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錦着山護国神社と山内に建てられた石碑を巡る [石碑]

今回は錦着山の山上に祀られた「錦着山護国神社」と、山内に建てられた石碑を見て回ります。
護国神社社殿正面.jpg
(錦着山山上に祀られている「錦着山護国神社」、右側に建つ燈台は日露戦争記念)

錦着山については昭和52年栃木市発行の「栃木郷土史」によると、
≪錦着山は旧名「箱森山」といい、当時は一部の私有地を除き、他は箱森村農民の共有地で草刈場の他、死馬捨場であった。その他山麓には古墳群もあり、その下方は池沼点在する湿地であった。
この箱森山が一躍して護国の英霊鎮まる霊場と化したものは、初代県令鍋島幹が大参事藤川為親、小参事柳川安尚らと相計り、朝野有志の醵金を以て、戊辰・西南両役における戦死者を祀り、以てその忠魂を慰めんがため、招魂社建築の発起人となったことに始まる。≫などと記されています。
明治11年10月土工を起こし、同12年9月社殿・社務所その他の建築が落成したので、同月24日祭典を執行していました。
初期の合祀者は、明治10年の「西南の役」における戦死者111名内栃木県下の士民65名。筑波挙兵に加わり遂に捕われ洲崎堤で切られた隣村瑞穂村の川連虎一郎。出流挙兵に従い遂に巴波川幸来橋の畔で殺された西山謙之助など10名も合祀されています。
明治17年に栃木県庁が宇都宮に移るとともに、招魂社は下都賀郡役所に管理を委ねられたが、郡はその後間も無く栃木町に管理を移しています。
大正2年には、帝国在郷軍人会栃木町分会にて、社殿の傍らに玉垣を設け美観を添えています。
大正10年4月10日、栃木町長と分会長との協議の結果、日清戦争以後の靖国神社合祀の本郡英霊293柱を、招魂社に合祀する事に成り、昭和14年5月4日招魂社制度の改正に伴い、私祭栃木招魂社を錦着山護国神社と改称されたまでの祭神、西山謙之助以下448柱はその後の合祀530柱を加えて、昭和15年11月6日現在978柱となった。
その後は、上海・満州・日支事変の戦没者の英霊も合祀されました。

尚、かつての錦着山について元栃木市文化協会副会長で有った故長沼秀雄さんは、著書「わが町さんぽ 栃木周辺見てある記」の中で、「歴史ある錦着山公園」と題して、≪この錦着山はかつて女子学習院の遠足指定地にされ、照宮様などが在学中、御来遊になったこともあり、風光明媚な地として、当時は都会から訪れる人も多かった。≫と記しております。

その様な関係からか、この錦着山の山内には、記念碑や慰霊碑など多くの石碑が建てられています。その石碑のひとつひとつに明治維新以降の錦着山護国神社の歴史や、国を守るために戦場に赴き、尊い命を落とされた人達と、残された遺族の思いが多く残されています。
錦着山石碑分布図.jpg
(錦着山内に建てられた石碑の分布図)
それでは分布図に表わした石碑を、東側山麓の参道登り口に建つ「①錦着山護国神社大鳥居移転記念碑」から順に見て行きたいと思います。
錦着山大鳥居.jpg①大鳥居移転記念碑.jpg
(錦着山東麓参道登り口に建つ大鳥居)    (①錦着山護国神社大鳥居移転記念碑)

この石の大鳥居は、大正12年11月帝国在郷軍人会下都賀郡連合分会により建てられたものですが、鳥居の脇に建てられた「大鳥居移転記念碑」に刻されている日付には、昭和44年3月と成っています、これは鳥居が現在の場所に移された時期を示しています。移転前は今の場所より東、県道75号(栃木佐野線)との分岐近く錦着山に通ずる道路上に建てられていました。その頃私はこの鳥居を潜る様にして、栃木工業高校に通学をしていました。
1966年3月撮影錦着山より東方を望む.jpg
(錦着山山上より東の方向を望む、道路の先に鳥居が見えます。昭和41年3月撮影)

次に鳥居を潜り、山の東面に沿うスロープの道を登って行きます。なだらかな坂道を登り、少しクランク状に折れ曲がった道路の先に、2番目の石碑が現れます。
②「感恩頌徳」碑.jpg②「感恩頌徳」碑1.jpg
(黄色く塗られたベンチの奥に建つ石碑)(②石碑の上部に篆書体で「感恩頌徳」と有る石碑)
石碑の上部に篆書体で「感恩頌徳」、その下側に碑文。420文字の漢字で埋まっている。冒頭部分を読んで行くと「黒子兵藏諱勝楚號錦陵又誠之軒遠近常以錦陵先生相通下野下都賀郡稲葉村人父・・・・・・」と漢字が続いて行きます。筋書きを追うように読む事は出来ませんが、なんとなく内容は理解出来そうです。
建立されたのは「昭和7年5月」、碑文は「従四位勲四等安達常正撰幷書」と刻されています。

そこから又坂を登ると正面に3番目の石碑が建っています。前橋耕圃の句碑です。
この句碑については今年の3月4日に紹介をしているので、ここでは省略して4番目の石碑に向かいます。
4番目の石碑は、南側に回り込んで、護国神社の正面階段方向に回り込む道の途中に有ります。
③前橋耕圃句碑.jpg④華表寄附人名碑.jpg
(③前橋耕圃の句碑)                (④「華表寄附人名」の碑)
4番目の石碑は上部の題額に「華表寄附人名」、その下側に寄付をした人達の名前が市町村ごとに区分されてビッシリと並んで刻されています。一番下の段に発起人16名の名前も並んでいます。
ここに有る「華表」(とりい)は、社殿に向かう正面石段の中段に建つ石の鳥居の事と思います。
二の鳥居.jpg華表.jpg
(参道石段の途中に建てられた石の鳥居)        (神額には「招魂社」の文字)

鳥居を潜り、石段を登って社殿前へ。石段を登り終えた両側に狛犬が迎える。ただここの狛犬は通常神社で見かける狛犬では無い、「獅子の子落とし」の形を表わしています。
狛犬(左).jpg狛犬(右).jpg
(左側)                                  (右側)

神社の境内には多くの記念碑・慰霊碑が建てられています。まず大きなものでは、碑と言うよりは塔に成りますが、社殿に向かって右隣りに高くそびえる「燈台」。錦着山のランドマーク的存在で、山上に建つ塔は遠くからも望む事が出来ます。いつごろ建てられたものか分かりませんが、日露戦争を記念して建てられたと書かれた書籍が多いです。一部「日清戦役記念燈台」(下都賀郡小志)としているものも有りましたが。
記念燈台.jpg⑤記念塔.jpg
(日露戦争記念燈台)             (⑤記念塔)
燈台の南側に少し小ぶりな塔が建っています。塔の南面には当初表示されていた文字を塗りつぶした箇所、そしてその下側に碑文を記したプレートが外されたような形跡が残されています。
この塔は何を記念して建てられたものか、一つ考えるものは、大正天皇錦着山御遺蹟が有ります。田代善吉著「栃木縣史・皇族・系図編」の中に記された記念塔です。そこには次のように記されています。
≪大正7年11月17日 大元帥陛下 には午前5時大本營御出門、大纛を御野立所に進められ、親しく両軍の交戦を御統裁あらせらる、其御遺蹟なる錦着山に記念の塔を建つ。≫と。
錦着山の上に建つ塔でそれらしいものは、他に有りませんから間違いは無いと思っています。建てられたのは大正8年10月、碑文は栃木町長榊原経武謹撰、日高秩父謹書でした。

更に境内の石碑を見て行きます。
⑥大久保○之碑.jpg⑦田村半次之碑.jpg
(⑥「大久保〇之碑」と篆額も不鮮明)       (⑦「田村半次之碑」と題額も鮮明)
記念塔の東側に建つ石碑は上部に篆書体で「大久保」と読める。その後の一文字が何と言う文字か分からない、その後は「之碑」と読めるので、大久保さんと言う人物の顕彰碑に成るのか?碑文を何とか辿ると、この方29歳と言う若さで病死されたと書かれています。明治31年3月建碑、栃木縣師範学校長従七位小濱宗介撰、栃木縣師範学校助教諭村田鉄太郎書と有りました。
7番目は境内の東の端に建っています。「田村半次之碑」とハッキリと確認出来ますが、碑文は漢文で私には難読ものです。冒頭部分を書き写してみます。
≪故陸軍一等兵卒田村半次君此地之産也明治十年西南役従征討軍・・・・・≫以上よりこの方は、明治10年に下都賀郡より西南の役に参加して戦死された一人で、それを慰霊して明治28年10月に建碑された様です。≪下毛 長谷川展撰并書≫と、碑文末尾に刻されています。

⑧「遺烈維馨」の碑.jpg⑨「男體山」の碑.jpg
(⑧「遺烈維馨」と篆額に有る石碑)      (⑨「男體山」と刻された石碑)
8番目は記念燈台に向かって、手前右側に建つ石碑です。上部に陸軍大将従二位勲一等功二級子爵川上操六による篆額が有ります。この篆書体の文字をどう読んで良いか長い間分かりませんでしたが、最近判読出来ました。「遺烈維馨」と書かれている様です。
碑文冒頭に「陸軍歩兵一等卒正八位赤羽根春次郎碑」とあり、碑文の中に≪赤羽根春次郎下野下都賀郡吹上村農常彌第三子・・・・・・≫と記されています。この方は明治28年の日清戦役にて、27歳の若さで戦死されている様です。
次の石碑は、8番の石碑の直ぐ脇に半分ほど埋まった丸っぽい自然石、正面に「男體」の文字が見えます。なぜこんな所に男体山信仰の石碑が祀られたのか?確かに石碑の有る所から少し山の裏手に回り込むと、男体山をはじめとする日光連山の山々を望む事が出来ます。此処錦着山山上から日光の霊峰を拝んでいたのかも知れません。

⑩栃木市海友会創立15周年記念の碑.jpg⑪栃木市海友会の碑.jpg
(⑩栃木市海友会創立15周年記念の碑)       (⑪栃木市海友会の碑)
次の10番と11番の碑は、社殿に向かって右側に並んで建てられています。二つとも栃木市海友会が建てたもので、10番目の船の錨を載せた栃木市海友会創立15周年を記念して建てた碑には「七つの海は桜に錨」の文字が刻されています。設置は昭和52年5月27日です。
社殿に寄った11番の石碑には、「貴様と俺とは同期の桜・・・・」の御馴染みの軍歌の歌詞が刻まれています。こちらは昭和46年5月27日の建立です。

⑫御大典記念碑.jpg⑬「表忠」の碑.jpg
(⑫「奉祝」 御大典紀念碑)           (⑬「表忠」 碑)
次に、10番11番目の石碑後方一段高い場所に建つ2基の石碑を見ます。
向って右側(燈台側)の12番目の石碑、正面上部に「奉祝」の題額、そしてその下中央部に大きく「御大典紀念碑」と刻しています。碑陰を確認すると、「下都賀郡傷痍軍人會」「昭和3年閏戊辰11月10日建之」等の文字が確認出来ることから、この碑はその年、昭和3年(1928)11月6日の昭和天皇即位の礼を祝って建碑されたものです。
その隣(社殿側)に建つ13番目の石碑は、正面上部に「表忠」の篆額、その下、最初の行に、
≪第十四師團長陸軍中将正四位勲二等功三級鈴木孝雄篆額≫と刻されています。2行目からの碑文冒頭部分を紹介すると、≪大正三年乃至九年戦役は欧州戦乱に方り帝国が日英同盟の義に依り独逸国に対し戦を宣し先ず青島を攻略して東洋の平和を擁護し次で南洋地中海等に転戦し・・・・・≫と刻されていきます。
碑文を更に読み進めると、この第一次世界大戦における戦勝したこと、そしてそこには戦死された方々の「忠勇義烈」があった事等を忘れ無い様、下都賀郡在郷軍人会にて大正13年5月建碑されたものです。この碑文の中に最初に紹介した大鳥居が、これに先立って献納された事についても記されています。

⑭日露戦役忠魂碑.jpg⑮建碑及招魂祭執行旹趣幷發起人名.jpg
(⑭日露戦役忠魂碑)               (⑮建碑及招魂祭執行旨趣并發起人名)

先に紹介した2基の石碑の間に有る石段を登ると、一番上の場所に一段と大きな背の高い石碑が建っています。この14番目の石碑には「日露戦役忠魂碑」と大書された文字、その横に「貞愛親王」と記されています。
「貞愛親王」とは、調べてみると「伏見宮貞愛親王殿下」と言う方です。
この忠魂碑の建碑の仔細については、直ぐ脇に建てられた15番目の碑に記されています。石碑上部に「建碑及招魂祭執行旨趣并發起人名」と刻されています。
碑文には≪嚝古の大戦に空前の國威を宣揚したる日露戦役に従軍し義勇奉公の大任を完うせられし名誉ある下都賀郡出身軍人忠死諸士の英霊を弔祭せんため郡内有志者相謀り寄付金を募集し明治39年5月12日遺族諸氏及朝野貴賓八千八百餘名を招待して第一回招魂祭を執行し又其芳名偉績を千載不朽に伝えるため日露戦役忠魂碑建設工事を起し明治41年12月20日竣工し同日遺族諸氏及朝野貴賓九百餘名を招待し第二回招魂祭を挙行し忠死諸士に対する本郡民の誠意を表したり≫と刻されています。

以上で、社殿右側エリアに建つ石碑の確認が全て終わりました。
次に社殿の左側に移動します。こちらのエリアにも全面・中段・最上段にと合計6基の石碑が見られます。
⑯慰霊碑口誌(栃木市青年學校同窓会建碑).jpg⑰戦歿者慰霊碑(栃木市青年學校同窓会建碑).jpg
(⑯慰霊碑口誌)              (⑰戦歿者慰霊碑)
一番前の区域は石柱と鉄の鎖とで囲った所、手前右端に16番目の石碑「慰霊碑口誌」、又中央部3段程石段を登った所、17番目の石碑手前両側に石燈籠が建つ。碑面には「支那事変大東亜戦争 戦歿者慰霊碑」と刻されています。碑陰の文は16番の石碑に刻された文と同じもの。建立は共に「栃木市青年学校同窓会」、17番石碑の建立年は「昭和38年9月24日建之」と刻されています。

その後方、露出した岩肌の上に18番目と、更にその情報に19番目の石碑。
⑱社殿補脩工事紀念.jpg⑲神社修復工事記念之碑.jpg
(⑱「錦着山護國神社社殿補脩工事記念」の碑) (⑲「錦着山護国神社修復工事記念之碑)
こちらの2基の石碑は共に神社社殿の修復工事を記念して建てられたもので、18番の補脩工事記念碑は、昭和31年3月の建立。19番の修復工事記念の碑は、昭和53年7月の建立となっています。
その碑文は下記の様に刻しています。
≪錦着山護国神社は去る昭和14年及び昭和30年に補修工事がなされたが、創建以来春秋を数うることを百回、その破損は甚だしいものがあった。我が栃木市遺族連合会は一致団結し残力を挙げて再補修することに決定したが、これを伝え聞いた軍恩栃木市各支部傷痍軍人会栃木支部青睦会海友会等の諸団体ならびに篤志者多数からの協力の申し出があった。これより、四月に工を興し本殿を修理し幣殿を新設してその屋根には銅板を用いた。なお拝殿は瓦をふきかえるなどし七月に竣工を見た。こうして、遠くは明治戊辰の役から日清日露の両役近くは大東亜戦争において祖国のために散華をした下都賀郡二市八町の八千三百余柱の英霊を合祀する壯厳な社殿を仰ぐことを得た。ここに本工事を記念してこの碑を建てる。≫と。

次は社殿左側の最上段へ登ります。ここに建つ20番目の石碑は、社殿右側最上段に建つ石碑同様に大きく背が高い。正面に大きく「征清役忠死者哀悼之碑」と刻されています。
⑳派清役忠死者哀悼之碑.jpg㉑「西山尚義」の碑.jpg
(⑳征清役忠死者哀悼之碑)                  (㉑西山尚義碑)
この石碑には他に刻された文字を確認出来るものが有りません。碑の正面左上方に、正方形に何か埋め潰した形跡が二ヶ所認められますが、落款の様なものが有ったのか分かりません。
「下都賀郡小誌」に載る招魂社の記事を読むと、≪境内に征清役忠死者碑(小松宮殿下御親筆)、日露戦役忠魂碑(伏見宮貞愛親王殿下御真筆)・・・・・・≫と記されています。
「小松宮彰仁親王殿下」は明治28年から31年、日清戦争征清総督でした。
社殿近くに立てられた石碑の最後は21番目「西山尚義碑」です。神社幣殿の西側、玉垣近くの斜面に建っています。この「西山尚義」と言う人物は、幕末・美濃(岐阜県)出身の尊攘家、栃木町幸来橋の畔で落命した「西山謙之助」その人です。

社殿から離れて、西側に広がる山頂方向に移動します。この山頂部に見られるのは、国土地理院が設置している三角点(22番)です。錦着山山頂の三角点は三等三角点に成ります。この地点の標高は80.45メートルに成ります。
㉒3等三角点.jpg㉓小根沢登馬雄胸像1.jpg
(㉒三等三角点「錦着山、80.45」)        (㉓小根澤登馬雄胸像)
いよいよ錦着山山内の石碑記念碑巡りも最後に成りました。三角点の場所から更に山頂広場を西側に進むと、広場の西端に円柱の上に胸像を載せた碑が建っています。胸像の下側に「小根澤翁之像・栃木縣知事小平重吉謹書」の銘板が埋め込まれています。円柱の反対側に碑文の銘板が付いています。
≪小根澤登馬雄翁市長在任中卒先赤津川分水に着工議員一同の協力小平知事の支援により遂に完成長年の水禍を断ち栃木市一円を安居樂業の處となす此處に像を建立翁の偉業を頌す≫と有ります。
胸像の視線の先には、永野川と赤津川分水路の合流点が有りました。

現在、錦着山公園は訪れる人も少なくなっています。私の子供がまだ小さかった頃は、よく遊びに連れて行きました。桜の季節、ツツジの咲く頃、紅葉の季節と。そしてそこにはいつも大勢の家族連れの姿が有りました。今、子供達の遊び場は新しい永野川緑地公園に移った事も要因かもしれません。
錦着山公園1988年4月1.jpg錦着山公園1988年4月2.jpg
(昭和63年4月、桜の花の下大勢の家族連れで賑わっていた)
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