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かつて栃木市に魅力満載の月刊タウン情報誌が有りました

今の時代、私達の回りにはありとあらゆる情報が渦巻いています。そして手元にはスマートホンやアイホーンが有って、分からない事、興味が有るもの、なんでも検索すれば欲しい情報がたちまち表示されます。
日常的にチョッと疑問に思ったことを調べて行くと、同じような疑問を多くの人が検索していることに、時に驚かされる事も何度も経験しています。
逆に必要ない情報も勝手に送られてきます。時には怪しい情報も入り込んできます。
メールボックスも少し開かないでいると、数日で何十通も溜まってしまいます。ほとんど不要な情報で、せっせと削除しています。

今から40年程前までは、まだ一般家庭にパーソナルコンピューターなど普及しておらず、必要な情報は書籍を紐解くしか有りません。私も20代の頃は、休日と言うと良く本屋さんに行っては、気になる本を物色していました。仕事に必要な技術情報を求めては、東京新宿の紀伊国屋書店とか東京駅八重洲口のブックセンターまで出かけて、必要な書籍を見つけては買って来ていました。
その頃は栃木市内にも多くの本屋さんが有りました。良く行ったのは「大塚書店」そして「広谷書店」、他に「出井書店」「紙五書店」など。そして古本屋さんも有りました。「吉本書店」「森田屋書店」には良く行きました。特に「吉本書店」は地元栃木関連の書籍を多く扱っていました。復刻版も出版しており、私も何冊か購入させて頂きました。最近閉店されましたが、残念です。

そのような時代、昭和51年(1976)11月に栃木市最初の月刊タウン情報誌が創刊されました。名前は「月刊うづまっこ」と言いました。発行したのは、㈱ふろんてぃあ編集室 編集兼発行人は「かじはら一豊」さんでした。
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(「うづまっこ」の創刊準備号や創刊号などは、私の蔵書として大切に保管しています)

この「月刊うづまっこ」の創刊号が出る2ヶ月程前に出した「準備号」が本屋さんの店頭に並んだのを見つけ早速買って帰りました。本の冒頭に、編集長である「梶原一豊」さんの「創刊の辞」が掲載されていました。その一部を抜粋すると、
≪栃木市は、地味、保守的、閉鎖的であるとよく言われる。しかし、栃木市に脈々と流れているローカル文化の独自性、歴史性の精神は、その時代を越えて甦っているのである。わが月刊タウン誌「うづまっこ」はそこに視点を置き、素朴な発想から、栃木の文化と町の在り方を、文明史的に見直していこうとするものである。≫との主張を持って、この町の情報を集め、あるいは発掘をして、情報発信を進め、新たな文化の創生を担っていたと感じています。
この後、「㈱ふろんてぃあ」からは、昭和53年9月「栃木の史跡」(影山博著)、昭和60年10月「野州路逍遥」(読売新聞宇都宮支局編)、昭和62年10月「わが町さんぽ」(長沼英雄著)などが、出版されています。
これらの書籍は何度も読み返しているので、今ではボロボロになっています。郷土の情報が満載ですから。
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(「(株)ふろんてぃあ」から出版された書籍は、ブログを書く時良く参考にさせて貰っています。)

このタウン情報誌により、地元栃木市中心に活躍されている芸術家に光を当て、彼らの作品発表の場を提供した企画、「ひとりと四人展」(後に「ひとりと五人展」)が開催されています。
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(「うづまっこ」創刊1周年特別企画「ひとりと四人展にて、買い求めた「ありが陶養」さんの作品)

又、この情報誌には、栃木市を中心に活躍をしている、多くの芸術家の作品が表紙を飾っていました。「絵画」に「切り絵」他には「写真」や「版画」、珍しいものでは「ろうけつ染」による作品などが紹介されていました。
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(「うづまっこ」1986年新年号の表紙を飾った作品「太平山神社随神門」、創刊10周年記念テレホンカードにも採用されました。)

しかし、この月刊タウン情報誌も創刊から13年で姿を消すことに成りました。
私はいつも思っています、もし「うづまっこ」が今日まで続いて来ていたら、どんな情報誌に変貌しただろうかと。そして栃木市の文化の進歩形成に大きく関わり続けて来ていただろうと。

「月刊うづまっこ」に続く様に翌年の1977年9月に、宇都宮市中心のタウン誌「もんみや」が創刊されました。
そして、現在も発行を続け、バックナンバーは520を超えて、多くの情報を届けてくれています。
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カルガモの叫び

今朝、目を覚ますとカルガモの鳴き声が耳に入って来ました。叫んでいる様に異常に感じました。
雨戸を開けて外を見てみると、田植が終わった水田に、三羽のカルガモが寄り添う様に泳いで、水の中に頭を突っ込んでは、何やら餌を啄んでいます。
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三羽が一緒になって水田の中をゴソゴソ話し合いながら餌を食べています。
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すると別な方向から大きな声で叫ぶように鳴いている声が聞こえてきました。声のする方向を見ると、そこに一羽のカルガモが田んぼの畔の上でギャーギャー叫ぶように鳴いています。
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三羽のカルガモは相変わらず、仲良く一緒になって水田の中を泳ぎ回って、頭を水の中に突っ込んで餌を食べています。
その様子を見ていて感じました。ああー、別の一羽のカルガモは三羽と一緒になりたくて叫んでいるのではと、その後その一羽が泳いで三羽に近づいて行こうとすると、

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三羽の内の一羽が急に近づくカルガモに威圧行動を見せて、その別の一羽を追い払おうとしたのです。
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そんな状況を数回繰り返していましたが、結局別の一羽は三羽の仲間には入れて貰えず、飛び立って行ってしまいました。
あのカルガモ達の関係性はどんな関係だったのか。三羽は兄弟で他所から入ってきたカルガモを敵視したのか。そんな事私に分かる筈が有りませんが。
その後も暫らく三羽のカルガモは田んぼの中を泳ぎ回っていましたが、何時しか満腹になったのか姿を消していました。
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朝のカルガモの鳴き声は、あのひとりぼっちのカルガモの寂しい叫びだった。そう思う。
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栃木市吹上町の元村役場敷地に建つ「合併記念」の石碑 [石碑]

今回は、栃木市吹上町の元「下都賀郡吹上村役場」が有った場所に建つ「合併記念」の石碑を紹介します。
石碑が建てられているのは、合戦場町から大皆川町に通ずる市道1024号線沿い、吹上町のほぼ中央部を横断するこの道路を進むと、道路北側に建つ火の見櫓が目印となる。
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(火の見櫓が建つ、元吹上村役場前)

東隣にはかつての吹上村の村社「住吉神社が鎮座し、道路脇には参道入口の石の鳥居が確認出来ます。
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(元村社の住吉神社参道入口)

元下都賀郡吹上村役場の跡は現在更地で、入口に建つ石の門柱に刻まれた「吹上村役場」の文字が、ここに村役場が有った事を物語っています。
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(石柱、右側に「栃木縣下都賀郡」、左側に「吹上村役場」の文字が)

敷地内には大きな石碑が2基建てられています。
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(敷地西側隅に建つ「合併記念」の石碑)

今回紹介する石碑は、敷地の西の端に東向きに建てられています。高さ4メートル以上になる石碑の上部の篆額に、「合併記念」の文字が篆書体で大きく刻まれています。
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(石碑上部の篆額部分には、篆書体にて「合併記念」と浮彫されている)

揮毫した人物は、石碑左下隅に石工と並んで彫られていました。「淡翠渡邉茂里」と言う方ですが、どんな人物なのか調べてみましたが分かりませんでした。ちなみに石工は「相田忠吉」と言う人物です。
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(石碑正面左下隅に、揮毫者と石工の名前が並ぶ)

石碑表面にはビッシリと文字が刻まれています。整然とした升目に収まる文章は、横35行、縦75列、四百字詰原稿用紙7枚にもおよぶ碑文ですが、漢字とカタカナの文章はとても読みやすいものです。碑文全体を書き写しました。但しカタカナ部は読み易くする為ひらがなに書き換えました。
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(碑文全文、現物は漢字とカタカナで記されています)

この碑文の内容は、碑文最後にも記されています、「昭和二十八年町村合併促進法の施行により昭和二十九年九月三十日を以て六十有餘年の傳統ある吹上村を發展的に解消して皆川寺尾大宮の三村と共に栃木市に合併す 依って茲に碑を設立し本村沿革の概略及び現況を述べ併せて本村自治功労者の氏名を刻し永く其の功績を傳わる事とせり」 と。

碑文を撰したのは三名です。石碑の碑文の後に刻まれています。
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(上から、霞城渡邊彌三郎 愛山奈良部彌太郎 良圃塩谷良平です。)

碑文に記された村の沿革の中には、村教育の進展状況についても記されています。
「吹上小学校」は、明治六年、善應寺を校舎として開校した「明善学校」と、川原田の「涵養学舎」 細堀の「稽式学舎」 野中の「開盲学舎」等が、明治十八年併合村となって合わさり「吹上小学校」と改称したのが始まり。明治二十二年三月現在の地に校舎を新築し分校を合わせて「吹上尋常小学校」と改む、明治二十三年高等科を併置し「吹上尋常高等小学校」となる。明治四十五年五月農業補習学校を附設、昭和十六年四月国民学校令実施により「吹上第一国民学校」と改称。昭和二十二年四月新学制実施により「吹上村立吹上小学校」となる。
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(桜咲く吹上小学校)

「千塚小学校」は、明治六年「不如学舎」と称して開校、犬塚千手の両村併合し千手村立の「國平舎」と合併し、明治十二年「公立弘文学校」と改称、明治十八年併合村となり「千塚小学校」と改称。明治三十年現在の地に校舎を新築。昭和十六年国民学校令実施により「吹上第二国民学校」と改称、昭和二十二年四月新学制により「吹上村立千塚小学校」となる。
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(モダンな建屋の千塚小学校)

外に「吹上中学校」の事、「吹上消防団」の事、「吹上村農業協同組合」の事なども記されています。

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 (碑陰には歴代の村三役を始め、自治功労者の名前が刻まれています)
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箱森町から柳橋町そして湊町へと流れる清水川を模式図にしてみました [栃木市の河川と橋]

前回とその前と、2回に分けて栃木市箱森町から、柳橋町を縦断して湊町へと流れ、最後巴波川へと流れ込む清水川の流域とそこに架かる橋を、写真と文にて紹介しましたが、説明が下手と感じていましたので、清水川の流域全体を模式図にしてみましたので、合わせてご確認ください。
栃木市を流れる清水川・河道と橋の模式図.jpg
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箱森町源流の清水川流域を巡る(その2) [栃木市の河川と橋]

二年連続の新型コロナウイルス感染拡大の中のゴールデンウイークも終盤に入ります。
人流を抑える為不要不急の外出の自粛が叫ばれ、それでも自粛疲れも有ってか、少し郊外で英気を養いたいと、自然を求める人達が多くなっているとテレビニュースで報じていました。

私も今はひたすら我慢、ステイホームの毎日です。
ぼーっとして時間が有り余ると、不思議なものでブログを書く気力も減退するのか、暫らく更新をしていませんでした。書きたいテーマは幾つか有るのですが、筆が進みませんでした。

でも、そろそろ連休も終わるので、重い腰を上げます。清水川の話第二段です。
前回は源流側を遡って行きましたが、今回は流れに沿って下って行きます。起点は前回同様、河川の名前から命名された「清水川橋」から下流に向かいます。
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「清水川橋」から下ると、150メートル程で、堰の様な構造物が有り、河道が二方向に分かれます。本流は右方向、南に流れて行きますが、一方左方向は南東方向へ河道が曲がって行きます。
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(上の写真は上流側から、川の分岐点を写したもので、清水川本流は右方向、コンクリートの護岸が有る方です。写真奥中央右寄りに建つ二階家の先に黒く杉木立が覗いていますが、日限富士浅間神社
この辺りは子供の頃家からも近かったので友達と良く水遊びに来ていました。春には川の土手で「ノノヒロ」を採って味噌を付けて食べていた記憶が有ります。その頃は周りは一面の田圃でしたが、今は周りに住宅が迫って、南東方向に分岐した河道は、もうハッキリしませんが、こちらの流れは「元県庁堀」に繋がっています。(大正6年7月30日大日本帝国陸地測量部発行「栃木」の2万5千分1の地形図には、清水川のこの分岐と河道が良く描かれています。)

ここは本流を下ります。分岐点から150メートル程で「日限冨士浅間神社の西側に出ます。ここも子供の頃は良く遊びに来ていました。正月三箇日や四月一日の春の大祭には大勢の参拝者が行列を作っていました。境内には露店も出て賑やかだった記憶が有ります。
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日限冨士浅間神社春の大祭.jpg
(昔程では有りませんが今も正月や春の大祭は参拝者が訪れています)

清水川の左岸に沿って150メートル程の参道が一直線に伸び、そこには百基以上の白木の鳥居がトンネル状に建てられていました。
日限富士浅間参道鳥居郡.jpg
その頃は子供心に何本有るのか、友達と一緒に必死で数えた思い出が有ります。が、現在は残念ながら古くなって朽ちた鳥居が撤去され、新しく寄進されるものも少なくなってしまった為、かつての様な鳥居のトンネルは無くなってしまいました。
寂しくなった鳥居の参道.jpg

この参道の入口、一の鳥居の建つ場所は、栃木の市街地と皆川とを結ぶ「皆川街道」(現在は主要地方道栃木佐野線)の脇で、清水川はこの街道に架かる「浅間橋」の下を潜っています。
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この「浅間橋」の北西側橋詰に、「日限屋」と言う店舗が有りましたが、最近更地に変わってしまっていました。
1980年浅間橋.jpg

参道の途中にもう一ヶ所橋が架かっています。先ほどの皆川街道と平行に北側を走る、市道11134号線が参道を横切っています。そこに架かる橋は「藤宮橋」で、現在の橋は昭和11年1月に竣工しました。
藤宮橋.jpg
藤宮橋親柱.jpg
(斜めに傾いた親柱に「藤宮橋」の文字がはっきりと確認出来ます。

皆川街道の「浅間橋」を潜った清水川は、その先で「く」の字に方向を変えて、南南東の方向に一直線に進み、「県道太平公園線」まで流れて行きます。現在のドミノ・ピザ栃木湊町店さんの前辺りで県道を斜めに抜けて行きます。ここは橋の形跡は無く、暗渠化されて道路の下を潜っています。

この間、清水川を3筋の市道が横切っていますが、そこに架かる橋の名前は確認できません。
この3本の市道は北側から、市道11164号線・市道11169号線・市道11175号線に成ります。元々これらの道路は薗部村が明治38年3月から明治40年にかけて行った耕地整理事業によって碁盤の目の様に整然とした平行・直交の姿を呈しています。ですからこれらの道路は全て県道太平山公園線と平行に作られました。
3本の中でも一番早く地形図上に描かれた道路は一番北側の市道11164号線で大正6年発行の地形図に表れています。残りの2本も次に発行された昭和7年発行の地形図には碁盤の目がかなり広がって出来て来ています。
それでは北側から見ていきます。
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上の写真が市道11164号線です。まっすぐに太平山方向の向かって伸びています。手前の橋が清水川に架かる無名橋です。私は中学生の時この橋を、この道路を通って、西中学校に歩いて通学をしていました。懐かしい道路です。
市道11164号線に架かる橋1.jpg
清水川に架かる橋を下流側から撮影しました。橋の奥は木々がこんもりしていますが、右に曲がった先に「浅間橋」が有ります。

私が1965年10月にこの市道11164号線から北側男体山方向を撮影した写真が有ります。
1965年10月撮影柳橋町の西部.jpg
写真中央奥に薄っすらと男体山、左手電柱の先に鍋山も写っています。左手電柱の建つ道路は、かつてトロッコの軌道が敷設されていた、市道2051号線です。柳橋町の西部域は一面の田圃風景でした。

次の道路市道11169号線です。
市道11169号線.jpg
やはり太平山に向かって真っすぐに伸びています。
市道11169号線に架かる橋1.jpg
清水川に架かる無名橋です。清水川の奥に写っている橋が先ほどの市道11164号線に架かる橋に成ります。

3本目市道11175号線の道路の写真は有りませんでした。橋は上流側から写した写真が有りました。次の白いパイプガードが見える橋が市道11175号線に架かる橋です。
市道11175号線.jpg市道11175号線の橋から上流側を写す.jpg
もう一枚の写真は市道11175号線に架かる橋から上流側を写したもので、これまで紹介した2本の橋が確認出来ます。

先へ進みます。県道太平山公園線を斜めに抜けた清水川は、ここから湊町に入り東方向に流れ、白旗山勝泉院裏手の墓地の北側を回り込んで、そこから巴波川に流れ落ちています。

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県道太平山公園線の下を抜け、南側湊町を流れる清水川。奥に白旗山勝泉院の墓地が見えます。清水川は墓地の北側を回って更に東へ向かいます。

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巴波川沿いの道路の一つ西側の通りです。手前の橋は「白旗橋」。
橋の下流側の赤い屋根の建物は、毎年8月上旬に巴波川で行われる「百八燈流し」の際、お目見えする「二荒山神社御神船」の保管場所に成ります。
百八燈流しの風景.jpg
毎年8月上旬に行われる巴波川の「百八燈流し」の様子

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いよいよ清水川に架かる最後の橋「湊橋」の上にやって来ました。川の上流側奥に先程の御神船の保管場所が見えています。

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清水川も「湊橋」の下を抜けると、巴波川に合流することに成ります。

清水川とそこに架かる橋を巡る散歩におつきあい頂きありがとうございました。
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