SSブログ

今日の1枚(旧日光例幣使道の一点景、栃木市西方町) [石碑]

栃木市の市街地中央を縦貫する、旧日光例幣使道を北に向かう。合戦場宿から升塚を過ぎると街道沿いの家並みも途切れてくる。現在の街道筋は更に真直ぐ北上して家中の街中を抜けているが、元の例幣使道は升塚から家中に入った後、家中下新田の旧道沿いに祀られている「後生車地蔵堂」の前を過ぎ、更に現在の街道筋を横切る形で、そのまま北北西方向に直進、東武日光線の線路を越え、現在の家中の集落の西側を迂回するようにして北上、橋本で少し向きを東に変え、北北東へ進んで行き、橋本の北で現在の街道筋に戻り、北関東自動車道の下を潜って、上新田の集落を抜け西方町へと入って行く。
西方町金井弥八内辺りに来ると、東側を流れる思川に阻まれる形で、少し西に向きを変え、思川の右岸に並行して北北西方向へ。
暫らく進むと西方町金井の和久井集落に入る。街道を細い水路が東側から西側へと流れている。その水路の手前、街道の右脇に石の鳥居が一つ建てられている。石製の神額には「琴平神社」と刻されている。境内に入ると境内の北側に先ほどの細い水路を背に三基の石造りの信仰碑が並んで建っている。
今日の一枚はこの三基の信仰碑が建つ秋の農村の風景です。
P1360641.jpg
写真左から「庚申塔」「勝善神」「白雲山」と刻されているのが読める。
「庚申塔」は栃木市内でも多く見られる信仰碑です。中央の「勝善神」の碑は調べてみると、馬の安全や健康を祈ったり、死馬の冥福を祈って建てられる「馬頭観音」碑とは異なり、馬の産地において名馬の誕生を祈願する信仰碑と有ります。ただこの石碑は昭和十二年十月の建立、上部に「日支事變徴馬」と有り、この年の7月7日の盧溝橋事件に始まった日中戦争に徴用された馬の安全や健康を祈って建てられたものではないかと思われます。右側の背の高い「白雲山」と刻された信仰碑は文化14年(1817)2月吉日と有り、今から200年前の建立。
西方町史の中にこの「白雲塔」に関する解説が記されています。
≪白雲塔は鹿沼市周辺に40基近く見られる石造物(信仰碑)である。上毛三山のひとつ、妙義山に対する信仰と見られ、和久井の琴平神社に「村講中」の文化14年(1817)をはじめとして、町域に都合5基建立された。≫と、そして≪妙義山は、白雲山・金洞山・金鶏山の三峰に分かれ、北峰の白雲山に妙義大権現が祀られ、近世中期以降、妙義講は関東や甲州・信濃・美濃などに結成された、火伏せ・嵐除け・虫除け、あるいは雨乞いの神として崇敬された。町域では雹除けの祈願と思われる。麻作の初期管理でもっとも心配なのは、強い風雨に伴う雹害であった。丹精込めて育てた麻が、短時間で吹き倒される恐れが有ったからである。≫と。「白雲山」信仰はこの地域の重要な産業であった、麻の栽培から起こった独特な信仰碑である。
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。