲載されている、太平山中の古戦場跡「草鞍山千人塚」に、昭和7年5月地元皆川村仏教会の8寺院と草鞍山の土地所有者2名とが発起者と成って、建立された「天正年間草鞍戰死諸靈碑」です。
千人塚の碑1.jpg
(草鞍山千人塚に建てられた「天正年間草鞍戰死諸靈碑」)

上記「目で見る栃木市史」には、石碑の写真と共に「(六)古戦場 1.大館山・草鞍山古戦場」と題して、次のような説明が乗っています。抜粋させて貰います。
≪天正12年(1584)北条氏直が来襲したとき、皆川方が拠点とした一つである。岩船山、富士浅間、太平山等の防禦線が破られたあと、大館山を中心に激戦がつづいたがやがてこれも陥ち、戦場は角堂山にうつり、さらに草鞍山方面へうつった。いまの栃木カントリークラブのコースあたりはそのとき両軍が争奪をくりかえした戦場であった。草鞍山は敵方・味方を問わずその戦死者を葬った塚があるところで、千人塚という地名が生じた。≫
栃木市内の石碑を見て歩いている私にとっては、以前から是非現地を訪れたいと、ずっと思っていたところに成ります。ただ草鞍山が太平山中のどこに有るのか分からなかった。
「草鞍山千人塚」の場所が確認できたのは、平成27年3月皆川地区街づくり協議会歴史文化部が発行した「皆川の歴史と文化」という全紙サイズのパンフレットでした。そこには皆川地区のマップ上に、地区内の社寺や歴史遺産等の所在を記してあり、「3.千人塚(草倉山古戦場)」として、「栃木カントリークラブ」と「太平台カントリークラブ」のゴルフコースに挟まれた、山中に③の番号が記されていました。
皆川の歴史と文化.jpg草鞍山案内.jpg
(「皆川の歴史と文化」表紙部分)         (皆川地区マップの千人塚を記した部分)

目的の石碑の建つ場所は分かりましたが、その場所へ行くルートを探さなければ。その場所は二つのゴルフ場のコースに挟まれた場所の山の中。夏場では雑草や木々が茂って視界が悪くなりそう。蛇や山蛭などに遭遇するのも嫌なので、行くとすれば冬場と決めた。
最初にトライしたのは1年前、現地に入れそうなルートを見つけ向かった。しかし栃木市の山間部はどこもそうであるが、イノシシやシカから田畑を守る為、里山の周辺はフェンスや電気柵で防禦しています。
私が入ろうとした山道もフェンスが設けられ閉鎖されていました。
里山を囲むフェンス.jpgフェンスで閉鎖された山道.jpg
(フェンスで囲まれた里山)             (千人塚への道もフェンスで閉鎖)

そこで、ゴルフコースを横切って行けるか、栃木カントリークラブのクラブハウス受付に出向いて、事情を説明したが、ゴルフコース内を横断するのは危険と言う事と成り、断念をしました。

そして1年が経った先日、「皆川の歴史と文化」を作成発行を行った、皆川地区街づくり協議会歴史文化部会のメンバーの方の案内で、皆川城内町の神社仏閣を巡った際、傑岑寺ご住職のお話を伺う事ができました。そのお話の中に、「草鞍山千人塚」の事が図らずも出てきました。
傑岑寺本堂.jpg傑岑寺墓地より草鞍山方向を望む.jpg
(杉木立等に囲まれた傑岑寺本堂)      (傑岑寺より南南東、太平山方向を望む)

そこで、「歴史文化部会」の方に、千人塚に建つ石碑へ行く方法を確認して、早速行ってきました。
問題のフェンスの鎖を解除して中に入り、フェンスを開放することなく又、鎖で止めて山の中へ入りました。中に入るとイノシシを捕獲する為に仕掛けられた檻が有りました。
イノシシ捕獲用檻.jpg枯葉で滑る山道.jpg
(山中にはイノシシ捕獲用檻が仕掛けられている)(山道は落葉で滑り易くなっています)

暫らく行くと、山道の直ぐ脇まで栃木カントリークラブのゴルフコースが迫っていて、ゴルフを楽しんでいる姿が有りました。しかしコースの周辺には電気柵の電線が張り巡らされており、ゴルフ場に入れない様になっていました。
山道近くまで迫るゴルフコース.jpg電気柵でコースには入れない.jpg
(ゴルフコースが道路脇まで迫っている)    (電気柵でコース内には入れません)

更に山道を進むと、ゴルフ場から遠ざかり雑木の真っただ中を登ります。落葉で覆われた山道は滑りやすく足を取られます。入口からおよそ15分程歩いていくと、前方の木々の間に石碑の黒い影が見えてきました。
前々から来て見たかった石碑の前にやっと立つことが出来ました。

碑表.jpg碑陰.jpg
(碑表、逆光に成って見難い)        (碑陰、中央部に「建碑寄附及び発起者の名前)

石碑表に近づいて題字を確認します。石碑中央に大きく「天正年間草鞍戰死諸靈碑」の文字。その上に梵字でしょうか、一字陽刻されています。題字の向かって左横に少し小さい字で、「廣照十二代之孫 皆川庸一書」と、揮毫した人物の氏名が刻まれています。
碑の題字.jpg題字揮毫者.jpg
(「天正年間草鞍戰死諸靈碑」と大きく陰刻)  (「廣照十二代之孫皆川庸一書」とある)

碑陰の情報を見ると、石碑の建立は「昭和7年5月吉日」と成っています。皆川の瀧青年会が建碑に当たっての労力奉仕をしています。又その後の管理も担当するようになっています。「瀧青年会」は建碑された草鞍山の西側に位置する、皆川城内の字「滝の入」の組織でしょう。
建碑された通称「千人塚」の土地所有者2名からそれぞれ、「壹畝歩」(30坪=約99.2㎡)の土地の寄附を受けています。発起者は当時の皆川村8寺院と上記土地所有者2名。石工は栃木の岩崎重明氏です。
碑陰上部.jpg碑陰下部.jpg
(碑陰上部、「建碑寄附」者名が並ぶ)  (碑陰下部、「發起者」の名前が並ぶ)

私が期待をしていた、千人塚の名前の由来などを記した碑文は、刻まれてはいませんでした。

皆川氏を扱った軍記本「皆川正中録」の「巻之三」に、ここ「草倉山の戦い」の話が出ています。「皆川勢草倉に出張之事」の一部抜粋してみます。軍記物だけに読むと面白いものです。

≪皆川山城守広照は七月十八日早天、草倉を以て防禦の地点と定め、これが大将としては家老客分たる牛久大和守吉隆・関口石見守盛綱、総奉行として佐山信濃守政道、その他 (中略) 名将勇士三百騎、軍師として安塚内匠介・片柳兵庫等総勢八千余騎なり。
 皆川家の定紋打ちたる左二ツ巴の旗数十旒、その他家々の旗幟幾百となく朝風に翻し、陣幕広く打廻し鉄砲の筒先を並べ弓を張り威風凛々と待受けたり。
 城内にては山城守広照水浴して身を潔め、石裂山に向って合掌なし
 何卒急難を救い給へ
と一心不乱に念じければ、不思議や北の方より朝霧深く立こめて皆川城の上より草倉山の頂上まで押つゝみ、城内の様子更に見えざりけり。
小田原方は太平山に陣取りて、山上より城内の動静を窺はんとすれども測りしれず、しばし躊躇の体なりしが、北条左京太夫氏直は自ら陣頭に進み、軍兵を励まし鬨の声を放って山上より一度にドッと攻め下る。
 此時草倉に控へし皆川勢スワとばかりに相応じ、挑み合ひしが、氏直大音にて、
 矢車に時うつすな槍を進めよ
と下知しければ、小田原勢六百余騎虎豹の如くにひきつれて突かゝる皆川勢も心得て犇めき叫ぶその中にも高嶽靭負・塩田小次郎・板垣六郎太郎・早乙女弥七・塩田又次郎等四五十騎抜きつれて切りまわり火花を散らして戦ふうち、小田原方は、後陣の内より鉄砲の選手二・三十人小高き所より発砲しければ、この筒先に塩田又次郎・早乙女弥七・板垣六郎太郎・村上文四郎等の勇士をはじめ雑兵数多斃れたり。・・(後略)≫

此の「皆川正中録」は、何時頃誰によって書かれた物かハッキリしていません。江戸時代中頃の作品とも言われます。歴史上実際に有った事をベースにしているものの、軍記物として創作・装飾されたところも多々有る様です。この軍記物、講談師に演じて頂ければ、さぞかし聴きごたえの有る話になりそうです。

石碑に有る「天正年間」とは、広辞苑を引くと≪安土・桃山時代、正親町・後陽成天皇朝の年号。1573年7月28日~1592年12月8日≫の期間。そして、天正元年(1573)は廣照の父俊宗が、北条氏との戦いに戦死をし、皆川広照が皆川城主となった年。同時に15代将軍足利義昭が京都から追放され、室町幕府が滅亡した年です。
そして天正十年(1582)6月2日、本能寺の変で織田信長が明智光秀の軍に急襲され、自害しています。
天正年間は日本の中央においても、一地方の栃木においても、動きが慌ただしくなっている時代でした。

「皆川廣照伝」を著わした近藤兼利氏は、その著書の中の「第三・考察 二、草倉戰考」にて、次の様に書き出しています。
≪天正十二、三年の頃、小田原の北条氏政、氏直親子が大挙して下野国に来り、藤岡城附近に集結し、先ず一部を先遣して太平山の皆川の出城を奪取して太平山を焼払い、次で主力も山を占領して皆川城に向い攻撃を開始した。広照また全力を提けて出動し共に主力を以て草倉に決戦を展開する。激戦数回、三月に亘って戦い尚勝敗定まらず、多数の死傷者を出して休戦となった。講和に当り氏政の養女を広照の側室となし北条、皆川今後提携すべきを誓ったという。・・・(後略)≫そしてこの草倉の戦いについて詳細に考察を進めていますが、ここでは省略します。ぜひ原本をお読みください。

太平山の北麓、草倉山の山中に建つ一基の石碑、今私達の記憶から忘れ去られようとしている。ただ現在も、最寄りの寺院となる傑岑寺においては、毎年9月16日に草倉山戦死者の霊を弔う施食会を執り行っていると、先の住職のお話の中に有りました。

参考資料:
 ①目で見る栃木市史(編集、栃木市史編さん委員会)
 ②皆川の歴史と文化(編集、皆川地区街づくり協議会歴史文化部)
 ③日向野徳久考註「皆川正中録」(考訂並考註、日向野徳久)
 ④皆川廣照伝(編者、近藤兼利)
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風野 傑

拝読させて頂きました。
祖先は栃木市の風野村出自の様ですので共感を持って読ませて頂きました。機会有れば訪ねてみたいと思います。
貴殿のブログは以前から読ませていただきました。素晴らしい歴史感には感服してます。
by 風野 傑 (2021-06-20 17:12) 

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