太平山神社の三光台 [懐かしい写真]
私が若かった頃撮影をした写真帳の中に、太平山神社で写した少し変わった写真が出て来ました。
1973年7月に撮影をしたもので、現在では既に無くなっている、太平山神社拝殿前の表参道の石段を登って来た脇に有った建物の中に飾られていた奉納額の写真です。
(数多くの奉納額が掲示された建物の内部)
建物外観の写真は写していませんでしたので、記憶の中に僅かに残っているだけです。上の写真を見ると、吹き抜けの窓の外に少し写っている建物は、拝殿の前に出る時最後に潜る門で、太平山神社のホームページの中で納められたいる「太平山ハイキングMap」に「勅使門」と説明されている朱塗りの門と思われます。
(表参道石段の奥に見える朱塗りの門) (勅使門を潜ると拝殿の前に出る)
明治45年7月17日、栃木理髪業組合が創立10周年を紀念して奉納した「大鏡」。
その鏡の中にも多くの奉納額が写って見えています。他に「花鳥百人一首」と題した奉納額も有りました。
上の写真に見える奉納額は、栃木県河内郡薬師寺村大字仁良川の金子傳吉さんが、明治25年9月18日に奉納したもので、太平山神社表参道の様子を描いた絵です。「神橋」「隨神門」「鳥居」など明治中期の表参道の姿を窺い知ることが出来ます。
昭和9年6月10日田代善吉著、下野史談會が発行した「栃木縣史 神社編」の第四節に「縣社大平山神社」の中に神社の建築物について記されています。そこには
・境内は 壹萬六千四百二十五坪
・御本殿 明治十四年の新築 六坪
・御拝殿 明治九年新築 總坪十五坪
・社務所 天保十年六月建設 總坪数三十三坪
・神楽殿 明治六年六月建設 總坪 六坪
・隨神門 享保八年八月建設 二階建十坪六合
・納額殿 嘉永元年七月建設 二十一坪六合
・神 橋 延寶五年八月建設
・水 屋 嘉永五年八月建設
この中で、本殿や拝殿・社務所・隨神門は、ほぼそのままの姿を現在に残していると思いますが、「神楽殿」は場所を少し後方に引き、リフォームして現在は「福神社」となっています。従って現在も代々神楽の奉納はこの社殿で行われている様です。
(1966年3月撮影、神楽殿) (2013年1月撮影、福神社)
表参道の中ほどに架けられていた「神橋」は、1981年撮影した時はまだ鮮やかな朱色と黒の擬宝珠を持つ橋が架かっておりましたが、今年(2018年6月18日)訪れた時は、その姿は無く丸太3本を渡した「仮橋」に成っておりました。
(1981年撮影、太平山神社の神橋) (2018年撮影、丸太3本を渡した仮橋)
上記の建物の名前の中に「納額殿」と称する嘉永元年(1848)に建てられた建築物は何処に有ったのか、最初に私が撮影した奉納額が多数飾られていた建物がこの「納額殿」だったのかも知れません。1958年頃の太平山神社社殿群の写真の中に、拝殿と向かい合う建物が「納額殿」に当たるか?現在は「三光台」となっています。
(1958年頃の社殿群、左側建物が「納額殿」か) (2018年現在の状況、左側「三光台」)
三光台は昭和49年(1974)12月に竣工してから、太平山神社の行事の会場などに使われて来ています。
(太平山神社では一年間を通して多くの神事・祭事が行われています)
又、晴れて空気の澄んでいる日には、三光台より筑波山の霊峰も手に取る様に望む事が出来ます。
(三光台より東南東方向を望むと、霊峰筑波山が関東平野の奥に見えます)
この「三光台」の三光とは、太平山神社に祀られている「日・月・星」の三座の神様で、太平山神社はかつては「三光神社」とも称されていました。表参道の三の鳥居の神額にはこの「三光神社」の名称が記されています。
(「三光神社」の神額が掲げられている、三の鳥居)
※参考文献:太平山神社ホームページ、田代善吉著「栃木縣史・神社編」、栃木市勢要覧
1973年7月に撮影をしたもので、現在では既に無くなっている、太平山神社拝殿前の表参道の石段を登って来た脇に有った建物の中に飾られていた奉納額の写真です。
(数多くの奉納額が掲示された建物の内部)
建物外観の写真は写していませんでしたので、記憶の中に僅かに残っているだけです。上の写真を見ると、吹き抜けの窓の外に少し写っている建物は、拝殿の前に出る時最後に潜る門で、太平山神社のホームページの中で納められたいる「太平山ハイキングMap」に「勅使門」と説明されている朱塗りの門と思われます。
(表参道石段の奥に見える朱塗りの門) (勅使門を潜ると拝殿の前に出る)
明治45年7月17日、栃木理髪業組合が創立10周年を紀念して奉納した「大鏡」。
その鏡の中にも多くの奉納額が写って見えています。他に「花鳥百人一首」と題した奉納額も有りました。
上の写真に見える奉納額は、栃木県河内郡薬師寺村大字仁良川の金子傳吉さんが、明治25年9月18日に奉納したもので、太平山神社表参道の様子を描いた絵です。「神橋」「隨神門」「鳥居」など明治中期の表参道の姿を窺い知ることが出来ます。
昭和9年6月10日田代善吉著、下野史談會が発行した「栃木縣史 神社編」の第四節に「縣社大平山神社」の中に神社の建築物について記されています。そこには
・境内は 壹萬六千四百二十五坪
・御本殿 明治十四年の新築 六坪
・御拝殿 明治九年新築 總坪十五坪
・社務所 天保十年六月建設 總坪数三十三坪
・神楽殿 明治六年六月建設 總坪 六坪
・隨神門 享保八年八月建設 二階建十坪六合
・納額殿 嘉永元年七月建設 二十一坪六合
・神 橋 延寶五年八月建設
・水 屋 嘉永五年八月建設
この中で、本殿や拝殿・社務所・隨神門は、ほぼそのままの姿を現在に残していると思いますが、「神楽殿」は場所を少し後方に引き、リフォームして現在は「福神社」となっています。従って現在も代々神楽の奉納はこの社殿で行われている様です。
(1966年3月撮影、神楽殿) (2013年1月撮影、福神社)
表参道の中ほどに架けられていた「神橋」は、1981年撮影した時はまだ鮮やかな朱色と黒の擬宝珠を持つ橋が架かっておりましたが、今年(2018年6月18日)訪れた時は、その姿は無く丸太3本を渡した「仮橋」に成っておりました。
(1981年撮影、太平山神社の神橋) (2018年撮影、丸太3本を渡した仮橋)
上記の建物の名前の中に「納額殿」と称する嘉永元年(1848)に建てられた建築物は何処に有ったのか、最初に私が撮影した奉納額が多数飾られていた建物がこの「納額殿」だったのかも知れません。1958年頃の太平山神社社殿群の写真の中に、拝殿と向かい合う建物が「納額殿」に当たるか?現在は「三光台」となっています。
(1958年頃の社殿群、左側建物が「納額殿」か) (2018年現在の状況、左側「三光台」)
三光台は昭和49年(1974)12月に竣工してから、太平山神社の行事の会場などに使われて来ています。
(太平山神社では一年間を通して多くの神事・祭事が行われています)
又、晴れて空気の澄んでいる日には、三光台より筑波山の霊峰も手に取る様に望む事が出来ます。
(三光台より東南東方向を望むと、霊峰筑波山が関東平野の奥に見えます)
この「三光台」の三光とは、太平山神社に祀られている「日・月・星」の三座の神様で、太平山神社はかつては「三光神社」とも称されていました。表参道の三の鳥居の神額にはこの「三光神社」の名称が記されています。
(「三光神社」の神額が掲げられている、三の鳥居)
※参考文献:太平山神社ホームページ、田代善吉著「栃木縣史・神社編」、栃木市勢要覧