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惣社町に建てられた石碑 [石碑]

栃木市惣社町に有る石碑を探そうと、国土地理院発行の二万五千分の一地形図を開きました。栃木市総社町を見る為には「栃木」の地形図では無く、「小金井」を見る必要が有ります。その地形図にて記念碑の地図記号の箇所を探していくと、総社町内に二ヶ所の記念碑記号を確認出来ました。
記念碑の地図記号が記されていた場所は、一つは大神神社の境内(添付概略図の1を記した記念碑地図記号)、そしてもう一つは惣社町の東端、「栃木市惣社東産業団地」内(添付概略図の2を記した記念碑地図記号の場所)に有りました。
最初の「大神神社」の境内に建つ石碑は、芭蕉句碑を指すものと思われます。この境内には他にも沢山の石碑が建てられています。
芭蕉句碑1.jpg芭蕉と室の八島.jpg
(大神神社境内に建つ芭蕉句碑)  (句碑の横に建てられた説明板)
この芭蕉句碑が建立されたのは明治2年(1869)3月ですが、地形図上に記念碑記号が記されたのは昭和63年発行の地形図からです。その前の昭和55年発行の地形図では、大神神社の参道入口、一の鳥居付近に記念碑記号が記されました。この地図記号を付した理由は分かりません。

もう一つ、「栃木市惣社東産業団地」内に建つ石碑について、私はこれまでその存在を知らなかったので、さっそく現地に行って確認をして来ました。この思川右岸の壬生町と惣社町の境界近くに記念碑地図記号が記されたのは、昭和55年発行の地形図からに成ります。
石碑は産業団地内の緑地公園の道路脇に建てられています。記念碑が3基そして小さな石の祠が、コンクリートの基礎の上に綺麗に並んで建てられています。
惣社町石碑1.jpg
(栃木市惣社東産業団地内に建つ石碑群)
この石碑の建っている場所は、地形図に記されている点と約100メートルずれています。恐らく石碑が元建っていた場所より産業団地の造成の際に移設されたものと思われます。又、3基の石碑と石の祠が以前もまとまって建てられていたのか、別々の場所に建っていたものを、造成時に現在地にまとめられたものかも確認出来ていません。
先ずこれらの石碑等の内容を確認して行きたいと思います。向かって一番左、一番大きな石碑。正面上部に右から左へ「揚水記念」、その下側に碑文が縦書きに刻されています。
≪本用水ハ旧十一人堀ト稱シ☐蓋シ天保年間惣社小倉川沿十一人共力川原ノ堆地ヲ開田シ灌漑用水堀ヲ設ケジナラム明治維新後開拓工事速進シ開田拾壱町五反歩ニ達ス然ルニ用水不足ノ折遇昭和六年小倉川砂利會社ニ於テ砂利採取ノ為ノ用水益不足ス依テ田所有者野中銀治大貫七郎荒川守正荒川悠助大貫久次郎出井茂喜ノ六氏代表トナリ縣ヘ☐状シ會社☐交渉ス結果揚水器械一万円ニテ設備シ灌漑ニ便セリ≫その後に≪正六位勲四等功五級野中猪三郎撰文並謹書≫そして左下隅に≪森戸六泉刻≫と石工の名が見えます。
碑陰には耕地所有者34名の氏名が順序不同で刻され、その後に発起者8名の氏名が並んでいます。
最後に建碑の日付でしょうか≪昭和十八年二月十一日≫と有りました。
揚水記念碑(表).jpg揚水記念碑(裏).jpg
(揚水記念の碑・表)                 (揚水記念の碑・裏) 
揚水記念碑(碑文写し).jpg 
(「揚水記念」の碑文を書き写しました)

その右隣り、石の祠は「水神社」と刻されています。祠の左側面に「昭和十八年二月十一日」と刻されています。この日付、上記の石碑に刻された日付と全く同じです。石碑の建碑に合わせてこちらの祠も祀られたことが分かりました。
水神社.jpg
(水神社、揚水記念碑と同じ日に祀られています)

祠の右隣りの一回り小さな石碑、正面中央上から下に大胆に書きなぐった文字で、≪旧十一人堀用水灌漑水路改修記念≫と刻されています。その右側には≪栃木☐☐土地改良事業 工事延長二千三百米 昭和二十八年三月三十日竣工≫と、そして東側には≪集☐暗渠六十米 工費金八拾万圓 補助井戸機械☐☐費金弐拾六万圓 昭和三十一年三月竣功≫そしてその下側に工事委員11名の氏名が刻されています。
碑陰には工事応援者(3名)や工事委員(10名)、そして工事関係者の氏名(35名)が刻されています。
旧十一人堀用水灌漑水路改修記念碑(表).jpg旧十一人堀用水灌漑水路改修記念碑(裏).jpg
(旧十一人堀用水灌漑水路改修記念の碑、表面と裏面)
旧十一人堀用水灌漑水路改修記念碑(碑文写し).jpg
(「旧十一人堀用水灌漑水路改修記念」の碑文を書き写しました)

右端に建つ一番小さな石碑は、正面上部に「墾田紀念之碑」、その下側に碑文が刻されていますが、苔がf着してたり風化が激しかったりで、思うように文字を判読する事が出来ません。確認出来た文字から内容を読み取ると「相謀り明治35年開墾を発起、大正6年1月16日竣工、この碑を大正7年1月16日建設した」その後に、≪正六位勲四等功五級野中猪三郎撰並書≫そして左下端に≪石工 松村三瓢彫刻≫と読み取れました。
碑陰には≪下都賀郡国府村大字惣社字馬☐☐二三八七番三町二反歩≫その後に墾田建碑人7名の氏名が並んで刻されています。
墾田紀念之碑(表).jpg墾田紀念之碑(裏).jpg
(墾田紀念之碑、表)              (墾田紀念之碑・裏)
墾田紀念之碑(碑文写し).jpg
(「墾田紀念之碑」の碑文を書き写しました。判読出来ない文字が多く成っています)

これら3基の石碑の関係は、右端の「墾田紀念之碑」が大正7年の建碑で一番古く、次いで左端の「揚水記念」が昭和18年。真ん中の石碑が戦後で昭和31年と言う順序に成ります。又、大正7年と昭和18年の碑文は、野中猪三郎氏の撰並びに書に成ります。

私は地元では無いのでこの碑文の中に出てくる「十一人堀」の所在が何処なのか断定する事が出来ません。国土地理院の地形図には記されていないですが、上記の旧十一人堀の記念碑と関係の有りそうな石碑が、同じく惣社町に建っていました。場所は県道2号線の南側、総社町田中の集落の北外れ、道路脇に水田をバックに背の高い石碑が建てられています。(添付概略図の3を記した記念碑地図記号の場所)
旧四ケ村樋門再鑿碑.jpg
(惣社町田中の集落の北の外れに建つ石碑、左手奥の森は大神神社)
旧四ケ村樋門再鑿碑(碑文写し).jpg
(「旧四カ村樋門再鑿碑」の碑文を書き写しました)

石碑正面には上から下に「旧四カ村樋門再鑿碑」と大きく刻されています。竣工したのは大正五年六月、建碑されたのは昭和三年十一月、これは先の「墾田紀念之碑」とほぼ同時期に建てられています。
惣社町には江戸時代に開発された「四カ村用水」と称した灌漑用水が有りました。四カ村とは壬生・惣社・田・大光寺です。惣社・田・大光寺の三カ村は理解できますが、壬生が此処に有る事がなかなか理解できません。用水の流れは惣社の北東部に接する柳原地内に於いて、小倉川(現思川)より取水、壬生・惣社・田・大光寺の四カ村を灌漑しています。当初の開田は五反歩でした。

惣社町に有ったこれらの用水の形跡が何か無いか、明治初期に作成された地形図(通称迅速測図)を細かく確認すると、惣社地内に青く染められた筋が目につきました。
先ず惣社町の北東の端、「柳原」との境に小さな沼が描かれています。そこから流れ出した水の流れが南に向かって伸びています。「北原」の集落の北東辺りで東方を流れる小倉川からの水路が合流しています。そこから「北原」と「台」の集落の東側を南に流れ、現在の県道2号線を過ぎる辺りで今度は流れが左右に分岐しています。東南方向に進む本流は「田中」の集落の東方で再び小倉川の戻って行きます。一方南西方向の支流は「田中」の北側付近で大きく西に流れ、「内匠屋」の集落の西側で南に流れを変え、田村に入り「田本」の観明寺の東、愛宕山神社を抜けて南の星宮神社方向へ流れています。この用水の流れを概略図にしてみました。
惣社町周辺概略図.jpg
(明治初期の栃木市惣社町付近の概略図、破線部は現在の主要交通網)

惣社地区を流れていた用水路や柳原との境に有った沼跡辺りは、現在市道1022号線が走っています。
石碑を見て行くと、その地域の歴史を僅かながら思い描く事が出来ました。



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