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西方町との境界近く、都賀町富張に建つ石碑 [石碑]

今回、気になった石碑は、都賀町富張の北東の端、西方町の元と本郷との境界近く、道路の脇、木の陰に隠れる様に建っていました。
和賀井翁壽鑛碑1.jpg
(都賀町富張の北欧の端、木の陰に隠れる様に建つ石碑)

碑表上部の篆額には、篆書体文字にて「松壽軒碑」と、陽刻されています。
その下の碑文冒頭には、「和賀井翁壽壙碑」の文字が刻まれています。この石碑は「和賀井翁」の顕彰碑のようですが。
和賀井翁壽壙碑2.jpg和賀井翁壽壙碑(碑陰).jpg
(碑表篆額部分、「松壽軒碑」の篆書体文字)(碑陰の左下部、建築惣代4名の苗字が並ぶ)

この石碑に関する資料を探していた時、元都賀町文化財保護審議委員長だった植木誠治さんが、かつて「広報つが」の文化財めぐりの連載の中で、「都賀町の私塾」について書いていました。の記事冒頭で、この石碑の人「和賀井翁」についても述べています。その部分を一部抜粋して参考に掲載させて頂きます。
≪幕末から明治初年にかけて、我が町で私塾を開き門弟を教えていた人達がいた。赤津地区では和賀井栄順の善覚院、土屋麓の土屋塾、家中地区では佐山諒斉の渡辺塾(醤油製造業の渡辺文六が諒斉を招き開いた塾)である。和賀井翁寿壙碑は、富張九六四番地、若林イシさん宅の入口にあり、磊山土屋翁寿蔵碑は大柿南嶺の土屋宅にある。渡辺塾は中新田足銀東にあったが碑はない。町史によれば栄順は修験者であり、大和聖護院の梨甚栄の弟子となり、権大僧都法印になったという。退隠後、都賀郡富張村にきて善覚院に住み、手習などを教え、子弟の数一五九名の多数となった。(後略) ≫

碑文を書き写しました。漢字の中には普段は見慣れない物も有り、間違って書き写した漢字も有るかもしれない。文章が漢文体なので、今回も私には、どのように読んだら良いのか、全く分からない状態です。ただただ漢字一字一字を辞書でその読み方、意味を調べて、そこから何となく文章の意味を推し量る事が精いっぱいになっています。
松壽軒碑(碑文書き写し).jpg碑文の一部.jpg
(碑文を書き写してみました)      (碑文の一部、見慣れぬ漢字があちこちに)

篆額の文字「松壽軒碑」を揮毫した人物、元老院議官従三位勲二等子爵岩下方平は、幕末から明治維新に活躍した人、薩摩藩士から、倒幕活動に尽力、王政復古の大号令では、徴士参与として小御所会議に参席している。新政府においては、京都府権知事や大阪府大参事などを務めている。

碑文を撰した人物は、市内藤岡町の人、森鷗村。幕末から明治の儒学者。藤岡にて鷗村学社を開き、門下生には栃木県におけるビール麦栽培の基礎を作った「田村律之助」(太平山あじさい坂中程に、胸像が建てられてます)や、実業家の岩崎清七などがいます。

調べて行く中で、石碑の主役である「和賀井翁」に関する情報が中々得られません。つたない知識で碑文を何度も読み返しても、ハッキリした人間像を描けません。その一つの原因は、碑文には具体的な時間軸がほとんど記されていまい点に有ります。唯一日付けが出ているのは、文末の「明治二十一年戊子十一月」と言う建碑に関わる日付けのみです。「和賀井翁」が何時生まれたのかと、何時どこどこへ移った等の具体的記載は有りません。
碑文冒頭に有るのは、「下毛の都賀郡富張村にて、数十年間、郷の弟子たちに教授していた。」 それは何時か。生まれについては「翁原姓は吉水、幼名は新六、後に栄順と称する。阿蘇郡吉水村の人」と記されていますが、何時かは分かりません。「出自は藤原秀郷の裔孫で吉水小太郎、諱は国綱」などと記されています。大和聖護院にて修行を積んで、権大僧都法印となっている。「門主の二品雄仁法親王の入峰修行に従った」と記されていますが、この雄仁法親王は伏見宮邦家親王の第二王子で、天保2年(1831)に聖護院で出家した人物。
和賀井翁は「退隠の後、富張村の善覚院に住み、塾を開き近隣の子供達に手習いなどを教えた」と有るが、何故富張村に来たのか、何時「和賀井」姓を名乗ったのか読み取れなかった。

そもそも碑文冒頭の「和賀井翁壽壙碑」の、「壽壙」とはどんな意味が有るのか。熟語で調べても出て来ません。単語で見ると、「壽」は①ながいき・長命、②とし・よわい、③ことほぎ・いわい。などの意味。一方「壙」は①あな・はかあな、②ひろの、何もないがらんとした野原、③むなしい、④むなしくする・からっぽにする。などの意味が有りますが、これら二つの漢字を合わせた意味はどうなるのか。

そこで最初に引用した「広報つが」の「都賀町の私塾」の抜粋した文章の中に有った、もう一つの私塾「土屋塾」の石碑の紹介には、「磊山土屋翁寿蔵碑」と記されています。この「寿蔵」の意味を調べてみると、≪存命中に建てておく墓。寿冢(じゅちょう)≫との説明が有りました。もしかしたら「寿壙」も同様の意味に成っているのではと思われますが、和賀井栄順が何時死去されたのか分からないので、それも検証出来ませんでした。今回も難解な石碑を選んでしまいました。その上、今は新型コロナウイルスの感染拡大を予防する為、栃木市内の図書館も全て閉館となっていることも有り、調査が思う様に出来ませんでした。これは言い訳かも知れませんが。

碑文の解釈はあきらめて、「和賀井」という苗字について調べてみると、面白いことが分かりました。この苗字は全国的にみると、非常に珍しく、都道府県で一番多いのは栃木県(約38%)となっています。更に県内では栃木市が一番多くて約63%となっています。そしてその栃木市内でも西方町が75%を占めていますし、その西方の中でも大字本郷周辺に集中していました。ちなみにちょっと古いですが2004年の旧栃木市の電話帳を見ても、たった2軒しか「和賀井」姓は載っていませんでした。

「西方都賀の郷土史」(早乙女慶寿著)に、その土地出身の著名な人物列伝が有りました。その中で西方町では190名の名前の中に和賀井姓が10名、都賀町では89名の列伝に1名、確認されています。
同書の「第二章 江戸時代の西方、都賀の姿」に、≪西方記録の西方郷は下野国都賀郡皆川庄西方郷とあり。江戸時代の西方郷は、城附五千余町、峰村、冨張村、下宿村、富加見内村、金井村、柴村の六ヶ村であったが、慶長年中西ノ原に引退き村を建てた。所謂古宿村、中宿村、大沢田村、新宿村である。又同年富加見内村(又深見内村とも書く)から田谷村出る。開発人は和賀井四郎右エ門。(後略)≫と、記され「和賀井」と言う人物が田谷村を開発した事がわかりました。又、江戸時代の山木菅太郎知行所の田谷村名主は和賀井勇蔵と記されています。さらに、上記人物列伝にて西方町出身の和賀井姓10名中9人は、「大字本郷田谷」の出身です。

石碑の裏面、碑陰に刻まれている文字を確認すると、大勢の名前が並んでいます。その内容は、大橋村8名・元村22名・深澤村5名・原宿村10名・本郷村18名・臼久保村6名・富張村55名、の名前が確認出来ました。そしてその後に「特別賛成」として22名の名前。更に「協議會頭」として14名の名前、最後石碑の左下には「建築惣代」として、越路身壽・中田定吉・伊東孝三郎・成瀬良治という4名の名前が並んでいます。

これら碑陰に並ぶ人達は、石碑を建てる事に賛同した人達だろうか、富張村の関係者が多いのは、和賀井翁が居住していた所であり、当然の事でしょう。
西方町・都賀町の大字.jpg
(石碑が建てられた周辺の村々。青字は西方町、赤字は都賀町の地名)

上図の中央部、富張・本郷・元の境界近くに石碑の地図記号を付しました。
この概略図により、碑陰に刻まれた地名が、全て石碑の建つ周辺に分布していることがハッキリ分かります。

最後にこの「和賀井翁壽壙碑」の手前右側に、もう1期石碑が建てられていました。
線刻不動明王像.jpg署名部分.jpg
(石碑には不動明王が線刻されています)(左下部に「藤原勝重謹寫」「石工清水■」とある)

碑表には、見事な不動明王の姿が線刻されています。和賀井栄順が修行した聖護院が、本尊を不動明王としている事が関連しているものと思われます。

※参考資料:
    広報つが 2007年3月号 「歴史再発見」 文化財めぐり 
                      都賀町の私塾(文化財保護審議委員長 植木誠治著)
    ウィキペディアより、「岩下方平」「森鷗村」「聖護院」を参考に致しました。
    「西方都賀の郷土史」(早乙女慶寿著)
    
    






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