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改修を終えて新築当初の外観を見せる元栃木町役場庁舎 [建物]

栃木市の「元県庁堀」南東部角に建つ「元栃木町役場庁舎」の建物、傷みが激しくなって来ていましたが、このほど改修工事を終えて、新築当初の外観が蘇り、美しい姿を見せています。
改修なった旧栃木町役場庁舎.jpg
(上の写真が、改修成った「元栃木町役場庁舎」)
改修前の正面玄関.jpg
(改修前の北側、正面玄関部の写真)
改修前後で塗装色の違いが認められますが、これは色褪せにより減色した為か、元々違っていたのかはっきりしない。今回改修後は「青緑色」ですが(見た目玄関・バルコニー部は更に緑色が強く、「常盤色」に近いように思われる)、改修前はより水色に近い「青竹色」か。ただ1980年頃は全く別の色で「肌色」に近く、これまでも何度か塗装替えをして来ていると思われます。
1981年旧栃木町庁舎 4.jpg
(1981年撮影した時の塗装色は「肌色」に近かった。写真を見るとこの頃は堀に住む鯉も色鮮やかな錦鯉が多く見られましたが、最近は殆ど真鯉で緋鯉も稀に見られる程度に成ってしまいました。)

次に今回の改修に伴い変わった所をを見ていきたいと思います。<「旧栃木町役場庁舎」については、2016年5月12日付でこのブログに於いて紹介させて頂いておりますので、そちらもご覧頂ければ幸いです。>
改修前の外観(南東角部分).jpg
上の写真は改修前の姿です。南東部分に有った木造モルタル造りの建屋は、当初は無かった為、今回の改修工事で初期の姿に戻すということで、取り壊されました。
下の写真は改修後で、スッキリした感じになっています。
改修なった旧栃木町役場庁舎(南東角部分).jpg

外にこの改修で姿を消したものがいくつかあります。
建屋の外壁に何カ所か取り付けられていた外灯が、取り外されました。
街灯.jpg
次の写真はドアの取っ手です。凝ったデザインです。東側入口に有った風除室のドアに付いていましたが、このドアは元々は後から追加した構造物だった事から、今回風除室と共に撤去されています。
ドア取っ手.jpg
それからこのフックの様な金具、正面玄関バルコニーの柱の左右内側に付いていました。
飾り.jpg
単なる装飾品か、他に何か用途が有った物か、不明です。

建物の屋根の中央部に建つ塔屋部分に設置されていた、2台の大時計も今回姿を消しています。
大時計.jpg塔.jpg
この大時計も私が1981年に撮影した時には有りませんでしたから、チョッと殺風景な気がしますが、当初の姿と言う事で、仕方ありません。でもそもそもこの塔屋は何の目的で設けられてものだったのでしょうか。
1981年旧栃木町庁舎 5.jpg
(1981年撮影、時計は付いていません。この頃元県庁堀や巴波川では白鳥を飼育していました。川面を泳ぐ白鳥の姿が優雅だったことを覚えています。良く写真を撮りました。)

改修により剥がれていた塗装膜や腐食した窓枠部分等が、綺麗に修復されました。
窓周辺(改修前).jpg窓周辺(改修後).jpg

正面玄関バルコニーの柱に施された装飾部の塗装も、以前は細かい所は塗りつぶされていましたが、今回は細部まで塗り分けられています。
柱の装飾.jpg柱の装飾(改修後).jpg

この建物は予定では来年(2022年)4月、「栃木市立文学館」として、栃木市ゆかりの文豪「山本有三」や、少女時代を栃木市で過ごされた女流作家「吉屋信子」等の作品や資料を展示紹介する施設として、開館する様です。その為に外観的に大きく変わった所が有ります。
それは建物の裏手に当たる部分にエレベーターが外付けされたのです。
文学館として活用する為、2階の展示部分にもお年寄りや足の不自由な方も見学する事が出来る様にする為です。今はバリアフリーは必須条件ですから。
裏手エレベータ.jpg裏手.jpg

今から来年の開館が待ち遠しいです。

丁度今、大きく成長したヒマラヤ杉の脇の元県庁堀には、吉屋信子が少女時代に暮らした栃木町の思い出を読売新聞社宇都宮支局編の本「野州百話」の序文に寄せた一文の中で、<巴波川に浮かぶカワフネの黄色いかわいらしい花>と記している、黄色の小さな花「河骨」が咲き始めています。
堀に咲く河骨1.jpg堀に咲く河骨2.jpg
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栃木市内を流れる清水川流域を巡る① [栃木市の河川と橋]

今回巡る栃木市内を流れる川は、私の家の脇を流れる幅2.5メートル程の小河川です。川の名前は「清水川」です。どこにも有りそうな名前の川です。
この川の名前を現地で実際に確認の出来るところは、一ヶ所しか有りません。
万町交番前交差点から西にのびる市道1031号線、錦町五差路を過ぎて更に西に進むと、この清水川に架かる橋が有ります。橋の手前左側に「ポアッソン」というフランス料理店が有ります。その橋の親柱に「清水川」と記した橋名板が付いています。橋の名前もそのまま「清水川橋」です。
清水川橋.jpg
現在は清水川橋の下流側に側道橋が追加されています。この橋を毎朝大勢の学童さんが集団登校をしている為、その安全を図るために数年前に設置されたました。

清水川橋no.jpg清水川橋の橋名板.jpg
(清水川とハッキリと表示された親柱)

先ずは、この川の源流はどうなっているか、それを探索して行きます。川沿いに通行できる道路が無いので、回り込んで一つ上流の橋へ向かいます。
中乃橋.jpg
「中乃橋」とコンクリート製の親柱に陰刻されています。架橋されたのは「昭和五年六月架設」と親柱に見る事が出来ます。
中乃橋架設年.jpg中乃橋の橋名表示.jpg
(南西側親柱には橋名が陰刻されています。ひらがなでしょうが達筆なので私にはどう読むのか分かりません。北東側の親橋には漢字で「中乃橋」とハッキリ陰刻されています。ただ何故この橋の名前が「中乃橋」と命名されたのか、考え付きません。入舟町に有る元県庁堀と巴波川との間を舟で往来できるよう開鑿された漕渠には同様に「中ノ橋」と言う橋が架かっていますが、この漕渠には「学橋」「中ノ橋」「入舟橋」の三本の橋が架かっています。従ってその中央に位置する場所に架けられているから「中ノ橋」は納得がいくのですが)

現在の河道は両岸・河床とも鉄筋コンクリート製になっていますが、40年前に撮影した写真を見ると、雑草が生えた土手でした。
1980年撮影の中乃橋.jpg2021年撮影の中乃橋下流側.jpg
(40年、橋自体は何も変わっていませんが、河道の姿はコンクリート化され大きく変わっています。)

河道は、この中乃橋の直ぐ上流側で二筋に分かれています。ひとつは北の方から真っ直ぐ橋に向かって流れて来ています。もう一筋は右岸(西側)から合流する形で流れて来ています。
清水川橋脇で舘野川が合流.jpg
(二筋の水の流れが、中乃橋の所で混ざり合い、橋を潜って流れて行きます。)

現在この脇から流れ込む河道は暗渠化されていますが、平成26年の河川改修以前は開水路で、川の脇を走る道路にガードレールが無かった為、時々自動車が脱輪するトラブルが発生していたようです。
暗渠化された館野川下流域.jpg危険だった舘野川.jpg
(道路脇の水路が暗渠化されて安全走行が可能になった)

河川改修工事の際の掲示版に、「舘野川河川改修工事」と記載されていたので、この時こちらは清水川では無ないことが確認されました。

現在舘野川の上流域に調整池が築造されています。その場所は中乃橋からずっと西に行った、栃木環状線の外側に成ります。
調整池化工事中の舘野川上流域.jpg舘野川上流域.jpg
(ほぼ完成した舘野川上流部の調整池と元の舘野川の様子)
清水川も2019年10月12日から13日未明に通過した台風19号で増水し溢れ、下流域に大きな浸水被害を発生させています。この調節池の築造もその対策の一環に成ります。

もう一つの北側からの河道を遡って見ます。川幅はづっと狭くなって住宅の間に隠れていますが、その先は旧鍋山街道(現在の市道1027号線)を抜け、関口海苔店栃木本店の直ぐ北側を流れています。
十二社橋.jpg
(ガードレールタイプの橋の高欄にこの道路が以前県道栃木粕尾線であったことを示す表示が残っています。ちなみにこの旧鍋山街道が敷設されたのは、明治27年頃で、明治33年7月5日、ここに鍋山人車鉄道が開通しました。)
ところで、ここに架かる橋の名前は「十二社橋」となっています。すぐ北側に鎮座している十二社神社からこの名前になったと考えます。
更に上流に向かいます。先ほどの十二社神社の前から東に延びる市道2056号線に、小さな親柱を備えた橋が架かっています。
岡堀橋.jpg
親柱を良く観察すると「岡堀橋」の文字が陰刻されています。「昭和五年四月竣功」と有ります。こちらの水路名は「岡堀」と言う事が分かります。
1980年岡堀橋親柱.jpgカワチ薬局さん敷地内に消える河道.jpg
この「岡堀」はこの橋の上流側は、カワチ薬局栃木インター店の敷地に入り、縞鋼板に覆われ、その先は暗渠化されてルートの確認が出来ません。
周辺をジックリ観察して回ると、そこから北方、栃木環状道路を越えた先、パチンコ店「ベガスベガス」の南東部に有る居酒屋「ゆきの」さんの店舗前に、以前の開水路の一部が残っていました。
栃木環状線脇に残る岡堀の一部.jpg
(栃木環状線の脇、居酒屋「ゆきの」さん店舗前に残る「岡堀」の一部と思われる開水路)

以上から推察するに、清水川の上流点は「中乃橋」で、それより上流側は北側からの「岡堀」と、西側からの「舘野川」とに分かれている。
「岡堀」が地形図上に現れるのは、昭和40年発行の2万5千分1の「栃木」の地形図で、それには「中乃橋」が地図記号で記載されています。そこから北方向に河道をたどってくと、箱森町の北隣りの野中町に至ります。そこで北西から来ている旧赤津川から分流しています。その地点は現在の栃木総合運動公園の正面ゲートの南側辺りに成ります。
吹上地区まちづくり協議会(歴史ロマン委員会)の編集・発行となる、「知っていますか、郷土の地名 吹上地区小字の由来 野中町・宮町・千塚町編」で野中町拡大図を見ると、先ほどの運動公園正面ゲート付近の小字名は「岡堀」と記されていました。
「岡堀」と呼ばれるところで赤津川から分かれた水路だったところから「岡堀」と呼ばれるようになったものと思われます。

一方の舘野川の源流を地形図から調べると、明治19年発行の迅速測図「栃木」に現在の舘野川に相当する位置に水路が表されています。この地形図には「岡堀」は描かれていません。
描かれている舘野川と思しき河道を目で遡って行くと、現在造られている調整池の先で河道は時計回りで大きく曲がり、現在の「セレモニーフラワーホールつかさ」さんの付近に大きな沼が描かれています。かつてここに湧水によって出来た大沼が有り、これが舘野川の源流だったと思われます。
大正6年発行の2万5千分1「栃木」の地形図では、すでに大沼は水田に変わっています。ただ現在の調整池付近に小さい沼が認められそこから東側は湿地になっています。ここが「たてぬま」と思われます。
これはあくまでも私の推論ですが、かってこの「たてぬま」や「おおぬま」の湧水に囲まれた内側にこの地方に住む豪族が舘を構えていた。それが「舘の沼」「舘の川」と呼ばれ、「舘沼」とか「舘野川」となったのではないかと。
栃木市教育委員会事務局 文化課編集・発行の「栃木市遺跡分布地図の中に、この地を「舘野城」の遺跡として記しています。

今回は清水川の上流域を巡りました。清水川は赤津川から分流した「岡堀」と、「舘野川」との二つの流れが合流した「中乃橋」から下流が「清水川」と呼ばれ、そこから南流して柳橋町から祝町・湊町を経て巴波川に流れ込んで行きます。次回はその下流側を巡って行きたいと思います。



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なぜキジはあんなに甲高い声で鳴くのだろうか

我家の近く、一羽の雄のキジが灌木の陰に隠れて住んでいます。
それが良くあの甲高い声で、「ケーン・ケーン」と鳴いています。
鳴き声がするけれど、なかなか姿を確認する事が出来ませんが、灌木の陰、草むらにうずくまっている様子。
「雉も鳴かずば打たれまい」とは、広辞苑によると<無用の事を言わなければ、禍を招かないですむことのたとえ>と解説されています。隠れているならば鳴かなければいいのにと思う。
時には、田んぼの畔に姿を現して、鮮やかな姿を見せてくれることも有りますが。
キジ.jpg

だからこそ、隠れているときは鳴き声もころしていればいいと思うのだか、何故あれほど自己主張する様に鳴くのか不思議でならない。何に対して鳴いているのだろうか、何か自分のテリトリーに侵入してきたことに対して威嚇する為に鳴いているのだろうか。先日、アオサギとツーショットの所を写真に収めました。
アオサギは身じろぎもせずじっと立ったままの姿。雄のキジは直ぐに草むらの中に消えて行ってしまいました。
アオサギとキジ.jpg

スズメとのツーショットの写真も有ります。やはり先日撮影しました。キジとスズメ、会話は成立しているのだろうか。
キジと雀.jpg

ずいぶん前の事ですが、メスのキジと一緒にいるところを見たことが有りましたが、最近はオスの姿しか確認できません。あの鳴き声はメスのキジを呼んで鳴いているのだろうか。
キジのつがい.jpg
雌のキジ.jpg雄のキジ.jpg

なんとも、キジの様子が気に成ります。
家に居ながら、こんな景色を見る事が出来る。何とものどかな空間です。
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我家の庭も春満開 [自然の恵み]

この間まで殺風景だった我家の庭、スイセンが咲き雪柳がビッシリと白く小さな花を付けて、枝をしならせているだけだったのに、桜前線が猛ダッシュで駆け抜けて行った後、気が付いたら庭のナツツバキの木がみずみずしい若葉色に変わっています。
ナツツバキ.jpg
チューリップが一輪、黄色い花を咲かせました。
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紫色のパンジー、ピンク色のシバザクラ、ハナカイドウも薄ピンクの花を付けました。
パンジー.jpg
シバザクラ.jpg
ハナカイドウ.jpg

でも、喜んでばかりは居られません。油断すると家の周りがあっと言う間に雑草に覆われてしまいます。早め早めで小さい内に抜くのが肝心です。
新型コロナウイルスの感染が一向に収まらず、ずっとステイホームの日々が多くなっているので、草むしりに時間がかけられます。

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