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巴波川日記、5年目に入りました。

このブログ「巴波川日記」を書き始めたのは、丁度4年前の2014年9月24日でした。
書き始め当時は、毎日更新を重ねていましたが、それが次第に2日に1回となり、週2回更新となり、最近は週1回の更新も崩れ始めています。当初は撮り溜めた写真も豊富にあり、又それまでずっと温めていた記事も有り、書き続けましたが、現状は書きたいテーマは幾つも有るのですが、バックデータを揃える事に手間が掛かって、なかなかまとまりません。又、年と共に記憶力も低下、集めた資料も何処に書き留めたか、探し出すのに四苦八苦しています。
今日、5年目を迎えて改めて、身近なテーマとその時々の風景などを届けて行きたいと思っています。
そういう事で、写真は今日の我家の周りの、秋の風景3点です。
今、私の住む箱森町は、住宅化の波の中僅かに残された田んぼの畦や、清水川の土手などに彼岸花が満開に成っています。田圃にはたわわに実を付けた稲穂が、頭を垂れています。今年も良く実りました。豊作でしょう。
箱森町の秋景色1.jpg
箱森町の秋景色2.jpg
箱森町の秋景色3.jpg

毎年見る風景ですが、今年はいつもより彼岸花が目につきました。
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鹿沼市中粟野のかかし祭と彼岸花を見て来ました [祭]

鹿沼市中粟野にて、毎年9月に開催されている「かかし祭」に、行って来ました。
鹿沼市口粟野の南のへりを東西に横断する県道15号(鹿沼足尾線)から、粟野川を遡る様に北西方向に伸びる県道246号(草久粟野線)に入り、中粟野に入ります。道路の右側に「遊の郷直売所」が現れます。ここで駐車場に車を停めて、県道の左手奥に目を向けると、稲刈りが済んだ田んぼの先に何やら、等間隔に立っているのが見えます。
入粟野かかし祭.jpg
(県道246号を登って行くと道路左手奥に、沢山のかかしが並んで立っています)

多くの趣向を凝らした「かかし」が並んでいます。今回はどんな作品が出来上がったのか楽しみです。ひとつひとつ見て行くと、なかなか凝った作品が沢山有りました。
やはり「かかし」のモデルとなっているのは、今年色々な事でニュースや話題になった人達でした。
先月日本テレビの番組「24時間テレビ・愛は地球を救う」で、今年はマラソンからトライアスロン方式となり無事に完走を果たした、「みやぞん」さん。かかしの顔の表情や頭の形が本人の特徴を良く表現していて、私の評価では一番の出来と感じました。また、行方不明の2歳の男の子を発見した「スーパーボランティアの尾畠春夫」さんをモデルにした「かかし」は、3作品も出ていました。
みやぞんさんのかかし.jpgスーパーボランティア尾畠さんのかかし3.jpg
(特徴が良く表現された「みやぞん」さんのかかし)(赤いタオルを鉢巻にした「尾畠」さんのかかし)
スーパーボランティア尾畠さんのかかし1.jpgスーパーボランティア尾畠さんのかかし2.jpg
(こちらも尾畠さんをモデルにしたかかし。やはり赤いタオルの鉢巻姿が欲しい)

他には、この9月16日付にて芸能界を引退する「安室奈美恵」さん、プロ野球メジャーリーグで大活躍の「大谷翔平」さん、そして今年8月15日に死去された「さくらももこ」さんの作品「ちびまる子ちゃん」をモデルにした「かかし」なども有りました。
また、シンプルな「案山子」の作品も懐かしく、顔に架かれた「へのへのもへ」がとても愛嬌が有りました。
へのへのもへじ1.jpgへのへのもへじ2.jpg
(やはり、かかしの顔は「へのへのもへじ」が良く似合う)

ユニークなかかし作品を見た帰り、県道246号を約800メートル程戻った道路脇に、火の見櫓が建っています。その道路反対側に脇道が有り、入口に「彼岸花群生地」の大きな案内板が建てられています。
道路脇の駐車スペースに車を停めさせて頂き、見に行きます。
彼岸花群生6.jpg彼岸花群生2.jpg
(彼岸花群生地入口の案内板)   (粟野川左岸に広がる彼岸花の群生地)

群生地は粟野川左岸の雑木林の中に有り、粟野川に架かる「名武戸橋(なぶとばし)」を渡ると群生地に下りる通路が有ります。
まだ少し時期が早かった様ですが、それでも黄緑色をバックに鮮やかな赤い彼岸花が、まさに群生して咲いていました。
彼岸花群生1.jpg
(木々の間に群生する彼岸花、まだ少し早かったかな)

白い彼岸花も咲いていました。実際に見るのは初めてです。
彼岸花群生3.jpg彼岸花群生4.jpg
(赤い彼岸花に混じって、白い彼岸花もポツリポツリ見られました)

日没近く、柔らかな太陽の光が群生地を照らしています。彼岸花が一段と鮮やかに輝いていました。
彼岸花群生5.jpg
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栃木名産「かんぴょう」、夕顔の実の皮剥き天日干し風景 [懐かしい写真]

古い写真アルバムをめくっていたら、今から40年程前の「かんぴょう」生産農家の風景を撮影した写真が出て来ました。その当時は、社会人に成って、宇都宮に通勤するする様になり、電車の窓から見えた風景の一つでした。緑の畑の中に大きく育った夕顔の実。農家の前庭一杯に整然と並べられた細い帯状の夕顔の実。毎年7月から8月にかけて目にした風景でした。
天日干しの為に、1.5メートル程の高さに通された細い竹竿に間隔を空けて掛けられた、約4センチメートル幅に剥かれた白い夕顔の実。その風景を写真に収めたいと、干瓢生産農家にお邪魔して撮影させて貰いました。
夕顔の実を収穫する.jpg夕顔剥き.jpg
(畑から大きく育った夕顔の実を収穫)  (干瓢剥き専用機を使い夕顔の実を帯状に剥く)

天日干し1.jpg天日干し3.jpg
(細い帯状に剥かれた夕顔の実を、家族総出で竹竿に間隔を空けて掛けて行く)

天日干し4.jpg天日干し2.jpg
(青空の下、リボン状に剥かれた夕顔の実が、母屋前の庭一杯に干され白く輝く)

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(天日干しにより乾燥してしわしわとなった夕顔の実)

こんな風景も、現在はあまり目にする事が無くなりました。でもスーパーマーケットに行くと「夕顔の実」の絵が描かれ「栃木名産 干瓢」と印刷されたパッケージに入った商品が並んでいます。生産地住所には「栃木県壬生町」と有ります。
今も県内で生産は続いています。40年前と同様のスタイルで行われているのかどうかは分かりませんが。
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永野川に架かる二杉橋と睦橋 [栃木市の河川と橋]

現在、栃木市街地の西域を流れる「永野川」に渡された橋梁は、錦着山西側の「上人橋」、下って「高橋」そして「睦橋」、次が県道の太平山公園線の「二杉橋」、そして「大柳橋」の5カ所です。この内明治期初期に発行された地形図の中に記された橋梁は、「睦橋」と「二杉橋」の二橋だけに成ります。
実際は仮橋の様なものが架けられていたか分かりません。明治14年(1881)12月17日付けにて、薗部村戸長の篠木惣吉より第二代栃木県令藤川為親宛てに作成された「下都賀郡薗部村・村誌」には、≪長野川渡セシ橋梁≫として下記の記載が認められます。
  字岩崎
  一、板橋 渡り拾間 横六尺
  字坂下ヨリ錦着山通
  一、板橋 渡り拾間 横六尺
  字藪合ヨリ太平山道
  一、板橋 渡り拾間 横四尺
  字坂下同南栃木町道
  一、板橋 渡り拾弐間 横六尺
これら板橋が架けられた場所が、何処に当たるのかは更に調査したいと思っています。

ここでは明治初期作成された地形図に記載された、先の二橋に付いて筆を進めたいと思います。
先ずは「睦橋」です。
現在の睦橋は、平成9年(1997)3月の橋銘板が付いています。架橋場所は明治初期の地形図上に記された架橋箇所とほぼ同一の場所に成ります。
睦橋1.jpg
(現在の睦橋を上流側より撮影、後方は太平山)
睦橋3.jpg睦橋2.jpg
(睦橋東橋詰より上流側を望む。高橋と右手奥錦着山)  (睦橋高欄のモニュメント)
その前の睦橋は現在の橋より下流側に、迂回する様に架けられていました。そして今回新しい橋に架け替える時に、旧橋を残したまま最初の架橋場所に戻したものと考えます。
睦橋周辺概略図.jpg
(睦橋周辺概略図 ( )内は旧字名です)
睦橋4.jpg
(右のメイン道路の先に現在の睦橋、左側の細い道路の先に旧睦橋が有った)
1988年11月睦橋.jpg
(現在は撤去されているが、旧睦橋。1988年11月撮影)
1997年11月旧睦橋.jpg1997年11月新旧睦橋.jpg
(睦橋の脇、永野川沿いの堤道を走る西中生達)(旧睦橋の奥に新睦橋が写る写真)

次は「二杉橋」です。
二杉橋.jpg
(永野川上流左岸より撮影した二杉橋、西橋詰に大きく変わった鳥居が建っています)
現在の二杉橋は昭和60年(1985)3月に竣功しました。架橋箇所は、県道太平山公園線でも有る為、架け替え前と同一ですが、橋の両側に広い歩道部分を確保し、渡る人や車にやさしい橋に生まれ変わりました。
橋の西詰に道路を跨ぐ様に建てられている、太平山神社の鳥居も通過車両に考慮して一段と大きな鳥居に変更されました。
二杉橋高欄.jpg二杉橋橋脚.jpg
(高欄のデザインは何を表しとものか?)  (現在の二杉橋の橋脚と下部構造)

昭和54年(1979)4月に、以前の二杉橋の所で大勢の釣り人が、永野川に釣り糸を垂れている光景を写真に収めていました。
1979年4月永野川.jpg
(二杉橋と下流側大堰との間で釣り糸を垂れる釣り人達。後方は太平山)
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(大勢の釣り人の奥に、架け替え前の二杉橋の姿が写っています。)
1979年4月永野川二杉橋.jpg
(二杉橋の橋脚上に陣取って釣る人も。川の上流側奥に錦着山が見える)
二杉橋(1981年撮影).jpg
(1981年に撮影した架け替え前の二杉橋、左端に鳥居が覗くが小さく分かり難い)

現在の橋が架けられ位置は、架け替え前と同じ所ですが、明治初期作成の地形図に記された橋の位置と異なっています。明治初期に架けられた橋の位置は、現在位置より下流側で、橋の取り付け道路も左岸は橋詰に祀られている二杉神社の南側(現在は北側)を通っていた様です。
二杉橋周辺概略図.jpg
(二杉橋周辺概略図、二杉橋を渡って直線状に伸びる道路が、太平新道)
明治の初期にはまだ太平新道は出来ていませんでした。
その当時の二杉橋を渡る道路は、現在の西中学校の北側、そして栃木商業高等学校の南側を東西に走る道路を西に真直ぐに来て永野川の手前で二杉神社の社殿を避ける様に少し南側にカーブして、永野川を渡っていました。
「二杉橋」については、以前(2016年2月13日)にこの「巴波川日記」にて紹介しましたが、その時は架橋の場所が現在と違っていた事に気が付いていませんでしたので、今回追加して紹介しました。

※今回参考にさせて頂いた資料・文献は、
  ・明治前期測量2万分1フランス式彩色地図「栃木」 (財団法人日本地図センター発行)
  ・村誌 下都賀郡薗部村
  ・薗部乃里 (大塚紀子著)
  ・Google マップ
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