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栃木市細堀町の水田脇に建つ「大川鴻山先生碑」 [石碑]

栃木市内に建てられている石碑を探し求めて、日々市内を歩き回っています。太平山や錦着山をはじめ、第二公園内などは、多くの石碑が確認できます。その他市内の神社仏閣にも必ずと言っていいほど、石碑が建てられています。
これまでもこの「巴波川日記」の中で、幾つも紹介をしてきましたが、今回は細堀町の水田の脇に建てられた石碑です。細堀町は旧栃木市内吹上地区に有り、町の中央を赤津川が北から南に貫流、東側には東北自動車道がやはり南北に走り、東北側に北関東自動車道との栃木都賀ジャンクションが見える。西側には足尾山地の南東端となる、標高183メートルの鴻巣山(別称、富士山)を中心に150メートル程度の低い山々が連なっています。
鴻巣山遠望.jpg
(細堀町の水田から西方の山並みを望む。山頂に展望タワーが見えるところが鴻巣山。写真中央右側、水田の先に石碑が建てられているのが見えます。)

栃木の市街地から向かうと、東北自動車道の狭いアンダーを抜けるか、吹上町から赤津川沿いの道を北上するルートと成る為、赤津川沿いを歩く事以外、私個人では滅多にこの地に踏み入れることは無い場所でした。
その細堀町を地形図で確認をしていたところ、田んぼの道路脇に石碑の地図記号を発見、さっそく現地確認をして写真に収めました。
大川鴻山先生碑1.jpg
(綺麗に整えられた石碑廻り)
石碑の正面上部に、「大川鴻山先生碑」の文字が陽刻されています。
大川鴻山先生碑2.jpg
(顕額の文字は侍従長海軍大将正三位勲一等功三級の鈴木貫太郎による)

碑文.jpg碑陰.jpg
(石碑正面、碑文)             (碑陰には多くの氏名がびっしりと刻されています)

碑文は海軍主計中将従四位勲二等刑部齊の撰並びに書と記されています。
「大川鴻山先生」とはどんな人物なのか、碑文にはその人の生い立ちから、慶応元年(1865)野州吹上村(現在の栃木市細堀町)に生まれる。名は元太郎。少年時代より武道を志し、明治28年(1895)鹿島神伝心影流相伝の免許を受け、秘奥皆伝を許され、第17代を承継しました。武道家として大成、明治31年(1898)に自邸に附設した道場「練武館」を設けています。又、栃木武徳会支部の創立や剣道の中等学校正科編入・剣道型の普及等に力を尽くし、大正6年(1917)武徳会本部大会に際して総裁 久邇宮殿下より精錬證を拝受、大正12年(1923)摂政宮殿下(後の昭和天皇)の拝謁を賜る。身老齢に達しても常に野に在り、地元青年育成に尽くしたこと等、記されています。
大川鴻山先生碑文.jpg
(碑文を書き写しました。ただしカタカナはひらがなに変えています。)

栃木市史(通史編)の「近代教育制度の発足」の項に、この「練武館」の事が記されています。
≪所在 吹上村大字細堀、 師範 大川元太郎、 大川元太郎は鴻山と号した。慶応元年生、明治28年鹿島神伝神影流の免許皆伝をうけ、同31年自邸に道場練武館を設け、剣道を教えた。 その門下の有段者は五十余人にのぼった。≫

碑陰に刻された「門人」を見ると、地元吹上96名を含む200名程の名前が連ねています。その上部には「後援団」として120名(その筆頭に代議士松村光三氏の名前も見られます)
多くの賛同者を得てこの碑が建てられました。碑文の最後の日付けは昭和6年(1931)11月3日と成っています。

大川元太郎が「鴻山」と号したのは、生まれ育った細堀の地から望む「鴻巣山」から採ったのではないかと、これは私の勝手な想像に過ぎませんが。

ちなみに、「大川」という姓は2003年~2004年版の電話帳を見ると61軒、その内細堀町が17軒で一番多くなっています。次に多いのが神田町7軒、3番目が今泉町で5軒となります。
尚、細堀町で特徴的な苗字は「玉田」姓になり、8軒です。少ないですが栃木市全体でも20軒しか見られませんから、4割が細堀町に集中していることに成ります。
昭和33年8月15日近藤兼利氏が著した「皆川廣照伝」の付録「皆川譜代家臣録」を見ると、「大川」姓が3名見えるが、全て細堀村でした。又、「玉田」姓は15名見えますが、その内9名が細堀村に名を連ねていました。

田んぼ沿いに建てられた1基の石碑から、栃木市の一つの歴史に触れることが出来ました。





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