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文学碑土鈴 [コレクション]

今日も暑かったですね。この暑さの中外に出るのは危険なので、昼の間家の中で過ごしました。そして、運動不足を解消する為、夕食の後夜の栃木の街を、1時間程歩いて来ました。多数の行灯が灯る巴波川の河畔を歩いていると、写真のストロボの光りが、ピカッピカッと夜空を照らし出しています。巴波川橋の上から巴波川の行灯の写真を撮影をしている様です。三脚を構えて、数名の人が思い思いのアングルで撮影をしていました。
そんな訳で、今日も手持ちのコレクションの話です。昨日の「火防の獅子」と同じく、栃木土産品研究所発売の「文学碑土鈴」を紹介したいと思います。
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(コレクションの土鈴)
現在、栃木市内の神社・仏閣や公園などに多くの文学碑や歌碑・句碑が建立されていますが、その文学碑を土鈴の形にして販売されたものです。
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(同封された説明書)
ふたつの土鈴がセットに成っています。その一つは、栃木市民で有れば誰でも知っている、「山本有三」の文学碑です。山本有三の文学碑は栃木駅前を始め市内の学校の校庭などに建てられていますが、今回の土鈴のモデルとなっているのは、太平山の謙信平の高台の上に建てられたものです。
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(太平山公園謙信平に建つ、山本有三文学碑)
そして、もうひとつの碑は、前田雀郎の句碑に成ります。「前田雀郎」については、知っている人は少ないかもしれません。「前田雀郎」は栃木県宇都宮市の出身で、明治30年3月27日生まれ、宇都宮商業を卒業。講談社や都新聞社に勤務。昭和11年「せんりゅう」を創刊。昭和16年日本川柳協会委員長。昭和35年1月27日死去。62歳でした。
この土鈴となった句碑は、太平山の遊覧道路を登って行き、見晴台方面と謙信平方面に分かれる、丁度そのティー字路の突き当りに建てられています。隣りに「圓通寺中興二世となる、高慶大師の像が建てられています。
句碑に刻まれているのは≪太平の 曲れば此処も 花吹雪≫の句に成ります。
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(太平山遊覧道路大曲駐車場近くに建つ、前田雀郎n句碑)
栃木市に有る「川柳不二見吟社」が主宰して、前田雀郎を中心の全国川柳大会を太平山で開催した直後、同吟社の肝いりで、雀郎句碑第一号を花のトンネルの真っ只中の大曲りに、市の観光協会が建てたものです。この句碑が前田雀郎の生前に建てられた唯一の句碑に成ります。
もう一句、≪この町へ 西日を戻す 山車の丈≫という雀郎の句が、「とちぎ山車会館」入口の横手に建てられています。
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(とちぎ山車会館の入口前、向かって右手に建つ前田雀郎句碑)

もう一度、山本有三の文学碑に戻ります。昭和38年3月9日、太平山公園謙信平に建立されたこの文学碑の除幕式には、山本有三氏本人も出席されました。(寿像は石井鶴三制作)
碑文は有三作品の「路傍の石」の中で、担任の先生が吾一少年に言った一言、≪たったひとりしかいない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間、うまれてきたかいがないじゃないか。≫です。市内に有る山本有三の碑文は殆どが、この言葉が使われています。ですから栃木市民であれば誰もこの一説は、諳んじて言う事が出来ます。
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(栃木駅の北口を出て、右手方向に向かうと、バス乗り場後方に建つ山本有三文学碑)
山本有三の石碑で他の言葉を刻したものは、日ノ出町の栃木公民館(元、栃木市民会館)広場に、≪自然は急がない≫と言う自筆の文学碑が建立されています。
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(日ノ出町栃木公民館の広場に建つ、山本有三文学碑)
又、菩提寺となる、万町の近龍寺の墓地内に有る山本有三の墓石に記された言葉は、作品「無事の人」より、≪動くもの砕けるものの中に動かないもの砕けないものが大きくからだに伝わってくる≫の言葉です。
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(近龍寺本堂裏手の墓地に眠る、山本有三の墓石)
最後に「路傍の石」の一説を土鈴に記した作品が有ります。これらの土鈴を振ると、音の高い低いは違いますが、みな素朴な音を発てます。
文学碑土鈴8.jpg
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