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栃木市木野地町の東善光寺に戻った「奇跡の梵鐘」 [梵鐘]

栃木市の市街地中心から北北西に直線距離で約4.5キロメートル。吹上地区の吉野工業所の展望台が建つ鴻巣山の東麓。南流する赤津川に架かる「如来橋」の上から西方に目を向けると、石段を登った小丘の上に朱塗りの山門が望まれます。目的の東善光寺の仁王門です。
如来橋上より東善光寺を望む.jpg仁王門脇を迂回する車道.jpg

車で行くと、赤津川の右岸の土手上の道を北上、途中道路左手に「下野二十三番札所・伊吹山観音堂」。その前を抜けると「如来橋」。その西橋詰から左折して土手から少し下って行く細い道路を進みますと、東善光寺仁王門へ向かう石段の前に出ます。車はそのまま仁王門に向かって左脇を迂回する急な上り坂を進み境内に入ることが出来ます。参道を進み本堂の手前で右折。本堂北側に広い駐車スペースが有りますのでそこに車を止め、鐘楼へ向かいます。
鐘楼堂.jpg夕陽を受ける梵鐘.jpg

上の鐘楼の写真は、私が2013年に初めて訪れた時に撮影をしたものですが、現在は少し様子が変わっています。最近の写真も載せてみます。
2020年現在の様子.jpg

これまでの鐘楼の直ぐ脇に、ひとまわり以上小さな建屋が建てられ、以前鐘楼に吊られていた緑青で変色した梵鐘が移動して、現在鐘楼には新しい梵鐘が設置されています。
ここはまず、緑青により全体が青緑色の古い梵鐘の確認をしていきます。前回定願寺に有る「平等庵の鐘」の時と同様に、平面展開図を作成してそれに基づいて見ていきたいと思います。
梵鐘平面展開図.jpg

前回の「平等庵の鐘」は周囲が五等分される珍しい鐘でしたが、この鐘は縦帯が4本で十字に4等分されたよく見る梵鐘の形です。「池の間」に梵鐘の銘が刻まれています。
4等分された「池の間」に、撞座から時計回りに「第一区」「第二区」「第三区」「第四区」と番号付をして、「第一区」から表示内容を見ていきます。
まず「池の間、第一区」です。
池の間第一区の記載内容.jpg

冒頭の「下之野刕」の刀3つの漢字は調べてみると、「州」の意味で使われたもので、「下野国」を表した言葉の様です。続く「都賀郡木野地村」そして「天神山東善光寺」はそのままです。

次に「池の間、第二区」を見てみます。
池の間第二区記載内容.jpg

どのように読んで良いのか分かりませんが、字面から何となく意味を推測することが出来ます。
文末の日付け「元禄三稔庚午」とは、西暦1690年と成りますから、前回の「平等庵の鐘」の100年前に造られた鐘と言う事になります。

「池の間、第三区」を見てみます。
池の間第三区記載内容.jpg
ここには、この鐘を寄進した施主。武蔵国江戸牛込の住民「内木氏重兵衛富吉」をはじめ、この鐘を作った天命鋳物師三名の名前等が記されています。

ちなみに「池の間、第四区」には、何も刻されていません。

この東善光寺の鐘も、先の戦争の「金属回収令」により、当然ですが供出されています。こうして改めてこの梵鐘を見てみると、造られてから330年もの歳月が経っているにしても、相当形状がいびつになっています。おそらく供出の後、ぞんざいに扱われていたことを物語っている様に思われます。それでも奇跡的に生き延びていたのです。
鐘楼の石段の右脇に、古い苔むした石碑が建てられています。何とか碑文を読むと、冒頭に鐘に刻まれた銘と同じ内容の文字が石碑にも刻まれています。石碑が建立されたのは、「昭和十七年十一月三日」と記されています。この梵鐘を供出したのは1年前の昭和十六年十二月一日、「鐘音離郷の挙式」を行っています。
この内容については、「目で見る栃木市史」の「とちぎの仏閣・東善光寺」の中に記されています。その説明文は次のように結んでいます。
≪ふるさとより江戸に出て苦心の末成功したであろう人物のこの記念物が失われたことは残念である。≫と。
ところが、残念では無かったのです。今こうしてその梵鐘が、今から330年も昔に造られた天明鋳物師による梵鐘が、目の前に吊り下げられているのですから。
鐘楼の石段の左脇に、平成4年3月吉日に建立された、新しい石碑が建てられています。
石碑の題名は「梵鐘帰郷・鐘楼建立記念之碑」と有ります。戦争中に供出して、すでに溶かされて無くなってしまったと思われていた梵鐘が、故郷に帰って来たいきさつが、碑文に記されています。
梵鐘帰郷の記念碑.jpg

発見をした人は、佐野市犬伏下町在住の郷土史研究家、高橋久敬さん。発見された場所は、遠く離れた北陸の地、石川県富来町の浄土真宗恵光寺。昭和63年3月10日と記されています。
先の「目で見る栃木市史」が発行されたのは昭和53年3月の発行ですから、まだ発見される前の事でした。

まさに、奇跡の梵鐘と言えるでしょう。

元禄三年(1690年)に産声を上げたこの梵鐘は、その後明治・大正・昭和・平成の激動の時代に、翻弄されつつも、令和の今、安寧の土地に戻り、鐘楼には新しい梵鐘が後を継ぎ、その脇で静かに余生を送っています。
平成二十七年二月二十七日、栃木県指定有形文化財と成って、後世にその姿を残す事と成りました。
栃木県指定文化財の掲示.jpg
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栃木市定願寺の梵鐘 [梵鐘]

今回は、久々に「お寺の鐘」の話題です。
栃木市旭町に有る天台宗の古刹「順禮山 修徳院 定願寺」。
この山門を潜り境内に入り、正面の本堂に向かって左手側に鐘楼が建っています。
鐘楼の前に栃木市教育委員会に依る、説明文が掲示されています。文字がかすれて来ていますが、何とか内容を読み取ることが出来ました。説明文に依ると、ここに吊られている梵鐘は、「平等庵の鐘」と称して、栃木市の指定有形文化財と成っているようです。
定願寺の鐘楼.jpg鐘の説明板.jpg
(定願寺鐘楼堂)                        (「平等庵の鐘」説明板)
≪鐘の作者は佐野の丸山善太郎、彫工師は栃木町の志鳥源助・平田幸助。製作年代は寛政四年(1792年)十一月である。栃木町の円説、三説、渡辺三左ヱ門、田村弥四郎、高山市兵衛、早乙女源太郎等が施主となって造ったもので天命鋳物の逸品である≫と記されています。

この釣り鐘、外観形状的には他の寺院の物と同じ様ですが、一つ大きく違うところが有ります。
鐘身の外面には縦横に帯状の線が付けられ、その線に依って大きさや長短の異なる方形の区画が形成さえています。この区画構成されたものを、袈裟襷と称しますが、現在市内で見る多くの梵鐘は、円周上を4本の縦帯によって4等分されたものがほとんどです。
それが、この定願寺に有る「平等庵の鐘」は、縦帯が5本になっています。即ち円周上を5等分してあるのです。
平等庵の鐘.jpgよく見る一般的な鐘.jpg

写真では5等分されている状態が確認できない為、鐘を真上から見た平面展開図を描いてみました。
平等庵の鐘平面展開図.jpg

円形の中心部に「竜頭」、これは鐘の上部に設けられた半環状の懸吊構造部の事で、「竜頭」は俗称で、蒲牢(ほろう)と言うのが正しい名称だそうです。その竜頭が付いている鐘の上部部分を「笠形」、その部分から放射状に5本の帯が伸びています。これが袈裟襷の縦帯になります。展開図には分かりやすいように①から⑤の番号を付しています。
鐘身はこの5本の縦帯によって5等分されています。縦帯に区画された部分で、上部(笠形の下)は「乳の間」と称する部分で、多くの梵鐘はこの部分に「乳」と称する規則正しく配列された突起物が付いています。

しかしこの「平等庵の鐘」の乳の間には、乳では無く分割された5つの区画にそれぞれ異なった梵字が1字づつ蓮台に乗った形で陽鋳されています。
b.jpga.jpge.jpgd.jpgc.jpg
(乳の間A)    (乳の間B)    (乳の間C)    (乳の間D)    (乳の間E)
これら5つの梵字、どう読むのか、どのような意味が有るのか、私には分かりません。

その「乳の間」の下(展開図では外側)の、ほぼ方形の区画は「池の間」と称されていますが、この区画に銘文が陰刻されています。展開図のAからEの区画です。
このうちAからCの3つの区画にはビッシリと梵字が陰刻されています。刻されているのは「不動明王陀羅尼経」になります。
区画C.jpg区画B.jpg区画D.jpg
(池の間C)            (池の間B)          (池の間A)

「池の間B」の一部を拡大してみましょう。
区画B部分拡大.jpg
まるで象形文字の様な梵字が並んでいます。全く読み解くことは叶いません。

「池の間」の残り2区画、DとEには陀羅尼経功徳文が、漢文体にて陰刻されています。
C1.jpgD1.jpg
(池の間E)                      (池の間D)

漢文体の文章を読解する事は苦手ですが、一文字一文字と漢字を拾っていくことは私にも出来ます。その結果を次に添付致します。
功徳文1.jpg功徳文2.jpg
 (縦帯②)     (池の間E)       (縦帯①)      (池の間D)      (縦帯⑤)

「池の間」Eの文末に、≪武州江府宝林山霊雲寺第七世 芯芻霊驎欽■≫と見えますが、ここに有る「武州」とは、かつての武蔵国の別称。現在の東京都埼玉県のほとんどの地域、及び神奈川県の川崎市・横浜市の大部分を含みます。次の「江府」とは、江戸の異称になります。
「宝林山霊雲寺」は、現在の東京都文京区湯島に有る、真言宗霊雲寺派総本山の寺院で、元禄4年(1691)、浄厳律師覚彦により創建されたお寺。この第七世の芯芻霊驎(しんすうれいりん)が撰文した「陀羅尼経功徳文」。書いた人物は、「野州元吉田黄梅」(河内郡南河内村吉田の黄梅寺)の第四世見龍(けんりゅう)で、梵鐘の縦帯②部分に、その名が刻まれています。

又、縦帯⑤の部分に「當庵施主」として、圓説・渡邊三左衛門・渡邊甚右衛門・三説・田村弥四郎・小林源太郎・高山市兵衛・上原忠兵衛・早乙女源太郎の名前が、認められます。

この「平等庵」、明治4年の廃仏毀釈によって取り壊された、本町に有った寺院です。現在も杢冷川に架かる「本橋」の近くに、「平等寺」と書かれた扁額を掲げた堂宇が建っています。

この「平等庵の鐘」には、「この鐘銘をすべて読むと死ぬ」とか、「この鐘のまわりを三回まわると死ぬ」という恐ろしい伝承が残っています。

私もこの伝承を気にして、調査の時の鐘楼のまわりを3回まわる事の無い様注意をしていました。

この梵鐘も戦争中に供出されそうになったそうですが、足利市の丸山瓦全や栃木市の高田安平らの運動によって、供出を免れたと言います。貴重な栃木市の文化財です。

参考資料:目で見る栃木市史・フリー百科事典「ウィキペディア」霊雲寺及び梵鐘・
       新訂梵鐘と古文化(坪井良平著)・(株)老子製作所ホームページ
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太陽の恵み、洗濯物が良く乾きます。 [自然の恵み]

今日も夏の空が広がっています。
一週間前までは、毎日の様に雨模様で、連日衣類乾燥除湿機のお世話になっていたものが。
八月に入ると一転、毎日太陽が容赦なく照り付け、洗濯物も気持ちよく乾いてくれます。
外干しの洗濯物1.jpg
(夏の太陽の下、洗濯物が毎日よく乾いています)
外干しの洗濯物2.jpg

今日、洗濯物を干しているとき、物干し竿の上を一匹のまだ若いカマキリが歩いているのを発見。
竿の端から端まで行ったり来たり、途中洗濯バサミのハードルを乗り越え乗り越え。
物干し竿にカマキリ1.jpg物干し竿にカマキリ2.jpg

しばし洗濯物を干すのを止めてその行方を追ってみると、竿からハンガーに移り、私の下着の上を歩き回り始めたので、それはダメと追い払いました。
物干し竿にカマキリ3.jpg物干物にカマキリ1.jpg

洗濯物を横目にこうしてブログを書いていると、目の前の網戸にけたたましく鳴いた蝉が止まった。次の瞬間蝉は洗濯物に飛び移ったが、すぐさま飛んで行ってしまった。
蟬1.jpg蟬2.jpg
何処からともなく蝉の声が、この暑さを増幅させてくる。
目の前の温度計は33度を表示している。
洗濯物はとうに乾いているだろう。
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