SSブログ

三杉川、佐野市を流れる [栃木市外の橋梁]

栃木市岩舟町小野寺地区の北東山中を源流とする三杉川。
この川は東北自動車道と寄り添う様に、岩舟町の山中・田代・中妻・石橋を貫流、その後東北自動車道から離れ小名路・上岡・下岡・古江と南流を続け三毳山の北端部に差し掛かったところで、両毛線の北側を並走するように西に向きを変え、関川橋で栃木市から別れ、西隣の佐野市に流れて行きます。
三杉川上流域の河川と橋梁.jpg
ここまでの流れとそこに架かる橋については、前に紹介済ですので、今回は佐野市内を流れる三杉川流域を巡りたいと思います。

関川橋の下を抜けた三杉川の流れは、更に西方向に流れその先で岩舟町古江の山中を抜けて南進してきた東北自動車道の関川高架橋下を抜ける事と成る。その後三杉川はその流れを南に変え、並行してきた両毛線の鉄路を潜り、同じく並行してきた主要地方道桐生岩舟線に架かる「鶴舞橋」をも潜って南流を開始します。
鶴舞橋.jpg
(主要地方道桐生岩舟線の「鶴舞橋」西橋詰より。奥に東北自動車道関川高架橋)

約450メートル程南流すると三杉川はわずかに右方向(西側)に河道の向きを変えていきますが、ここで三杉川左岸堤防上に、雑草に覆われて見にくいですが、凸状のコンクリート製構造物が約50メートルの長さで造られているのが確認出来ます。
伊勢山余水吐.jpg
(三杉川左岸堤防上の構造物は、「伊勢山余水吐」と言い増水した三杉川の流れを「三杉川分水路」に流す越流堤でほかの堤防より2メートル程高さを下げています)
写真奥に写る橋梁は「新橋」です。この写真は今年の1月下旬に撮影したもので、三杉川の水量の少ない時でした。最近現地に向かったのですが、この周辺で何やら工事が行われていて、道路が通行止めになっていて現状の確認は出来ていません。
この「伊勢山余水吐」は、栃木県の土木遺産となっています。「土木学会 関東支部 栃木会」のホームページに有る説明文を抜粋させて頂くと、<伊勢山余水吐は、三杉川流域の湛水被害の解消を目的とし、昭和24(1949)年、佐野市伊勢山地内に設けられた。以下略>

写真奥に写っていた「新橋」へ移動します。この橋はその名前の通り2010年7月に竣工した新しい橋に成ります。東北自動車道佐野サービスエリアに2011年4月にオープンしたスマートICのアクセス道路として整備した橋です。
新橋.jpg
(三杉川に架かる「新橋」、写真奥は三毳山中腹の佐野サービスエリア)

それ以前まで使用していた三杉川分水路に架けられた橋が「新橋」の下流側に残っています。三杉川に架けられていた橋は撤去されました。
平和橋(三杉川分水路).jpg
(「新橋」の直ぐ下流側、三杉川分水路に残る「平和橋」)

「新橋」の橋の上から南側を眺めると、左手(東側)方向に三毳の山並みが連なり、右手(西側)方向には三杉川の右岸に沿って、佐野新都心の建物群が南北方向に連なり、そして中央には碁盤の目に整備された水田が南に向かって広がっています。
三杉川分水路を中央に広がる水田.jpg
(手前三杉川の河道は「新橋」の下流側で大きく右に向かい、水田の西の端を南流していきます)
三杉川分水路(新橋より南方を望む).jpg
(広がる水田の中央を真っ直ぐ南に延びる水路が「三杉川分水路」です。)

明治42年12月大日本帝國陸地測量部発行、5万分1地形図「古河」に、この地域が記されています。それを見ると「新橋」の架かるこの地には、その当時も伊勢山と黒袴とを結ぶ道路が有りその南側は、荒涼として湿地が広がり、その中を三杉川が南流して、鐙塚と西浦とを結ぶ道路に架かる橋を潜るとその南側で、越名沼に流れ込んでいます。
元来、三杉川は越名沼が干拓される以前は、越名沼に流れ込むまでで、越名沼から流れ出る河道は「越名川」と成り、笹良橋の下流で西側から流れてきた「秋山川」の左岸に合流し、更にその下流にて渡良瀬川左岸に合流すると言う構成でした。
三杉川分水路(新堀橋より南方を望む).jpg
(鐙塚と西浦とを結ぶ道路に架かる三杉川分水路の「新堀橋」から下流方向を望む。かつてここから南側には「越名沼」が広がっていました。)
「佐野市史資料編4近現代」を開くと、この越名沼の干拓工事について記されています。一部抜粋させて貰います。<越名沼の干拓工事は、農林省が昭和27年から13か年の長い歳月と総工費3億6千8百余万円をかけて、完成させました。この完成で、94.86ヘクタールの耕地が誕生し、米麦で約500トンの収穫が見込まれるようになりました。後略>
干拓前の越名沼の状態を理解しやすくする為、現在の三杉川下流域概略図を作成して、そこに明治40年代の越名沼とその周辺の湿地を黒色で書き込んでみました。
三杉川下流域周辺概略図.jpg
(現在の三杉川下流域の概略図にかつての越名沼周辺の様子を黒色で追記。白く抜いた部分が「越名沼」に成ります。)
「越名沼」の南の端は藤岡町都賀(現在栃木市)西幡張の舌状台地が西に突き出した北側まで有りました。沼から流れ出た河道は舌状台地を回り込む様にしてから南に下り、現在の「笹良橋」付近を南流して、西から流れてきた秋山川に合流して更に南流、その南側で西から流れている渡良瀬川左岸に落ちていました。
三杉川分水路(水路南端より北方を望む).jpg
(三杉川分水路の南端、沼縁樋門から北方向を眺める。かつてはこの視界には越名沼が広がっていたのでしょう。)

現在三杉川は水田地帯の西の縁に沿って南流して、かつての「越名沼」の南端部「沼縁」で、水田地帯の中央を真っ直ぐに南流して来た三杉川分水路と交差する形に成ります。ここで分水路は三杉川の河道の下を潜って三杉川の左岸から右岸に抜けています。
沼縁樋門(三杉川左岸).jpg沼縁樋門取水口(三杉川左岸).jpg
(三杉川左岸に設置された「沼縁樋門」、三杉川分水路を流れてきた水は、この取水口から取り込まれて三杉川の下を通って対岸へ)

沼縁樋門(三杉川右岸).jpg沼縁樋門出水口(三杉川右岸).jpg
(三杉川右岸に設けられた施設、三杉川の下を潜って来た水はこちらから「越名排水路」に放出される。どのような仕掛けになっているか素人の私には分かりませんが、逆サイフォンの原理が使われているのかも)

越名排水路と名前を変えて南流、渡良瀬川に落ちて行きます。
越名橋.jpg
(主要地方道佐野古河線の越名排水路に架かる「新越名橋」上から下流方向を望む。手前の橋が旧道に架かる「越名橋」その先に東北自動車道の「越名橋」と側道橋が見えます。)

「越名橋」の直ぐ下流の右岸に西側から、合流して来る河道が有ります。旧秋山川です。この秋山川には江戸時代から明治にかけて、渡良瀬川の支流として河川交通が発達、越名河岸や馬門河岸には多くの船問屋が軒を連ね、日々大量の荷物が扱われていました。最盛期の明治9(1876)年には越名に7軒、馬門に5軒の船問屋が見られました。
越名橋下流旧秋山川合流点.jpg
(越名橋の下流部、右岸に西側から合流する旧秋山川)

越名と界の二つの排水機場を望む(越名側道橋より).jpg
(東北自動車道の越名橋の南側道橋から下流を望む、高い二つ塔を持つのが「越名水門」その隣の建物が「三杉川排水機場」更に写真右端の建物が「界排水機場」と並ぶ。その先土手の向こう側には渡良瀬川が右から左へと流れています。)

もう一方の三杉川の本流は東北自動車道の越名高架橋の下を抜けると、主要地方道佐野古河道に架かる「笹良橋」に至ります。その笹良橋の東橋詰にこの橋の名前を使った「笹良橋せんべい」の工場兼店舗が有ります。
笹良橋.jpg笹良橋せんべい.jpg
(現在の笹良橋は1980年に竣工されました。
「笹良橋せんべい」は明治創業とあります。お店に入ると店頭のショーケースの中に大きな外輪船の模型が飾られていました。
この船は「通運丸」と言う蒸気船です。「通運丸」について栃木県文化協会が発行した「栃木の水路」の中に掲載されていますので、抜粋して紹介したいと思います。
<明治8年2月陸運会社は名称を内国通運会社と改め、日光街道や中仙道などの長距離馬車輸送をはじめたが、一方利根川筋の河川交通に着目し、明治10年2月第一通運丸を試運転した。やがて明治17年ごろの全盛期には、26隻の通運丸を就航させた。
最初通運丸は馬門河岸に停船したが、川底が浅くなり、明治22年から近くの笹良橋を停船所とした。(中略)初航のころは、乗客はもちろん、見物客がわらじばき弁当持参で連日押しかけ、両岸は人垣で埋まるほどであったという。>と。
通運丸の模型.jpg
(店舗のショーケースに飾られた通運丸の模型)

「笹良橋せんべい」もそうした乗客や見物客が土産に買い求めたのかもしれません。

栃木市岩舟町から佐野市に流れこんだ「三杉川」、佐野市の東縁を南流し、越名沼干拓で現れた水田地帯を潤して最後再び栃木市との境界となり、最後は栃木県南端、群馬県との境を西から東に流れる渡良瀬川に落ちて行きます。
越名水門.jpg
(渡良瀬川左岸堤防に聳える、越名水門の塔。左側が渡良瀬川の流れ)
これで三杉川周辺を巡る旅も終わりです。


※参考文献:
  ・佐野市史 資料編4 近現代 (発行佐野市)
  ・栃木の水路 (発行栃木県文化協会)
  ・藤岡町史 通史編 後編 (発行藤岡町)
  ・5万分の1地形図「古河」 明治42年12月大日本帝國陸地測量部発行 (発行国土地理院)
  ・2万五千分の1地形図「佐野」 平成30年5月1日発行 (発行国土地理院)
nice!(0)  コメント(0) 

栃木市尻内町で神社三昧 [栃木市の神社]

栃木市の市街地から北西方向へ向かう、主要地方道栃木粕尾線、四車線の整備された道路は、車を走らせると快適に走行できる。箱森町から野中町、吹上町、大森町、仲方町、梓町と過ぎると、左右に山が迫ってきます。寺尾地区に入ると国道293号線に至る。
この国道293号に沿った地域が、今回神社巡りを行う尻内町です。そして、その尻内町の中心地点は永野川に架かる「尻内橋」周辺です。
下流側からの尻内橋、奥の山が三峰山.jpg
(永野川に架かる「尻内橋」、下流側から撮影。奥に望む山が寺尾地区のシンボル「三峰山」です。栃木の市街地から見ると、鍋を伏せた様に見える事から「鍋山」と呼ばれています。地元の子供達からは、「ゾウ山」と呼ばれています。大きく丸まった背中の右に頭が見え、確かにゾウの形に見えます。)

その尻内橋の上から西の方角を望むと、手前に信号機に「尻内町」の表示が有る交差点、左奥に時計塔のとんがり屋根が有る、元の寺尾南小学校の建物。その学校の裏手の山がズット手前に迫って来ています。
この山の上に今回最初に訪問する神社、元尻内村の村社だった「愛宕神社」が鎮座しています。
右手前の山に愛宕神社が鎮座.jpg
(写真右手のこんもりとした小丘の上に、最初に訪れる「愛宕神社」が鎮座しています。)

尻内町の信号機の有る大きな交差点から、国道293号を西方向に100メートル程行くと、元の寺尾南小学校の手前、道路の右手に「愛宕神社」の参道入口が有るので、そこを右折します。前方に石の鳥居が見えます。車はその手前右側に地区の公民館が有るのでその空き地に駐車させて貰います。
愛宕神社入口.jpg
(国道沿いに建てられた「愛宕神社入口」の標柱、正面奥に石の鳥居と石段が見えます。)

愛宕神社石段と石碑.jpg
(鳥居を潜り、石段を登る。最初の踊り場、目の前に1基の石碑が建てられています。「愛宕神社 本殿石段 改築記念碑」です。石段は斜め左方向に進み、その先で「く」の字に折れて山の上に向かいます。)

愛宕神社社殿.jpg
(社殿前に出ました。境内は意外と広々してます。拝殿の左方向に神楽殿、右手奥に1基の石碑が建ています。参拝を済ませてから、石碑の元に向かいます。)

改築記念碑(碑表).jpg篆額部分.jpg
石碑を見てみましょう。正面に大きく「改築記念碑」、右側に建立時期でしょう、「昭和三十八年四月十四日」、左側には「栃木県知事 横川信夫書」。石碑上部の篆額には「頌徳」の文字が篆書体で浮き彫りされています。「頌徳(しょうとく)」の意味は、広辞苑によると「功績をほめたたえること」と有ります。
石碑の後ろ側に回り、碑文の内容を確認してみます。
改築記念碑(碑文).jpg
(石碑に刻まれている内容を書き写してみました)

碑陰冒頭に祭神の名前が記されています。「加具土命(カグツチノミコト)」とは、調べてみると記紀神話の火の神で、「古事記」では<火之夜藝速男神>とか<火之炫毘古神><火之迦具土神>と表記され、「日本書記」では<軻遇突智>とか<火産霊>と表記されています。
愛宕神社は栃木市内に14社確認出来ますが、主祭神を確認すると、「火産霊神(ほむすびのかみ)」が6社、「火産霊命(ほむすびのみこと)」4社、「軻遇突智命(かぐつちのみこと)」3社、そして「軻遇突智神(かぐつちのかみ)」1社となっていますが、全て同じ「加具土命」です。
この神社の創設は慶長年間【1596年~1615年)と伝えられています。
この石碑は、昭和38年4月14日社殿や神楽殿、石段等を造営し遷宮式を執り行った時に、改築に必要な資金を社有林の杉桧を売却して得る事が出来た事で、大正12年に村の財産の一部山林を愛宕神社の社有林とした当時委員の功績たたえ、後世に伝え遺す為に建立したものと碑文に刻まれています。

それでは次の神社に向かう事にします。愛宕神社を出て、更に国道293号を西に進んで行くと、400メートル程で道路右手の小丘の上に朱塗りの鳥居が見えます。国道から車1台が入れる急勾配の細い道路に入り、鳥居の前の広場に車を止めます。
星宮神社鳥居.jpg
(国道293号の右手高台に朱塗りの鳥居を望む)
星宮神社の神額.jpg庚申塔や男體山と刻まれた石仏.jpg
(鳥居には「星宮神社」と記した神額が掲げられています)(鳥居脇の灌木内に3基の石仏)

鳥居の左側、灌木の中に、「庚申塔」と刻した安政七庚年申二月廿五日の日付けの有る文字塔(西暦1860年でその年の3月18日から元号は万延に変わっています。)や風化が激しい青面金剛像を刻した石仏、そして力強い文字の「男體山」と刻した石塔が祀られています。
鳥居を潜り、石段を登って行くと最初の踊り場に石灯籠が1基建っています。
石燈籠11.jpg石燈籠12.jpg
(参道石段途中の踊り場に建てられた石灯籠)

石灯籠の正面柱の部分には、「奉納 子安觀世音」と刻されています。その左側面には「野州佐埜上彦間 綪屋清七」、右側面には「嘉永三年庚戌正月吉日」(西暦1850年)が刻されています。
何故、観音様の奉納灯篭がこの神社境内に建つのか、別の所から移されたものか分からない。

更に石段を登り社殿の前へ、参拝を済ませて境内を散策、石碑等は有りません。石灯篭が3基建っています。
星宮神社参道石段.jpg星宮神社社殿覆屋.jpg
石燈籠21.jpg石燈籠22.jpg
社殿は覆屋の中に祀られています。石灯篭に刻された日付けを確認すると、「正徳元辛卯年九月吉祥日」(1711年)が、確認出来ました。
南向きの山の斜面で杉木立に囲まれた境内は、静寂に包まれていました。
星宮神社を名乗る神社は栃木県が日本国内で圧倒的に多いと言われています。
昭和39年栃木県神社庁発行の「栃木県神社誌」によると、「星宮神社」の名称で登録されているのは、156社となって、2番目に多い「稲荷神社」98社の約1.5倍も有ります。その栃木県内の中でも下都賀郡が41社です。(2番目が芳賀郡で33社、3番目が河内郡32社、4番目塩谷郡25社となっております。)
ちなみに、最初に訪れた「愛宕神社」も多く、栃木県内で3番目で83社の登録が有ります。
栃木市内に有る「星宮神社」の数は、20社確認出来ます。しかし、この20社には今回訪れた尻内町の「星宮神社は含まれていません。
「星宮神社」の主祭神は「磐裂・根裂」を祀る所がほとんどです。(20社中14社)
この「イワサク・ネサク」は日本神話に登場する神で、「イザナミ」が火の神「カグツチ」生むと同時に火傷を負ってしまい、それが元でお亡くなりに成り、それを悲しみ怒った「イサナギ」が「カグツチ」の首を切った際に、十拳剣の先に付いた血が垂れて生まれた三神の一番目と二番目の神で、三番目の神は「イワツツノオ」となります。
「イワサク・ネサク」では無い神を主祭神とする神社も有ります。「香々背男命(カガセオオミコト)」2社、「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」2社、「経津主命(フツヌシノミコト)」1社、その他1社です。

それでは三番目の神社に移動します。
国道293号線を来た方向に戻り、永野川に架かる「尻内橋」も渡り、主要地方道栃木粕尾線との交差点を越えた先、国道が再び山間部に差し掛かる手前、道路右側に目的の神社の鳥居が見えてきました。
駒岡神社1.jpg
(三番目の神社、写真左端に写る道路は国道293号に成ります)

鳥居の前の広場に車を駐車して社殿に向かいます。参道の階段は昭和六拾年十二月吉日の竣工で、中央にステンレスパイプ製の手摺りが設けられています。ただ階段のピッチが狭い感じで、登りは気に成らなかったが、下りは少し歩幅に合わなく、下りるのに少し気を使いました。
駒岡神社参道石段.jpg駒岡神社2.jpg

この神社の名称を記した鳥居の神額はかすれていて判読できません。拝殿には扁額等無く、何んと言う神社か確認出来るのは、社殿の右方向に建てられた石碑に依りました。
石碑には「駒野神社改築記念碑」と刻されており、神社名は「駒野神社」と判明しました。
駒岡神社31.jpg
この神社について調べてみると、「栃木県神社誌」には先ほどの「星宮神社」と同じく掲載されていませんでした。神社の由緒を調べる糸口は、先ほどの改築記念碑の冒頭に刻されている「駒野神社風土記」の文章に有りました。そこには「源義家と尻内について」記されています。
駒岡神社風土記.jpg
内容的には、その様な言い伝えが残っていると言うものだろう。令和元年5月に発行された「寺尾地区地名の由来と自然災害」(栗原 栄著)の中に、「尻内」町名の由来についても、防災士と言う専門的な見方で解説されています。更にこの「駒野神社」の事についても解説されておりました。

先の石碑の「駒野神社風土記」に記されている、神社名の由来について<源義家が乗っていた馬が永野川を渡ったこの地で子馬をうみ、死んだので小祠をたてて、駒の明神と称した。現在の駒野大明神(駒野神社)である。>との話が夢が有ってそれも良いなと思うものです。

これで尻内町の神社三か所を巡りました。
尻内町三社巡り図.jpg
(尻内町の三つの神社の位置関係を概略図に表してみました)

「愛宕神社」「星宮神社」「駒野神社」の三社。この三社の内栃木県神社誌に登録されているのは、最初の「愛宕神社」の一社だけで、他の二社は掲載されていませんでした。その訳が何となく理解できる事実が、最初に訪れた「愛宕神社」の参道の途中に建てられた石碑の碑文の中に有りました。
愛宕神社本殿石段改築記念碑.jpg愛宕神社本殿石段改築記念碑(碑陰).jpg
(愛宕神社参道途中に建つ「愛宕神社本殿石段改築記念碑」の表と裏)

碑陰の確認は斜面の山側で足場が悪く、近くまで行けなかったが何とか写真で確認出来ました。碑陰に刻されている碑文は、駒野神社祭神と星宮神社祭神の合祀を記念する内容になっていました。碑文を書き写しました。
愛宕神社本殿石段改築記念碑(碑文).jpg
(「愛宕神社本殿石段改築記念碑」の碑陰に刻まれた、駒野神社・星宮神社祭神祀記念碑文)

戦前の国家神道の際、神社境内は献上して国有に編入されていたが、碑文に有る様に昭和20年の大東亜戦争終結により、国家神道が宗教法人に改正されたが、その折り駒野神社・星宮神社を宗教法人として申請しなかった為国有地と成ってしまった。そこで愛宕神社所有の山林を売却したお金で、駒野神社・星宮神社の境内地を払い下げし、愛宕神社境内地として二社を末社として合祀して対処した事が刻まれております。
この碑文により「駒野神社」と「星宮神社」が「愛宕神社」の境内地末社と成った事で、「栃木県神社誌」には単独で登録されなかった理由が理解できました。改めて神社誌に掲載されている尻内町の「愛宕神社」の紹介文を読むと確かに末社として「駒野神社」と「星宮神社」が記されておりました。
尻内町の氏子の皆さんの三社への崇敬の心持を窺い知る事も出来ました。色々勉強にもなりましたし、楽しい尻内町の神社三昧でした。


nice!(0)  コメント(0)