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栃木市嘉右衛門町に有った長沼 [栃木市の河川と橋]

現在、県道32号(栃木粕尾線)は、北隣り鹿沼市粟野町下永野より、栃木市星野町に入り南東方向の栃木の市街地中心部に向かう。国道293号線を横切り、東北自動車道栃木インター入口前を通過し、イオン栃木店の南の箱森町交差点にて、県道309号(栃木環状線)を横切り、そこから向きを東方向に変え、真直ぐに東武日光線新栃木駅前に突き当たります。
実際は途中の県道3号線(宇都宮亀和田栃木線)と交差する、新栃木駅入口交差点までになり、そこから新栃木駅前までは県道117号(新栃木停車場線)に変わります。
現在この道路を境に南側は嘉右衛門町、北側が大町となっている場所に、長沼と呼ばれた東西に細長い沼が有りました。
県道32号線、八幡橋付近1.jpg
(県道32号、長沼が有った付近。明治中期頃までこの道路は有りませんでした。)

江戸時代の天保七年と言うと、西暦では1836年になりますが、その時代の絵図にその「長沼」が描かれています。その絵図は小平柳村川東絵図面」で、此処に有る川とは現在の巴波川の事ですが、絵図には川の名前は記載されていません。
描かれている範囲は、西から南は巴波川の左岸、東側は嘉右衛門町の旧日光例幣使街道から西側、北は八幡宮から川上稲荷神社辺りまでになり、その中の八幡宮の西側に「長沼」と記された沼が描かれています。
八幡宮社殿.jpg八幡宮扁額.jpg
(県道32号の北側に祀られている八幡宮)      (八幡宮社殿正面に掲げられた扁額)

明治19年に発行された迅速測図には沼としては描かれず、1本の線にて水路の存在が確認出来るだけです。その後発行された栃木の2万5千分の1地形図を調べてみると、昭和7年12月28日大日本帝国陸地測量部発行と、次の昭和22年9月30日地理調査所発行の2枚に、虫眼鏡で良く確認すると、南北100メートル、東西10メートル程の細長い沼が見えます。その北側の端に橋の地図記号が確認出来ました。
この橋は今ではその存在も確認し難くなってしまいましたが、道路拡張前まではコンクリート製の高欄を持った小さな橋でした。私が1986年に撮影した写真に、橋の高欄が写っています。橋の名称は「八幡橋」といい、橋の東方に祀られている「八幡宮」から命名されたものと考えます。
八幡橋(旧).jpg八幡橋(新).jpg
(八幡橋、1986年撮影)              (2015年撮影の八幡橋)

現在、この八幡橋より上流側下流側を見ると、かってどれほどの大きさの沼だったものか、想像する事は難しい。
八幡橋の上流側.jpg八幡橋の上流側水路.jpg
(橋の上流側、元長沼の上流端)         (その先に有る細い水路は八方堂方向へ)
八幡橋の下流側.jpg長沼流出水路1.jpg
(橋の下流側、両側に住宅が迫る)     (沼の下流側南西方向住宅地へ続く水路)
元長沼からの流出水路は、現在の栃木第三小学校正門に向かう道路の下を抜けて南西方向の住宅の間を流れて行きます。水路はその先の住宅地の中で「くの字」に曲り南東方向に向きを変え、妙唱寺の裏手(西側)を南流して、翁島の北側から東側を回り込んで、巴波川に落ちています。
妙唱寺裏手の水路1.jpg翁島北側の水路1.jpg
(妙唱寺西側を南流する水路)        (翁島北側から東側へ流れる水路)

天保七年の絵図面に描かれている「長沼」には、下流端で流出ルートが2本有り、上記の妙唱寺裏を流れる水路の他に、東側に向かって流れ出し、東側を南北に通る「三日月道」に沿って南流した後、例幣使街道の西側を並行して通る裏通りに沿って、翁島東で西側ルートの水路と合流、すぐその先で巴波川に落ちる水路が有ります、こちらは現在殆んど暗渠となっています。
長沼流出水路2.jpg巴波川への落ち口.jpg
(油伝味噌店舗裏手三日月道の暗渠)(翁島入口の下を流れ巴波川への落ち口、写真右側)

昭和23年頃の長沼周辺図.jpg
(元「長沼」の周辺の様子を昭和23年撮影の空中写真を基に概略図を作成)
上記概略図にて赤く塗った道路は、明治19年発行の迅速測図に記された道路になります。この長沼から翁島の所で巴波川に至る水路は、現在も確認することが出来ます。そしてその水路の位置が、天保七年に描かれている水路の位置と殆んど一緒で有る事に、驚きを感じずにおれません。

※上記概略図を作成する為の基とした空中写真は、国土地理院所有空中写真「UR1514-CA-19」になります。撮影日は昭和23年(1948)6月8日です。






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