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太平山謙信平に建つ石碑を巡る [石碑]

前回、太平山謙信平に建つ「根岸政徳君碑」について書きましたが、その中で謙信平には他にも多くの石碑が有ると言いました。今回はそれらの石碑を見て歩きたいと思います。
太平山謙信平の地名由来の案内板が現地に建てられています。
「謙信平」地名由来.jpg
(謙信平に建てられた、地名のいわれを説明する案内板)

謙信平は太平山上に鎮座する「太平山神社」の南東方向に位置し、標高200mから230mの馬の背の様な地形が、東西方向に広がり、中央部を横断するように遊覧道路が通り、道路に沿って太平山名物の団子や焼き鳥・卵焼きや土産物を販売する飲食店が軒を連ねています。
道路南側の広場に多くの石碑が点在しています。石碑の場所を記した謙信平の概略図を作ってみました。
石碑は西から東に向けて番号を付し、その番号順に巡って行きます。

太平山謙信平周辺石碑分布図.jpg
(謙信平の石碑分布図、左側から右側に№1から№10の石碑が建っています)

それでは早速、石碑巡りをスタートします。
最初は謙信平西側の小丘の頂上に建つ、「山本有三文学碑」です。
山本有三文学碑小.jpg山本有三文学碑碑文.jpg
(最初の栃木市名誉市民、山本有三文学碑)(小説「路傍の石」の一節を撰して碑文に)

大きな卵状の自然石に「山本有三先生の寿像レリーフ」と、栃木市民であればだれもが口ずさむ事の出来る、先生の代表作の一つ、小説「路傍の石」の中の一節を刻したプレートが嵌め込まれています。碑陰には「1963年3月、栃木市建設、 撰文 高橋健二、寿像 石井鶴三、 鋳造 伊藤忠雄」と刻したプレートが埋め込まれています。 
私は中学生の頃、建てられたばかりのこの石碑の前で、友達と記念写真を撮っています。その写真を見ると石碑の周りは雑木一本無く広々としていました。現在石碑は木々にうずもれる様にひっそりと建ています。

2番目の石碑は、文学碑の建つ小丘から下った前方に建っています。石碑正面から眺めると、外観の感じがさき程の文学碑と同じようです。卵状(チョッと扁平ですが)の自然石に二か所プレートが嵌め込まれています。
「さくら名所100選の地」碑.jpg「さくら名所100選の地」碑1.jpg
(「さくら名所100選の地」の碑)    (石碑に嵌め込まれた「太平山のさくら由来」の碑文)
右上の長方形のプレートに、「さくら名所100選の地 太平山県立自然公園 平成2年3月3日 財団法人日本さくらの会」と刻まれています。左側の花びらの形をしたプレートには、当時の栃木市長鈴木乙一郎による「太平山のさくら由来」が刻まれています。

3番目の石碑は、前回(4月11日付)紹介した、栃木町の初代町長「根岸政徳君碑」です。山本有三文学碑への東側登り口脇に建てられています。(ここでの説明は省略します)
根岸政徳君碑1.jpg根岸政徳君碑(碑文).jpg
(初代栃木町長、「根岸政徳君碑」)     (「根岸政徳君碑」の碑文、書き写し)

4番目の石碑は、飲食店「松乃屋」の前方、広場の中央付近に南向きに建つ「松根東洋城句碑」になります。
東洋城句碑.jpg
(松根東洋城句碑)
この句碑は、碑陰に「昭和11年(1936)4月、栃木渋柿会」と、建立時期と建立者が刻まれています。
松根東洋城は大正4年(1915)に、俳誌「渋柿」を創刊。関東大震災により印刷所が被災した為、栃木市内に移ってきました。「目で見る栃木市史」には、≪東洋城はしばらく岡田嘉右衛門邸内に在住、その住居を無暦庵と号していた。≫と、記しています。「渋柿」は昭和27年(1952)まで、栃木市内にて発行されていました。
石碑に刻まれた句は、「白栄や 雲と見をれば 赤痲沼」です。
ここ謙信平からは、南方に広がる関東平野の奥に、かつては赤麻沼が白雲の如く、望まれた様です。現在は渡良瀬遊水地の葦原が広がっています。地平線には東京スカイツリーや新宿副都心のビル群を望むことが出来ます。

5番目の石碑は、東洋城句碑から少し東に行った場所に西向きに建てられています。ズッシリと重量感溢れる自然石に数名の人物により思い思いの言葉を寄せ書きしたものを、碑文として刻んだものです。
達筆な文字は、思う様に読む事が出来ません。刻まれた文字や絵を頑張って移し書きしてみました。
水戸天狗党鎮魂碑.jpg水戸天狗党鎮魂碑(碑文).jpg
(水戸天狗党を偲んだ鎮魂碑)        (碑に刻まれた寄せ書き文を書き写し)

石碑右上から大胆に書きつけられた文字は、「懐昔 勤王士義旗此地揚 方々頼無事 題石米元章」、そしてこれを書いた人物は「秋月種樹(あきづきたねたつ)」です。日向国(現、宮崎県)、高鍋藩世嗣、幕末・明治期の政治家、明治天皇侍講、書家としても有名な人物。
石碑中央下部に小さな文字で、この石碑の由来とも言うべき文章が刻されています。
「紀元二千五百四十一年六月二十四日 太平山同遊者 
    秋月種樹 佐藤保之 清水文敏 海老沼俊三 坂倉利吉
    清水徳太郎 石川久三 清水益平 字埜秋琴 堀川孝
    及徳太郎之細君阿三子 文敏之女阿甲子也 余亦
    在同遊喜而記之     坪井晋 誌」
日付けは、明治14年6月24日、水戸天狗党が滞陣した太平山を訪れた秋月種樹一行、義士を偲んで寄せ書きし、それを石碑に刻みました。その意味でこの石碑は、「水戸天狗党鎮魂碑」であり、「天狗党滞陣記念碑」とも言われています。碑文中には他12名の名前が見えますが、この中で確認出来た人物は、「秋月種樹」の外は「佐藤保之」です。この人の名前は「下都賀郡小誌」の冒頭沿革の文中に見つけました。その部分を抜粋します。≪明治十一年十一月、郡区編制法施行に臨み、始めて郡役所を栃木町に設け、本県四等警部佐藤保之を以て郡長に任じ、下都賀寒川の両郡を統治す・・・(後略)≫と、記されています。尚、上記の名前には出て来ていませんが、石碑右下に「高田俊貞」、初代栃木町戸長の名前が刻まれています。興味深い石碑です。

6番目に向かう石碑は、これまで見て来た広場から南側に一段下がった山肌を巡る道の脇に建っています。そして6番目の石碑の直ぐ隣には、7番目の石碑も建てられています。
謙信平の石碑⑥⑦.jpg
(飲食店の並ぶ広場から、南側に一段下がった山際に建つ2基の石碑)

先ず6番目の石碑です。碑の上部「題額」には、「添野五耕翁碑」と刻まれています。
添野五耕翁碑.jpg添野五耕翁碑(碑文).jpg
(修復された「添野五耕翁碑」)         (「添野五耕翁碑」碑文書き写し)

「題額」の文字は従二位勲一等宮中顧問官子爵品川彌二郎が揮毫したものです。
撰文は碑文冒頭に有りますが、「本県平民  森保定」ですが、「森鷗村」と言う号の方が、良く知られています。碑文の最後に明治27年8月の日付けが見えます。
石碑の人物「添野五耕」は、文化四年(1807)絹村大字延島(現、小山市)に生まれています。
「下都賀郡小誌」の「郡の誉」に「故添野覺平」として載っております。一部抜粋させて頂きます。
≪・・(前略)・・殖産興業に力を致し私費を投じて用水路を開鑿し、荒蕪の地を開拓して良田となす、偶々洪水ありて絹川沿岸に築設しある田川堤塘の缺壊に遭遇し、私財を抛ち復旧修築して被害民永遠の災厄を免れしめたり、同村は古来養蠶業盛んに行われ殊に紬織物の生産地として名聲を博し、斯業の改良發達は地方の福利に關する影響多大なるを以て、・・・後略・・≫このことは、石碑の碑文中にも刻まれています。養蚕の開発・普及にも尽力をした偉人です。
何故、絹村の人物の顕彰碑がここ太平山謙信平に有るのか、先ほどの「下都賀郡小誌」に答えが有りました。≪明治24年8月11日歿す時に65歳、時の郡長佐藤保之氏等有志と謀り、永く其功績を傳へんが為に碑を太平公園に建設し、・・(後略)・・≫ と。下都賀郡の人々にとって、太平山はどこからも見える山で、信仰を集めていたことが窺えるます。
この石碑、私が2017年1月に訪れた時は、真ん中で縦に割れてしまっていましたが、今回訪れた時には、接着剤と金属バンドで立派に修復されていました。
添野五耕翁碑(修復前).jpg添野五耕翁碑(修復後).jpg
(2017年1月に撮影、中央部から割れています)(接着剤と金属バンドとボルトで固定修復)

右隣に建つ7番目の石碑は、碑面一杯にビッシリと漢字を並べた碑文が刻まれています。その冒頭に「綽軒中島先生遺愛碑」と有ります。
綽軒中島先生遺愛碑.jpg綽軒中島先生遺愛碑(碑文).jpg
(綽軒中島先生遺愛碑)             (「綽軒中島先生遺愛碑」碑文書き写し)

今回訪問しましたら、石碑の脇に「埼玉県久喜市の久喜・中島敦の会」によって、碑に刻まれた人物の紹介文が設置されていました。(石碑を見て歩く人にとって、こうした案内板が有る事は、ありがたい事です。)
綽軒中島先生紹介版.jpg
(「綽軒中島先生遺愛碑」脇に建てられた案内板)
「栃木郷土史」の「維新栃木の聡明」の節の(四)庶民教育中に、「明誼学舎」の事が掲載されています。
≪明治12年中島靖の栃木町入船町に開いた皇漢学の私塾で、明治39年2月没するまでの27年間続いた。門弟千三百余人、明治栃木の指導層にある人々の総ては、恐らくその門人というも過言であるまい。氏は埼玉県久喜町(現、久喜市)の儒者中島撫山の長子で真に高行清節の士であった。≫と。
今回最初の石碑の人物、山本有三も幼少の頃、父の言いつけでこの塾に通い、漢詩・論語の素読、日本外史等を学んでいます。

8番目は謙信平の駐車場の南の端、展望の地に建つ「関東の富士見百景」の石碑。
「関東の富士見百景」碑.jpg富士山遠望.jpg
(「関東の富士見百景」の碑)      (石碑の場所から関東平野と富士山を望む)
「関東の富士見百景」は、平成17年11月に、国土交通省関東地方整備局が主催して選定をした、128景233地点。この地点名は「太平山県立自然公園謙信平」になります。
私も時々この場所に来ては、富士山の眺望を楽しんでいます。

9番目の石碑は、遊覧道路を六角堂方向に下る途中、「県立太平少年自然の家」の入口の近くに有ります。
木立をバックに遊覧道路に面して建てられていますが、車ですと見過ごしてしまいます。直ぐそばに駐車場が有りますから、そこを利用すれば便利です。
この石碑は、「新井青幹句碑」になります。
新井青幹句碑.jpg
(新井青幹句碑)
碑陰に、「昭和五十年十一月二十三日除幕 新井青幹句碑建立委員会樹石」と刻まれています。
「かなかなの しづかにをれば ふたつかな    青幹」

最後、10番目の石碑は「史蹟慈雲律僧之墓」です。
9番目の句碑に向かって左側の木々の中に有る。目の前に先程の駐車場が有り、遊覧道路から駐車場に入る分岐に木製の「慈雲律師の墓入口」と書かれた標柱が建てられています。
慈雲律師の墓入口案内.jpg史蹟慈雲律僧の墓入口.jpg慈雲律僧の墓.jpg
(慈雲律師の墓入口の標柱) (墓所入口に建つ石碑) (「慈雲菩薩道空墖」と刻まれた墓石)

墓所への入口に建つ「史蹟 慈雲律僧之墓 入口」の碑陰には、「昭和十年十月吉日建之 發願者特志一同」と刻まれています。
木立に囲まれた墓所には、「當山律院完基 慈雲菩薩道空 墖」と刻まれた石碑が一基。右側面には「明治元戊辰歳九月廿二日寂 弟子慈門建之」と見えます。

「慈雲律師」について、「目で見る栃木市史」に掲載されています。抜粋させて頂きます。
≪越前【福井県)の人である、日光律院にいたが、安政五年(1858)太平山内の法泉院に転住した。加持祈祷に妙を得、多くの人々の病苦を救い、窮民にめぐみ、近村の子弟をあつめて学問を教えた。二杉橋を俗に律僧橋というが、これは慈雲律師が托鉢して資金をつのり、この橋をかけたゆかりによる。≫
「栃木郷土史」の第四編最近世、第一章第五節の当代の代表人物には、(二)「名僧慈雲律師」として、更に詳しい人物紹介が掲載されています。

現在、新型コロナウイルスの感染拡大防止の為、「ステイ・ホーム」が叫ばれ、外出自粛要請が行われており、多くの人達が我慢の毎日を過ごしています。「開けない夜はない」です。
何時か自由に外出が出来る様に成ったら、太平山に登って関東平野を見渡せば、リフレッシュ間違いなしです。そして、時間が有ったら謙信平の石碑を見て頂きたいです。
 
今回の参考資料:
  ・目で見る栃木市史(昭和53年3月31日、栃木市発行、編集栃木市史編さん委員会)
  ・下都賀郡小誌(昭和52年2月28日、歴史図書社発行、編者下都賀郡役所)
  ・栃木郷土史(昭和52年8月20日、歴史図書社発行、著者栃木郷土史編纂委員会)
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