昭和50年代の栃木市 [懐かしい写真]
私の古い写真も、残り少なくなってきました。今回は昭和50年代の巴波川とその分流に架かる橋の有る風景を中心に紹介します。
現在の新生栃木市の人口は、約16万人ですが、昭和50年以降に生まれた人は約40%を占めるまでになっています。今回紹介する風景を知らない人も多くなってきました。
栃木駅近くに有った「イトーヨーカドー」、いつの間にか無くなっていました。そして写真の手前に橋の高欄が写っています。親柱に「とちのきはし」と刻まれています。現在は道路も広がり、橋も暗渠化されて姿を消しています。
室町の元下都賀郡役場跡に作られた公園と瀬戸ヶ原公園との間、巴波川に架けられた「公園橋」、この橋もいつの間にか立派な二連橋の架け替えられていました。現在の「公園橋」がいつ竣工したものか、橋の銘板が見当たらないため分かっていません。市役所の公園管理部署に問い合わせれば分かるのでしょうが、まだそこまでは追及しておりません。
そして、瀬戸ヶ原公園と西側の富士見町の間に架けられた「瀬戸河原橋」も幅が広くなっていました。
下を流れるのは直ぐ上流側の堰から巴波川の水を分流している、通称「九十九曲り用水」で、下流の沼和田町や大平町の牛久・川連・土与の一帯の農業用水となっています。
次の写真も同じ九十九曲り用水に架けられた「新開橋」から、下流側を写したものです。左岸(左側)に栃木カトリック教会が見えます。用水掘りは新開橋の下流部で又、分流されています。
右側は「富士見橋」に向かって流れ、左側の流れは教会の南を流れ、旧日光例幣使街道の脇を流れ、更に南流して栃木駅の南、上牛久方面に流れています。最初の「とちのきはし」も、この用水堀に架かったものでした。
この「新開橋」の東側橋詰の石碑が1基建っています。正面に「新開橋架橋記念碑」と刻されております。裏面に「工事費之内寄附者連名」と題して多くの方の名前が記されています。「昭和5年5月18日建之」と有ります。現在の「新開橋」の竣功年は昭和33年3月となっていますので、この記念碑は以前に架けられていた木橋の物と思われます。こうして「記念碑」を建立したのは、架橋に於ける近隣住民の多くの願望が有った物と想像されます。
次は、みつわ通りの巴波川に架かる「相生橋」です。写真は昭和55年頃撮影したものです。正面奥に「イトーヨーカドー」の鳩の看板が見えます。みつわ通りにも多くのお店の看板が見えます。人の往来もまだ多かったです。現在は、看板も歩行者も無く寂しく感じます。
この「相生橋」を上流側から移した写真も有りました。同じ時に撮ったものです。写真左隅に見えるのが「相生橋」、その背後に「いせや」の建物も写っていました。巴波川はこの場所で又、分流されて右側に真直ぐ流れていくのが、「沼和田用水」です。そして写真右隅に見える橋が「境橋」です。昔は巴波川や県庁掘りに白鳥が泳いでいるのが見られました。
ちなみに現在の「相生橋」は昭和9年9月の竣功と有ります。高欄の親柱の側面に陰刻されています。橋の北東側橋詰に有る「片岡写真館」は創業明治二年で、栃木県最初の写真館です。最近立て替えられた建物は、明治期の栃木警察署を模したものだそうです。
一方、「境橋」の竣功は昭和4年1月と、こちらは親柱正面に大きく陽刻されておりました。「境橋」の橋名プレートは新しく付け替えられています。
最後は、「境橋」の下流、大通り(通称南関門通り)に架かっている「片柳橋」です。この橋の高欄も新しい物に変わっていました。昭和55年頃に撮影した時は、橋の銘板が外され橋名が分かりませんでした。現在は新しい高欄に「片柳橋」と「沼和田用水」のプレートが取り付けられています。
現在の新生栃木市の人口は、約16万人ですが、昭和50年以降に生まれた人は約40%を占めるまでになっています。今回紹介する風景を知らない人も多くなってきました。
栃木駅近くに有った「イトーヨーカドー」、いつの間にか無くなっていました。そして写真の手前に橋の高欄が写っています。親柱に「とちのきはし」と刻まれています。現在は道路も広がり、橋も暗渠化されて姿を消しています。
室町の元下都賀郡役場跡に作られた公園と瀬戸ヶ原公園との間、巴波川に架けられた「公園橋」、この橋もいつの間にか立派な二連橋の架け替えられていました。現在の「公園橋」がいつ竣工したものか、橋の銘板が見当たらないため分かっていません。市役所の公園管理部署に問い合わせれば分かるのでしょうが、まだそこまでは追及しておりません。
そして、瀬戸ヶ原公園と西側の富士見町の間に架けられた「瀬戸河原橋」も幅が広くなっていました。
下を流れるのは直ぐ上流側の堰から巴波川の水を分流している、通称「九十九曲り用水」で、下流の沼和田町や大平町の牛久・川連・土与の一帯の農業用水となっています。
次の写真も同じ九十九曲り用水に架けられた「新開橋」から、下流側を写したものです。左岸(左側)に栃木カトリック教会が見えます。用水掘りは新開橋の下流部で又、分流されています。
右側は「富士見橋」に向かって流れ、左側の流れは教会の南を流れ、旧日光例幣使街道の脇を流れ、更に南流して栃木駅の南、上牛久方面に流れています。最初の「とちのきはし」も、この用水堀に架かったものでした。
この「新開橋」の東側橋詰の石碑が1基建っています。正面に「新開橋架橋記念碑」と刻されております。裏面に「工事費之内寄附者連名」と題して多くの方の名前が記されています。「昭和5年5月18日建之」と有ります。現在の「新開橋」の竣功年は昭和33年3月となっていますので、この記念碑は以前に架けられていた木橋の物と思われます。こうして「記念碑」を建立したのは、架橋に於ける近隣住民の多くの願望が有った物と想像されます。
次は、みつわ通りの巴波川に架かる「相生橋」です。写真は昭和55年頃撮影したものです。正面奥に「イトーヨーカドー」の鳩の看板が見えます。みつわ通りにも多くのお店の看板が見えます。人の往来もまだ多かったです。現在は、看板も歩行者も無く寂しく感じます。
この「相生橋」を上流側から移した写真も有りました。同じ時に撮ったものです。写真左隅に見えるのが「相生橋」、その背後に「いせや」の建物も写っていました。巴波川はこの場所で又、分流されて右側に真直ぐ流れていくのが、「沼和田用水」です。そして写真右隅に見える橋が「境橋」です。昔は巴波川や県庁掘りに白鳥が泳いでいるのが見られました。
ちなみに現在の「相生橋」は昭和9年9月の竣功と有ります。高欄の親柱の側面に陰刻されています。橋の北東側橋詰に有る「片岡写真館」は創業明治二年で、栃木県最初の写真館です。最近立て替えられた建物は、明治期の栃木警察署を模したものだそうです。
一方、「境橋」の竣功は昭和4年1月と、こちらは親柱正面に大きく陽刻されておりました。「境橋」の橋名プレートは新しく付け替えられています。
最後は、「境橋」の下流、大通り(通称南関門通り)に架かっている「片柳橋」です。この橋の高欄も新しい物に変わっていました。昭和55年頃に撮影した時は、橋の銘板が外され橋名が分かりませんでした。現在は新しい高欄に「片柳橋」と「沼和田用水」のプレートが取り付けられています。
2015-04-10 22:05
nice!(0)
コメント(0)
トラックバック(0)
コメント 0