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第6回栃木市民スポーツフェスティバルを観戦しました [祭]

昨日、8月19日に開会式が行われた栃木市民スポーツフェスティバルが、のべ4日間の日程で栃木市総合運動公園を中心に、多くの競技種目で猛暑を吹き飛ばす様な熱戦が繰り広げられ終了いたしました。

今年の開会式は、例年の陸上競技場が工事で利用できない為、本球場で執り行われました。又、例年は栃木市内の体育協会の各支部の選手役員の入場行進で始まりましたが、今年は猛暑の中での式典との事で、入場行進や式進行も短縮した形で実施されました。

開会式の後は、9時30分ごろから社会人軟式野球・ソフトボール(壮年男子と一般女子)・フットベースボール(一般女子と学童)・ソフトテニスの競技が各会場にて戦いの火蓋が落されました。更にレクリェーションとして綱引きや玉入れそして長縄とびの3競技に小学生や一般男女が参加し、体育館内で始まりました。
各競技の選手さんは、それぞれ地域の為に、優勝10点・準優勝8点・3位6点の得点を目指し、力を合わせて頑張っていました。
長縄とびは全員が気持ちを一つにして揃って飛ぶのが、意外と難しいものだなと見ていて感じました。
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(体育館で行われたレクリエーション競技の一つ、長縄とび)

私も3日間各競技会場を巡って、地元のチームの応援をしました。会場が運動公園とは別だった、8月20日のゲートボール(会場は泉川町の栃木市屋内運動場)と、8月26日のターゲットバードゴルフ(会場は都賀町赤津ターゲットバードゴルフコース)の2競技は残念ながら観戦しませんでした。8月25日は土曜日の為か、行われた競技も3種目と少なかったので、ジックリと観戦できました。

ソフトボールは40歳以上の壮年男子と一般女子、初日に1回戦がそして最終日26日に準決勝・決勝が行われ、炎天下の中熱戦が繰り広げられていました。
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(ソフトボール壮年男子、ベテランの選手たちが汗を流して走り回っていました)
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(ソフトボール一般女子、スピードの有る投球。私にはとても打てそうに有りません)

オープン競技のフットベースボールは、一般女子と学童の2種目が行われました。この競技をジックリ見るのは今回初めてで、競技ルールも知りませんでしたが、独特のルールで最初良く飲み込めませんでしたが、見ていると結構楽しめました。
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(フットベースボール学童、勢いよくボールを蹴り上げていました)
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(フットベースボール一般女子、優勝の喜びを爆発させていました)

多目的広場で行われたゲートボールは競技開始が8時30分と早かったですが、それでも早朝から多くの選手が会場入りして、暑さを凌ぐ為木陰を選んで支部毎に集まっていました。
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(グランドゴルフ開会式)
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(多目的広場一杯に設定されたコースに、多くの選手が技を競っていました)

学童軟式野球は支部内のチームの連合も有り、ユニホームの違いが有りますが、プレーは良く連携して戦っていました。5・6年生だけと思わせる体格のチームや、まだ小さな学年の児童も参加するチーム、そして女の子も頑張っているチーム等色々です。
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(学童軟式野球、本球場でも試合が行われました)(この選手なかなかの強打者の様です)
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(学童軟式野球表彰式、優勝したのは第10支部の吹上地区でした)

体育館の主競技場では、25日にバレーボール(一般女子)が、26日はソフトバレーボール(一般女子と男女混合)が行われていました。バレーボールは9人制、最近は6人制が主流と思いますが、私が中学・高校の頃はこの9人制だったので、サーブ権を取らないと得点につながらない、1セット21点とかローテーションしないとか、懐かしいルールです。一方ソフトバレーボールは、4人制でボールが柔らかく大きい。1セット15点でローテーションが有るのは6人制バレーボールに近いかな。こちらもスピーディーな展開で見ていて楽しかったです。
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(9人制バレーボール試合会場の様子)
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(ソフトバレーボールの試合会場の様子)

体育館の補助競技場では卓球競技が行われていました。卓球には硬式とラージボールが有ると言いますが、その違いが良く分かりません。私が中学生の頃は栃木市内に何カ所か卓球場が有りましたから、友達と良く遊びに行っていましたが、あくまでも遊びでした。
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(補助競技場の中では多くの卓球台が並び、激しい戦いが行われていました)

最終日遅くまで試合が行われてたのは、テニスです。テニスの試合会場は観客席にも屋根が無く、全く日陰になるところが有りません。ベンチに座るとそこも焼ける様に暑くなっていました。見ているだけで汗がにじみ出て来ますから、プレーしている選手は尚更大変だなと思いました。
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(テニスコートではまさに炎天下、暑いプレーが展開していました)

見ているこちらも熱中症に成りそうな猛暑の中で、各種の競技が繰り広げられていましたが、選手の皆さんは暑さにも負けず、それぞれの競技に集中をしてプレーしていました。大会の結果はどうなったのか、そこまでは見て来ませんでしたが、途中経過の様子では、各競技優勝の10点や準優勝の8点を多く取っていたのは大平支部でした。昨年第5回大会も大平支部が総合優勝をしていましたから、今年も又かも知れません。ただ今年はこれまでの所、第10支部(吹上地区)も高得点を多く獲得しているので最終的にどうなったか、最終結果がどうなるか楽しみです。
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真岡市長沼の宗光寺 [堂々巡り]

真岡市の南西部、南隣りは茨城県筑西市、西隣りは下野市と小山市に接する地区は、平成21年(2009)3月23日に真岡市に編入されるまでは芳賀郡二宮町、更に遡ると昭和29年(1954)5月3日に、久下田町・長沼村・物部村の1町2村が合併する前の長沼村でした。
現在、二宮町も長沼村もその区域が何処であるか、グーグルマップで検索しても表示してくれません。真岡市内を更に分割して検索するには、かつての大字名に成るのでしょうか、その区割名での検索に成ります。
明治22年(1889)4月1日に長沼村が誕生しましたが、この時合併をした以前の村は、上大曽村・上谷貝村・谷貝新田・砂ヶ原村・青田村・掘込村・大道泉村・太田村・鷲巣村・古山村・西大島村・上江連村の12の地区で構成されていました。
現在のこれら12地区の分布状態を概略図示すると以下の図の如くに成ります。明治初期のそれぞれの境界は、鬼怒川左岸一帯の大規模な土地改良事業が行われて変化している為、昔の姿を留めていないと考えますが、その分布は現状から推察する事は可能でしょう。
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(かつての芳賀郡長沼村12郷の現在の区割り分布概略図)

ただ現在の地域名の中には、かつての太田村の地域を「真岡市太田」で検索しても表示してくれません。その他の11地域は、「真岡市上大曽」とか「真岡市上谷貝」等の名前で全てその地域を確認出来ます。
それでは太田村はどうなったのでしょうか。私は地元に住んでいませんので推測に成りますが、先の概略図に有る「真岡市長沼」の地区が、かつての太田村に比定されるものと考えます。
(財)日本地図センターが発行する、「明治前期測量2万分1フランス式彩色地図」の中に、明治19年1月の「栃木縣下野國河内郡本吉田村及芳賀郡太田村」と題した地図が有ります。
この地図の右下部分に「鬼怒川」の流れが描かれその左岸に「太田村」の文字が見えます。その村名の下に「八幡社」、更のその左下辺りに「大道泉村」の村名も確認出来ます。
ここで「八幡社」と有るのは、長沼八幡宮に成ります。
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(長岡八幡宮の拝殿)                 (春には約350mの参道に桜のトンネルも)

その社殿鳥居の前から南に向かって真っすぐに伸びる道路は参道、更に南に目を向けると地図の右下角近くに、「宗光寺」の文字が記されています。
この「宗光寺」が今回訪れた天台宗の準別格大寺、「新御堂山 円頓止観院 宗光寺」(しんみどうさん えんどんしかんいん そうこうじ)に成ります。
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(宗光寺山門、「新御堂山」の扁額が掲げられています)
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(宗光寺本殿、右手前は新しくなった客殿)
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(手前鐘楼、奥に建つのが阿弥陀堂)
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(山門前から南100mに建つ薬師堂前に聳える大銀杏)(落葉後の大銀杏、その大きさが分かる)

下野新聞社発行の「とちぎの天台の寺めぐり」(天台宗栃木教区宗務所編集)より「宗光寺」の由緒に付いて抜粋させて頂くと、≪宗光寺は嘉祥元年(848)に慈覚大師円仁によって開かれた。建久4年(1193)に長沼宗政の主君である源頼朝の本願により、「新御堂」を建立した。≫と、有ります。
慈覚大師円仁と言えば、その幼少期に栃木市岩舟町の下津原や小野寺にて修行を積み、比叡山にて最澄の教えを受け遂に第三代天台座主に成られました。
由緒は更に続きます、≪弘安9年(1286)に長沼宗光が比叡山よい盛海僧正を迎えて宗光寺を中興した。≫と。ここで最初に出て来た「長沼宗政」とは、下野国大掾小山政光の三男、従五位上、淡路守、五郎左衛門尉です。元暦元年(1184)、芳賀郡長沼郷太田村に「長沼城」を初めて築いたと伝えられています。
長沼城は宗光寺の位置から北東側、北宿集落付近に有った様ですが、現在は城址の姿を全く留めておりません。城址の南側、宗光寺東門脇駐車場から東に、現在轟々と勢いよく流れる用水堀を渡った少し先に、長沼宗光公の墓と伝えられる墓石が一基建っています。
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(宗光寺の東側を満々として水が流れる農業用水路)  (伝、長沼淡路守宗政公之墓)

又、この寺院の名前にもなっている、宗光寺中興「長沼宗光」は長沼系図によると、長沼の祖「宗政」から7代の城主で、従五位下、駿河守、監物、藤五郎。この人無双の豪勇にして世に悪五郎と呼ばれ、鎌倉に出て征夷大将軍久明親王に仕え、軍功により菊紋を賜わりました。後に遁世し鎌倉大御堂に入り、正慶二年(1333)皆川庄筥森に来て、草庵を建てて念仏三昧に入り、観応二年(1351)八月六日79歳で入寂したと云います。栃木市のそれも私の家の近く箱森町内に建つ「悪五郎堂」は長沼宗光の隨身仏といわれる阿弥陀仏と観音の二体を安置し、又悪五郎の霊をも合祀してある。(現在仏像は別に保管されている様です)
※悪五郎堂に付いては、今年7月20日にここで紹介しました。
こうした関係から以前から真岡市長沼の地の宗光寺には興味を持っていた訳です。
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(現在の宗光寺周辺の概略地図)

今回、宗光寺周辺を歩いて回りました。宗光寺の東側を流れる用水の水量の多さに少し恐怖を感じる程、激しく音を発てて流れていました。この水は鬼怒川から取水した物でしょうか。用水路を満々と流れていました。
宗光寺から南西の方向鷲巣に、鷲宮神社が祀られています。
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(真岡市鷲巣の鷲宮神社)
平成二十七年(2015)に本殿を修復し、境内を整備したと云う事で、全体的に整然としていました。参道入口脇に建てられた記念碑に神社の由来等が記されていました。その中で気になったのが、陰暦十一月初酉日例祭(とりのまち)が行われ、神前に鶏卵や、つとっこ(卵の形をした餅を藁づとにいれたもの)を供える古式の伝統が今なお氏子たちによって受け継がれている。と記されていました。この「つとっこ」と言うものがどういうものか見た事が有りませんが、栃木市箱森町の鷲宮神社の秋の例祭の日には、米の粉で作った卵型の団子を藁にくるんだ物が売られ、それを食べると風邪に罹らないと言われています。何か似たものを感じました。
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(栃木市箱森町の鷲宮神社)           (11月の例祭日に販売される米団子)

もう一つ気になった事が、かつてこの地に有った長沼城は、別名その形がきんちゃくに似ていた事から錦着城と呼ばれていたそうです。 そして又、我が箱森町に有る小丘は、同様に形がきんちゃくに似ていた為に、巾着山とか現在では錦着山と成っています。
第7代長沼城主の長沼宗光公がその晩年を過ごした箱森の地、そこには何か彼の地「真岡市長沼」と共通した雰囲気が有ったのでしょうか。

※今回参考にした文献は
  ・栃木の城           編著者下野新聞社  発行下野新聞社
  ・とちぎの天台の寺めぐり  編集天台宗栃木教区宗務所 発行下野新聞社
  ・下野長沼氏          著者江田郁夫   発行戎光祥出版
  ・栃木縣誌           著者舟橋一也   発行歴史図書社
  ・校訂増補 下野国誌    再校訂徳田浩淳  発行下野新聞社
      



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久しぶりのナイトウォーク [歩く]

今年も早いものでお盆が過ぎました。会社によっては9連休と言う長期のお盆休みも、明日が最終日に成ります。テレビのニュースでは、お盆休みを海外で過ごした人達の帰国ラッシュとなっている空港の様子や、故郷に帰省していた人達の、Uターンラッシュが始まった高速道路の様子などが映されています。
そんな今日は、久々の清々しい秋を思わせるような天候に成り、我家では今日一日、クーラーも扇風機もお休みさせる事が出来ました。
先日まで連日猛暑で、空には毎日の様に入道雲がモクモクと湧いていましたが、今日は秋を思わせる空の雲、夕方からは赤く色付き、見事な夕焼けとなりました。
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(夕焼の空をバックに、何やら何羽もの鳥が飛び回っていました)

太陽が沈んだ後は、爽やかな風が残りました。これまで蒸し暑さで外出する事を控えていましたが、今日は久しぶりに夕暮れの街へ、歩きに出かけました。
歩き出すと早速遠くからお囃子の音が、風に載って聞こえて来ました。太鼓の音のする方へ足が向きます。音の出どころは、柳橋町の納涼祭の会場でした。住宅街の空地に櫓が組まれ、紅白の幕そして提灯が下がっています。浴衣姿の婦人や、駆けずり回る小さな子供達。チョッと会場に留まり祭りの気分に浸りました。
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(住宅街の中の広場で行われていた、柳橋町の納涼祭)

そこから又歩いて幸来橋へ回ります。橋の上から巴波川の両岸に並んだ行燈の光りが、川面に映って輝いています。正面上空には、三日月も輝いていました。幸来橋から巴波川左岸の道を、行燈の切り絵を見ながら遡り、倭橋から常盤橋迄遡りました。
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(幸来橋の上から巴波川下流側を)       (倭橋の上より行燈の光りを捉える)

そこから、大通りへ出て北方向へ歩いて行くと、遠くから「アンコール・アンコール」の掛け声が聞こえて来ました。泉町の雲龍寺の方向からでした。こちらでも境内で納涼祭が行われていました。雲龍寺にはこれまで何度も訪れていますが本堂の扉が解放しているのは初めて見ました。そしてその本堂中央奥に鎮座している不動明王像を偶然にも拝む事が出来ました。これはとてもラッキーな事でした。
満足して帰路に付きました。
本日の総歩数は、10,058歩に成りました。久しぶりのウォーキングに満足しました。
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日光市のマンホールカードをゲットしました [マンホールカード]

猛暑が続く中、昨日日光市に向かいました。目的はこの8月11日から配布が始まった、マンホールカードの第8弾で、日光市のマンホールカードが栃木県内唯一発行されたので、さっそく貰いに行きました。
配布場所は、かつて日光街道今市宿で有った現在の日光市今市の市街地に有る、「道の駅日光街道ニコニコ本陣」内の「日光観光情報館」です。ところが行ってビックリです、お盆休みの真っ只中の為か、道の駅の入口には駐車場に入る車の行列が出来てとても簡単には入る事が出来ません。
なんとか駐車して早速配布窓口でカードを受け取ることが出来ました。
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(今回ゲットした日光市マンホールカードの表面と裏面)
マンホールカードのデザインに採用されたのは、日光市の下水道用マンホール蓋の為に、文星芸術大学生が日光の観光名所などの風景を描いたもので、日光連山をバックに大谷川を渡るSL「大樹」が、みどり・きみどり・みずいろなどの爽やかな色使いになっています。
現物のカラーマンホール蓋は、配布先の道の駅入口付近の歩道に設置されていました。
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(実際に設置されているマンホール蓋)   (日光街道ニコニコ本陣入口横の歩道)

これまで日光市では、デザインマンホールは有りませんでした。JIS規格パターンに日光市の市章や「日光市」の文字を表示した数種類が設置されていました。又合併前は今市市では市の花(カタクリ)・木(スギ)・鳥(カワセミ)を描いたデザインマンホール蓋などを設置していますし、カラーマンホール蓋も有ります。
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(これまで設置されている日光市マンホール蓋)(旧今市市内に設置されているマンホール蓋)

今回マンホールカードには採用されませんでしたが、先の文星芸術大学生が描いた日光市内の観光名所の風景画は、全部で5種類のデザインマンホール蓋として製作されたと、今年2月下野新聞紙上に紹介されています。
今回のドライブではすべてを見て回る事が出来ませんでしたが、上記の他の2ヶ所に付いて見て来ました。今市市街から会津西街道を北上、東武鬼怒川温泉駅の近く、鬼怒川渓谷に掛かる「鬼怒楯岩大吊橋」の左岸橋詰近くの道路上に、その一つが設置されていました。
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(鬼怒川ライン下りを描いたデザインマンホール蓋)
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(鬼怒楯岩大吊橋)              (吊橋の下、鬼怒川渓谷を進むライン下りの船)

もう一枚は、鬼怒川温泉から更に北上、五十里ダムの先で会津西街道から左に折れ、湯西川ダムの先、多くのトンネルを抜けた先に有るかつて平氏の落人が隠れ住んだとする湯西川の集落。その「平家の里」の入口前に目的のデザインマンホール蓋は設置されていました。
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(湯西川温泉かまくら祭を描いたデザインマンホール蓋)
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(湯西川温泉は幾つものトンネルを抜けた先に有りました)(湯西川温泉「平家の里」入口前)

残りの二つのマンホール蓋は、中禅寺湖畔の「船の駅中禅寺」付近と、「足尾銅山観光」の施設内に設置されている様です。今度は避暑も兼ねて中禅寺湖畔まで登って、確認して来たいと思います。
そして残りの4種類のマンホール蓋のデザインも早くマンホールカード化される事を楽しみに待ちたいと思います。
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栃木工業高校写真クラブの思い出 [懐かしい写真]

私が写真を始めたのは中学生の頃、家に有ったカメラを持ち出しては、学校の同級生の写真を遊び半分で撮っていました。オリンパスカメラでハーフサイズ、今もネガが保存されています。
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(1965年10月撮影、栃西中の校庭南側に人家は少なかった)(懐かしの木造校舎)

高校に入ると早速写真クラブに入りました。が、その頃1年生では私ともう一人だけ、先輩も数人しか居なかったと思います。最初は本館の化学室(物理室だったか)の暗室を部室として使用していたのですが、その後すぐに教室棟2階西側階段下の収納庫の様な部屋に移動となりました。
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(暗室内での写真の焼付け作業)       (第一回学校公開での写真クラブの作品展)
その頃、顧問の先生は機械材料を教えていた先生でした。それでも先生はあまり顔を出さず、結構勝手に活動をしていた記憶が有ります。
2年生に成った年、電子科に女子の生徒が入学して来て、我が写真クラブにも確か3名の女子が入部して来ました。
私が3年生に成った時も、部員は十数名でしたが、結構まとまりが有って、良く撮影旅行に行っていました。

1968年5月には中禅寺湖に出掛けました。この時は第一いろは坂を歩いて登りました。途中からガスが掛かり視界が悪くなりましたが、その頃はまだ車の通行もそれほど多くなく危険は感じませんでした。(1965年10月に第二いろは坂が開通していたので、従来の第一いろは坂は下り専用に成っていました。)
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(距離の短い第一いろは坂を歩いて登り中禅寺湖へ向かう)
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8月の夏休みには益子町へ撮影旅行。栃木から両毛線・水戸線そして下館駅から真岡鉄道に乗り換えて益子町へ。
ここで初めて登り窯を知りました。ここでも又良く歩きました。西明寺まで道は写真を見ると当時はまだ砂利道でした。畑には1メートル程に育ったタバコが、一面に大きな葉を広げていました。
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(益子の町で初めて登り窯を見る)     (西明寺への道は長閑な自然が溢れていました)
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(西明寺への砂利道を登る)           (西明寺三重塔)

翌1月には宇都宮の二荒山神社の初詣風景を撮影に行きました。そのころ女性は日本髪を結って晴れ着を着て初詣をしていました。
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(上野百貨店屋上より二荒山神社を)    (望遠レンズの先に捕えた被写体は?)
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(昭和40年代の初詣には、和服姿の女性が多く見られました)

あれから早いもので50年の月日が経ちました。最近、昔のアルバムを開くと一枚一枚の写真に撮影をした時の場面がよみがえってきます。そこには懐かしい多くの友の顔が笑顔で並んでいます。
段ボール箱一杯に詰まった写真のネガ、そろそろ処分しようか。
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続く猛暑のなかで [栃木市の神社]

今日、8月1日も早朝から30℃を越える暑さとなりました。
日本一暑い町を競う、埼玉県熊谷市と群馬県館林市、そこに最近は我が栃木県の佐野市の名前も顔を出し始めています。このまま行くと私の住む栃木市も、「今日、最高気温となった町」に名を連ねる様になるのではと心配に成ります。
今、23時に成ろうとしているのに、目の前の温度計は「29.6℃」を表示しています。エアコンの設定温度は「27℃」ですが、部屋の温度はそこまで下がってくれません。扇風機も併用してやっと暑さを凌いでいます。

私が勤務をしていた会社は、エアコンの部品を製造する会社でした。現在のエアコンはオールシーズン対応の空調機(冷暖房・除湿)が主流になっていますが、私が会社に勤め始めた頃は「ルームクーラー」で、冷房専用でしたから、毎年夏が暑くなることを願っていました。長期天気予報で「今年の夏は冷夏になる恐れが有ります」とか出ると、家電メーカーからの注文が少なくなって、減産を余儀なくされました。
生産が減れば、会社の売り上げも落ち、我々従業員の給料や賞与にも大きく影響しましたから。
エアーコンデショナーとなった現在でも、夏の暑さに影響を受けるのは、変わらないかもしれません。数年前の猛暑が続いた年には、家電量販店のエアコンが売れて売れて、売り場から展示しているエアコンまでもが消える事が有りました。今年はどうなのでしょうか。

気になる今後の天候ですが、明日も明後日もこの暑さが続くと言います。そして多少の変動も有りますが、8月いっぱいは暑い日が続きそうだと、天気予報。
こうなると少しでも涼しい所に避暑に行く事を考えますが、日本地図で気温の分布を見るとどこもかしこも真っ赤に塗られています。さらにその上の紫色の地域も広がっています。何処に行っても暑そうです。

あとは神頼みでしょう。毎年8月中旬頃の日曜日に太平山神社では「涼風祭」と言う祭事が執り行われています。神官と氏子の皆さんが、畳3・4枚程の大きな団扇を使って、境内に有る社殿の一つ一つをそして、参拝に来られた皆さんをその大きな団扇で扇いで下さいます。
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(2015年8月9日撮影、太平山神社拝殿等に涼風を送る氏子の皆さん)
そして更に栃木の街に向かって扇いで、太平山から栃木の街に涼風を送られます。栃木の街に住む皆さんが涼しく感じる様に、その風は太平山の山肌を駆け下りて行きます。

早くその日が来ます様に。
太平山神社の「涼風祭」については、2015年8月9日に紹介をした事がありますので、少し写真も重複しています。(初めて涼風祭を撮影したのは、もう35年以上も前の事に成ります)

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(太平山神社本殿に涼風を送る神官と氏子の皆さん)(栃木の街に向かって1・2・3回と大団扇で扇ぐ)
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