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昭和の風景「栃木駅周辺」 [懐かしい写真]

昭和の風景として、栃木駅周辺の写真を紹介します。
昭和と言っても、私が撮影をしたものですから、昭和50年から昭和60年頃の栃木駅周辺に成ります。
写真の前に、栃木駅周辺が、どのように変化したか、3枚駅周辺の道路の変遷概略図を作ってみました。

最初は明治期の始めの様子を、明治前期測量 2万分1フランス式彩色地図、「栃木縣下野國下都賀郡栃木町」を参考に描きました。
「栃木町」のこの迅速測図は、明治19年に作成されていますので、その当時はまだ両毛線は開通していませんので、当然「栃木駅」もまだ姿を現していません。
栃木駅周辺の道路網 (明治).jpg

上の道路図だけでは、なかなか場所の特定が出来ないと思いますので、2枚目は一気に百年後「昭和61年」の栃木駅周辺の道路の様子を掲示します。
栃木駅周辺の道路網 (昭和).jpg

栃木駅は、明治21年(1888)5月22日に両毛線の開通と共に開業しました。
東武線は昭和4年(1929)4月1日、杉戸・新鹿沼間が開通しました。
道路は、旧例幣使街道はほぼ昔のままですが、駅北口から放射状に道路が伸びています。しかしこの時期でもまだ駅の南側は開発が遅れて水田が広がったままの状態でした。

そして3枚目は「平成」の栃木駅周辺の様子です。
栃木駅周辺の道路網 (平成).jpg

元号が昭和から平成に変わった1989年、栃木駅前土地区画整理事業が着手となり、平成3年(1991)には栃木駅南土地区画整理事業もスタートしました。
これにより、駅の南側の開発も進み、北口南口両方に駅前ロータリーが整備されています。大きな変化は平成12年(2000年)に東武線が、続いて平成15年(2003)に両毛線が高架化され、駅の東西に有った踏切も無くなり、道路の渋滞も解消されています。

それでは栃木駅の高架化ですっかり変わってしまった、昭和の栃木駅周辺の風景を見ていきたいと思います。
最初は昭和50年(1975)1月、駅の連絡橋からの構内の雪景色です。
連絡橋から駅西方向、太平山を望む(1975年).jpg
太平山を望む西方向の様子。構内には石灰運搬用の貨車が多く見られます。両毛線が真っ直ぐ西に向かって伸びています。東武線は写真左端、前方で左にカーブしています。

東武線連絡通路から駅東方向を(1974年).jpg
反対側東方向を望むと、左端に栃木駅舎の屋根。中央奥に写る煙突は、東武線(右側)と両毛線(左側)に挟まれた「鳥海味噌」工場のものです。

次に高架化で姿を消した踏切の様子。昭和51年から昭和53年頃に撮影したものです。
第一佐野踏切(昭和51年頃).jpg
上の写真は駅の西側、栃木自動車教習所の南東側に有った、両毛線の踏切です。写真右奥に栃木駅の連絡橋が見えます。その駅舎とこの踏切との間、線路の北側には石灰会社の倉庫や貨車溜まりが有りました。
石灰会社の倉庫(1974).jpg
昭和48年(1973)撮影、栃木駅西側の石灰会社倉庫。

石灰会社の倉庫(1975).jpg
昭和50年(1975)撮影、栃木駅西側、石灰会社の貨物積み込みエリア。

次は駅の東側の踏切です。
両毛線沼和田踏切(昭和51年頃).jpg
上の写真は昭和51年(1976)撮影、両毛線沼和田踏切を北東角から、鳥海味噌工場方向を望む。
駅東側、沼和田両毛線踏切(1978年).jpg
上の写真も同じく両毛線沼和田踏切の南東角から西の栃木駅方向を写しています。

この両毛線の踏切の南側には、もう一ヶ所踏切が有りました。東武日光線の踏切です。
ですから、この道路を通行する為には、続けざまに二つの踏切を渡らなければなりませんでした。
駅の直ぐ傍の踏切の為、閉まると結構な時間電車の通過を待たなければならず、運が悪いと両方の踏切がしまって、間に閉じ込められて不安を感じる事も有ったのではないでしょうか。

私はこの東武線の踏切を一度定点撮影の様な真似事をしました。最近の状況も含めて、ご紹介します。
最初に撮影をしたのは昭和41年(1966)だったと思います。
1966年沼和田東武線踏切.jpg
この写真は踏切の南西脇から写しています。浅草行の普通電車が接近してきています。
写真を見ると分かりますが、この頃はワイヤーロープが下がって来て通行を遮る方式でした。

昭和50年(1975)代に、ほぼ同じ場所から、ほぼ同じ方向に向かって撮影しています。
1974年沼和田東武線踏切.jpg
特急きぬが接近してきています。踏切は現在と同じ、バーが両サイドから円弧を描いて下りてくる形式に変わっています。警報ランプも見えます。
線路の北側に、「トリウミ きぬごし味噌」と大書した工場建屋が見えます。

3枚目は平成25年(2013)にほぼ同じ場所同じ方向を写した写真です。
2013年9月23日栃木駅周辺 (1).jpg
高架化により風景は大きく変わって、踏切も無くなりました。

最後に昭和の栃木駅に行きましょう。夜の栃木駅です。昭和51年(1976)に撮影しました。
栃木駅前夜景(昭和51年頃).jpg
写真左の端に写っているのが、駅前交番。その横に公衆電話ボックスが並んでいます。駅前にメンズショップが有りましたね。駅前広場にはロータリーもまだ有りません。
同じころ駅前に有ったイトーヨーカドーの屋上から撮影した栃木駅の風景も紹介します。
栃木駅前ヨーカドー屋上より(昭和51年頃).jpg
こうして改めて見ると、栃木駅前は意外と雑然としていたものですね。そして駅南にはまだ多くの田畑が広がっていました。

駅の中に入って行きます。1974年から1975年頃の撮影したものです。
改札口を入って1番線、小山方面ホームの様子を、2番線ホームより撮影しました。
両毛線2番線ホームより1番線ホームを撮影.jpg
その1番線ホームより、2・3番線ホーム、さらにその奥の東武線ホームを写した写真です。
1番線ホームより東武線ホームを撮影.jpg
そして、一番南側の東武線ホームの様子を写した写真。特急きぬ号が通過中
東武線ホームの様子.jpg

この間までこの駅から東京や日光・宇都宮方面に出かけていたのに、もう昔のことになってしまいました。
栃木駅も今はすっかり変わってしまいました。


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この秋最初のサザンカの花が咲きました。 [草花]

今朝、庭のサザンカの木に、この秋最初の花が咲いているのを、見つけ早速写真に収めました。
サザンカの花が1輪咲きました.jpg
サザンカの花が咲きました.jpg
早速、花をみつけた蜂がやって来ました。
早速蜂が見つけました.jpg

朝の天気予報によると、栃木県の今日の最高気温は28度と、暑くなると伝えていました。でも明日は一転して22度、明後日は20度と寒くなると言うので、この天気は逃がせないと、シーツを洗濯し、布団を干しました。そんなこんなで、朝から汗びっしょりになってしまいました。

冬の到来を感じて、サザンカも開花を始めています。木には沢山の蕾がふくらんで来ています、そろそろ冬支度の準備をしようか。
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謡坂(栃木市)に建つ石碑 [石碑]

栃木市から佐野市に行くルートのひとつに、主要地方道75号線(栃木・佐野線)が有ります。
この道路は、栃木市街地の中心点(倭町交差点)を起点として、西に向かい皆川城内町を抜け、廻り峠を越え、岩舟町小野寺を抜け佐野市伊勢山町で、主要地方道67号(桐生・岩舟線)と合わさる、伊勢山町交差点を終点としていますが、今回紹介する石碑が建つ謡坂(うたいざか)はこの道路の栃木市と佐野市の境界線となる地点に成ります。

石碑は、この栃木市と佐野市との境界線近くの、栃木市側の道路脇に建てられています。
道路脇と言っても、この道路、現在私たちが通常通行している道路では有りません。現在の道路の西側にほぼ並行して有る旧道の方に成ります。

この旧道、私も今回初めて通りましたが、「謡坂」の名称の通り、道路幅4から5メートル程の峠道になっていて、坂の一番高くなっている所が、市の境に成っている様で、「佐野市」と書かれた道路標識が立てられていました。

栃木市側から行くと、この「謡坂」の旧道は、岩舟町小野寺の集落を抜けて、北関東自動車道の高架下を潜った直ぐその先で、道路は大きく右にカーブをしていきますが、その手前で右側に分岐する細い道路が旧道の入口です。
謡坂1.jpg

旧道に入ると、道路は上り坂と成ります。道路の両側には人家や神社などが見られます。
謡坂2jpg.jpg

更に進むと、道路は更に狭くなってきました。道路の右側に今回紹介する石碑が現れました。その手前に白色のポールが建っていますが、以前ここに「岩舟町」と書かれた道路標識が有りました。
謡坂3.jpg

道路はまだ登って行きますが、坂を登り切った地点に「佐野市」と記した道路標識が建っています。
謡坂4.jpg

佐野市側に入ると道路は下り坂と成ります。道路脇の雑木の為道路が狭くなっています。
謡坂5.jpg

更に下って行くと、次第に視界が開けて、前方で広い道路に合流して行きます。旧道はここまでで、元の道路に戻りました。
謡坂6.jpg

上の写真の中央奥に、山を崩して砕石を採っている様子が写っていますが、元々この旧道の東側にも西側同様山になっていました。旧道は正に山合を抜ける峠道でした。
現在通行している新道は、山を崩して低くなった所を利用して道路が作られたことに成ります。新道は旧道の地点よりも20メートル程低いルートを通しています。

謡坂新道.jpg
上の写真は、新道脇から南方向を撮影したもので、道路右側(西側)の山の中程に、電柱が並んでいるのが確認出来ます。その所に旧道が走っています。
写っている山の標高は約160メートル程で、旧道の坂の最高点は75メートル程、私が写真を撮っている場所が丁度標高50メートル程度です。この新道が抜けている場所には、標高100メートル程の山が有りました。国土地理院が昭和32年5月30日に発行した5万分の1の「栃木」の地形図を確認すると、まだ新道は無く旧道が切通状に山合を抜けている状態で描かれています。そしてそこに「謡坂」と記されています。
ただそれは坂の名前ではなくその所の字名になります。イコール坂の名前でも有ります。

現在新道の東側にて、山を削って砕石を採取している会社の名前は、「株式会社藤坂」と言い、この場所の現場の名称は「音坂工場」となっています。
なぜ「謡坂工場」ではないのか、私は地元住民では無いので分かりませんが、「音坂」の方が言い易い気がします。
地名について岩舟図書館で資料を物色して行くと、「小野の里」という、小野寺むらづくり推進委員会発行 地域文化研究部会編集の小冊子が見つかりました。その中に「小野寺の地名」の一覧表が有り、そこに<謡坂 オトザカ(音)・ウタイザカ>と記されていました。地元の人達は、「オトザカ」と言っている様です。これで「音坂工場」となっていることに、納得しました。


前置きが長くなってしまいました。石碑を見ていきたいと思います。
石碑表面.jpg碑陰.jpg
石碑の正面からと裏側からの、2枚の写真を載せました。

道路側から見える、石碑正面には「坂路改修紀念碑」と有ります、その左側に「栃木県会議長 松永和一郎書」、その下には「石工 小田鐵碩■」(最後の文字は私には何の漢字か判断できなかった)
揮毫者と石工の署名部分は以下の写真の通りです。揮毫者「松永和一郎」氏の肩書部分もなかなか達筆で判断に迷いましたが、碑陰の功労者に「松永和一郎」氏の名前が有り、その肩書の文字で判明しました。
揮毫者署名.jpg石工署名.jpg

次に碑陰を見てみます。
最上部に、「改修貢献者芳名」として、関係役所の土木課長さんや土木主幹・土木技手の氏名が並んでいます。この紀念碑の対象とした事業は1回では無く、6回の事業に渡っていることが分かります。
一番古い所は「大正十一年郡道謡坂改修」それから大正十三年、大正十五年、昭和二年、と続き最後が「昭和四年縣道謡坂改修」となっています。時代の流れで「郡道謡坂」から「縣道謡坂」に変わって来ています。それぞれの事業で関係した役所の人物が記されています。
そして最後に「功労者」として二名の名前が並んでいます。一人は碑銘を揮毫した「栃木縣會議長 松永和一郎」氏、そしてもう一人は「栃木縣農會議員 野尻金一郎」氏です。
次の2段目から8段目にわたって、「寄附者芳名」がずらっと並んでいます。
その人数は重複も有りますが、「他所」が174名、「地元」が125名となっています。
一番下の段には「工事関係者氏名」が並んでいます。
碑陰の文字を必死に読み移してみました。上下を分割して掲載します。

碑陰上半分.jpg碑陰下半分.jpg

石碑を観察している中で、幾つかの疑問が出てきました。
その一つ疑問は、寄附者を「他所」と「地元」に分けて有りますが、「地元」と言うのは、「小野寺村に限定されるのだろうか。逆に「他所」はどこなのか、「他所」の人の名前の上に小さく住所が記されています。
確認出来た地名は「犬伏町」「堀米町」「足利市」「三谷」「藤岡町」「新里」「佐野町」「上岡」「赤見」「岩舟」「吉水」「旗川」などです。ここに出てこなかったのが「地元」に成るのでしょうが、「大字小野寺」(現在の栃木市岩舟町小野寺)です。石碑が建てられている地点も「小野寺」ですから、これで間違いないでしょう。

次に湧きあがった疑問は、石碑碑陰の最下段「工事関係者氏名」に関してです。
その冒頭に出てくる「阿蘇郡」に列挙されている「発起者」や「世話人」です。
「板橋六郎」「菊池徳太郎」(犬伏町)、「田口勝次郎」(堀米町)、「石塚由蔵」「石塚七平」「金田幸吉」「野本藤吉」(佐野町)。これらの人達は「寄附者芳名」欄でも「他所」の列に全て名を連ねています。
何故、地元民では無い人達が、発起者や世話人で、小野寺の人達でないのか。
ちなみにその次に続く「下都賀郡」の列に並ぶ「相談役」や「(工事)委員長」「副委員長」「會計」「常務委員」「委員」29名は、「寄附者芳名」欄では、「地元」の段に名を連ねています。
この疑問は今後機会が有ったら解明したいと思います。

最後の疑問、この石碑の建立時期は何時なのか、石碑には記されていないのです。
そこで、碑文に記された情報から類推をしていくと。
①最後の改修工事の時期は、昭和四年(1929)ですから、それよりも後に成ります。
②寄附者芳名欄に「栃木町」と出ているので、栃木市制施行昭和十二年(1937)よりも前に成ります。
この間に建てられたことに成ります。これ以上絞り込めませんでした。

石碑とは別ですが、現在私たちが通行している「新道」は、何時開通をしたのだろうか、気に成りました。
地形図では測量から発行までずいぶんタイムラグが有りますから、他の方法は。
国土地理院が提供しているインターネットの空中写真で確認出来ないか、検索してみました。
①平成6年(1994)11月4日撮影写真。旧道しか写っていません。これより後です。
②平成11年(1999)6月9日撮影写真。旧道に並行して新道が写っています。この年より前です。
  ※ちなみに平成11年6月1日発行の5万分の1「栃木」の地形図には、当然新道は描かれていません。

今、この旧道を通行する車は殆ど無くなりました。そしてこの石碑の存在も忘れられようとしています。

今回参考にした資料:
「小野の里」 小野寺むらづくり推進委員会発行
「栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人」 石崎常蔵著
「5万分の1地形図栃木」 国土地理院 昭和32年5月30日発行






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我家の回りの田圃で稲刈りが終わりいよいよ秋が深まります [自然の恵み]

10月に入って最初の週末、空は真っ青に晴れ上がっています。
この天候を待っていたかのように、昨日から今日に架けて我家の回りの田圃で、一斉に稲刈りが行われました。
あっちからこっちから、コンバインが走行音を鳴り響かせて、黄金色の田圃の中を右へ左へ走っています。
それでも人の姿は、どこも一人か二人です。旦那さんがコンバインを運転して、奥さんが周りで刈り残した稲穂を刈っているんでしょうか。
もう直ぐ収穫.jpg
しっかりと実って、収穫を待つ田圃

稲刈り.jpg
黄金色の田圃の中をコンバインが走りまわています。
稲刈り東.jpg

稲刈り西.jpg
西側の田圃、昨日一日コンバインが走り回って、すっかり刈り取られています。

疎開者1.jpgカマキリ.jpg
我家の網戸には田圃から疎開をして来た物か、カマキリやバッタが姿を現しています。

写真を撮っていると、目の前にトンボが現れ、塀のアルミサッシの先にとまりました。
トンボ.jpg

稲刈りも終えて、今年もまた一段と秋が深まって行きます。

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