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栃木市尻内町で神社三昧 [栃木市の神社]

栃木市の市街地から北西方向へ向かう、主要地方道栃木粕尾線、四車線の整備された道路は、車を走らせると快適に走行できる。箱森町から野中町、吹上町、大森町、仲方町、梓町と過ぎると、左右に山が迫ってきます。寺尾地区に入ると国道293号線に至る。
この国道293号に沿った地域が、今回神社巡りを行う尻内町です。そして、その尻内町の中心地点は永野川に架かる「尻内橋」周辺です。
下流側からの尻内橋、奥の山が三峰山.jpg
(永野川に架かる「尻内橋」、下流側から撮影。奥に望む山が寺尾地区のシンボル「三峰山」です。栃木の市街地から見ると、鍋を伏せた様に見える事から「鍋山」と呼ばれています。地元の子供達からは、「ゾウ山」と呼ばれています。大きく丸まった背中の右に頭が見え、確かにゾウの形に見えます。)

その尻内橋の上から西の方角を望むと、手前に信号機に「尻内町」の表示が有る交差点、左奥に時計塔のとんがり屋根が有る、元の寺尾南小学校の建物。その学校の裏手の山がズット手前に迫って来ています。
この山の上に今回最初に訪問する神社、元尻内村の村社だった「愛宕神社」が鎮座しています。
右手前の山に愛宕神社が鎮座.jpg
(写真右手のこんもりとした小丘の上に、最初に訪れる「愛宕神社」が鎮座しています。)

尻内町の信号機の有る大きな交差点から、国道293号を西方向に100メートル程行くと、元の寺尾南小学校の手前、道路の右手に「愛宕神社」の参道入口が有るので、そこを右折します。前方に石の鳥居が見えます。車はその手前右側に地区の公民館が有るのでその空き地に駐車させて貰います。
愛宕神社入口.jpg
(国道沿いに建てられた「愛宕神社入口」の標柱、正面奥に石の鳥居と石段が見えます。)

愛宕神社石段と石碑.jpg
(鳥居を潜り、石段を登る。最初の踊り場、目の前に1基の石碑が建てられています。「愛宕神社 本殿石段 改築記念碑」です。石段は斜め左方向に進み、その先で「く」の字に折れて山の上に向かいます。)

愛宕神社社殿.jpg
(社殿前に出ました。境内は意外と広々してます。拝殿の左方向に神楽殿、右手奥に1基の石碑が建ています。参拝を済ませてから、石碑の元に向かいます。)

改築記念碑(碑表).jpg篆額部分.jpg
石碑を見てみましょう。正面に大きく「改築記念碑」、右側に建立時期でしょう、「昭和三十八年四月十四日」、左側には「栃木県知事 横川信夫書」。石碑上部の篆額には「頌徳」の文字が篆書体で浮き彫りされています。「頌徳(しょうとく)」の意味は、広辞苑によると「功績をほめたたえること」と有ります。
石碑の後ろ側に回り、碑文の内容を確認してみます。
改築記念碑(碑文).jpg
(石碑に刻まれている内容を書き写してみました)

碑陰冒頭に祭神の名前が記されています。「加具土命(カグツチノミコト)」とは、調べてみると記紀神話の火の神で、「古事記」では<火之夜藝速男神>とか<火之炫毘古神><火之迦具土神>と表記され、「日本書記」では<軻遇突智>とか<火産霊>と表記されています。
愛宕神社は栃木市内に14社確認出来ますが、主祭神を確認すると、「火産霊神(ほむすびのかみ)」が6社、「火産霊命(ほむすびのみこと)」4社、「軻遇突智命(かぐつちのみこと)」3社、そして「軻遇突智神(かぐつちのかみ)」1社となっていますが、全て同じ「加具土命」です。
この神社の創設は慶長年間【1596年~1615年)と伝えられています。
この石碑は、昭和38年4月14日社殿や神楽殿、石段等を造営し遷宮式を執り行った時に、改築に必要な資金を社有林の杉桧を売却して得る事が出来た事で、大正12年に村の財産の一部山林を愛宕神社の社有林とした当時委員の功績たたえ、後世に伝え遺す為に建立したものと碑文に刻まれています。

それでは次の神社に向かう事にします。愛宕神社を出て、更に国道293号を西に進んで行くと、400メートル程で道路右手の小丘の上に朱塗りの鳥居が見えます。国道から車1台が入れる急勾配の細い道路に入り、鳥居の前の広場に車を止めます。
星宮神社鳥居.jpg
(国道293号の右手高台に朱塗りの鳥居を望む)
星宮神社の神額.jpg庚申塔や男體山と刻まれた石仏.jpg
(鳥居には「星宮神社」と記した神額が掲げられています)(鳥居脇の灌木内に3基の石仏)

鳥居の左側、灌木の中に、「庚申塔」と刻した安政七庚年申二月廿五日の日付けの有る文字塔(西暦1860年でその年の3月18日から元号は万延に変わっています。)や風化が激しい青面金剛像を刻した石仏、そして力強い文字の「男體山」と刻した石塔が祀られています。
鳥居を潜り、石段を登って行くと最初の踊り場に石灯籠が1基建っています。
石燈籠11.jpg石燈籠12.jpg
(参道石段途中の踊り場に建てられた石灯籠)

石灯籠の正面柱の部分には、「奉納 子安觀世音」と刻されています。その左側面には「野州佐埜上彦間 綪屋清七」、右側面には「嘉永三年庚戌正月吉日」(西暦1850年)が刻されています。
何故、観音様の奉納灯篭がこの神社境内に建つのか、別の所から移されたものか分からない。

更に石段を登り社殿の前へ、参拝を済ませて境内を散策、石碑等は有りません。石灯篭が3基建っています。
星宮神社参道石段.jpg星宮神社社殿覆屋.jpg
石燈籠21.jpg石燈籠22.jpg
社殿は覆屋の中に祀られています。石灯篭に刻された日付けを確認すると、「正徳元辛卯年九月吉祥日」(1711年)が、確認出来ました。
南向きの山の斜面で杉木立に囲まれた境内は、静寂に包まれていました。
星宮神社を名乗る神社は栃木県が日本国内で圧倒的に多いと言われています。
昭和39年栃木県神社庁発行の「栃木県神社誌」によると、「星宮神社」の名称で登録されているのは、156社となって、2番目に多い「稲荷神社」98社の約1.5倍も有ります。その栃木県内の中でも下都賀郡が41社です。(2番目が芳賀郡で33社、3番目が河内郡32社、4番目塩谷郡25社となっております。)
ちなみに、最初に訪れた「愛宕神社」も多く、栃木県内で3番目で83社の登録が有ります。
栃木市内に有る「星宮神社」の数は、20社確認出来ます。しかし、この20社には今回訪れた尻内町の「星宮神社は含まれていません。
「星宮神社」の主祭神は「磐裂・根裂」を祀る所がほとんどです。(20社中14社)
この「イワサク・ネサク」は日本神話に登場する神で、「イザナミ」が火の神「カグツチ」生むと同時に火傷を負ってしまい、それが元でお亡くなりに成り、それを悲しみ怒った「イサナギ」が「カグツチ」の首を切った際に、十拳剣の先に付いた血が垂れて生まれた三神の一番目と二番目の神で、三番目の神は「イワツツノオ」となります。
「イワサク・ネサク」では無い神を主祭神とする神社も有ります。「香々背男命(カガセオオミコト)」2社、「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」2社、「経津主命(フツヌシノミコト)」1社、その他1社です。

それでは三番目の神社に移動します。
国道293号線を来た方向に戻り、永野川に架かる「尻内橋」も渡り、主要地方道栃木粕尾線との交差点を越えた先、国道が再び山間部に差し掛かる手前、道路右側に目的の神社の鳥居が見えてきました。
駒岡神社1.jpg
(三番目の神社、写真左端に写る道路は国道293号に成ります)

鳥居の前の広場に車を駐車して社殿に向かいます。参道の階段は昭和六拾年十二月吉日の竣工で、中央にステンレスパイプ製の手摺りが設けられています。ただ階段のピッチが狭い感じで、登りは気に成らなかったが、下りは少し歩幅に合わなく、下りるのに少し気を使いました。
駒岡神社参道石段.jpg駒岡神社2.jpg

この神社の名称を記した鳥居の神額はかすれていて判読できません。拝殿には扁額等無く、何んと言う神社か確認出来るのは、社殿の右方向に建てられた石碑に依りました。
石碑には「駒野神社改築記念碑」と刻されており、神社名は「駒野神社」と判明しました。
駒岡神社31.jpg
この神社について調べてみると、「栃木県神社誌」には先ほどの「星宮神社」と同じく掲載されていませんでした。神社の由緒を調べる糸口は、先ほどの改築記念碑の冒頭に刻されている「駒野神社風土記」の文章に有りました。そこには「源義家と尻内について」記されています。
駒岡神社風土記.jpg
内容的には、その様な言い伝えが残っていると言うものだろう。令和元年5月に発行された「寺尾地区地名の由来と自然災害」(栗原 栄著)の中に、「尻内」町名の由来についても、防災士と言う専門的な見方で解説されています。更にこの「駒野神社」の事についても解説されておりました。

先の石碑の「駒野神社風土記」に記されている、神社名の由来について<源義家が乗っていた馬が永野川を渡ったこの地で子馬をうみ、死んだので小祠をたてて、駒の明神と称した。現在の駒野大明神(駒野神社)である。>との話が夢が有ってそれも良いなと思うものです。

これで尻内町の神社三か所を巡りました。
尻内町三社巡り図.jpg
(尻内町の三つの神社の位置関係を概略図に表してみました)

「愛宕神社」「星宮神社」「駒野神社」の三社。この三社の内栃木県神社誌に登録されているのは、最初の「愛宕神社」の一社だけで、他の二社は掲載されていませんでした。その訳が何となく理解できる事実が、最初に訪れた「愛宕神社」の参道の途中に建てられた石碑の碑文の中に有りました。
愛宕神社本殿石段改築記念碑.jpg愛宕神社本殿石段改築記念碑(碑陰).jpg
(愛宕神社参道途中に建つ「愛宕神社本殿石段改築記念碑」の表と裏)

碑陰の確認は斜面の山側で足場が悪く、近くまで行けなかったが何とか写真で確認出来ました。碑陰に刻されている碑文は、駒野神社祭神と星宮神社祭神の合祀を記念する内容になっていました。碑文を書き写しました。
愛宕神社本殿石段改築記念碑(碑文).jpg
(「愛宕神社本殿石段改築記念碑」の碑陰に刻まれた、駒野神社・星宮神社祭神祀記念碑文)

戦前の国家神道の際、神社境内は献上して国有に編入されていたが、碑文に有る様に昭和20年の大東亜戦争終結により、国家神道が宗教法人に改正されたが、その折り駒野神社・星宮神社を宗教法人として申請しなかった為国有地と成ってしまった。そこで愛宕神社所有の山林を売却したお金で、駒野神社・星宮神社の境内地を払い下げし、愛宕神社境内地として二社を末社として合祀して対処した事が刻まれております。
この碑文により「駒野神社」と「星宮神社」が「愛宕神社」の境内地末社と成った事で、「栃木県神社誌」には単独で登録されなかった理由が理解できました。改めて神社誌に掲載されている尻内町の「愛宕神社」の紹介文を読むと確かに末社として「駒野神社」と「星宮神社」が記されておりました。
尻内町の氏子の皆さんの三社への崇敬の心持を窺い知る事も出来ました。色々勉強にもなりましたし、楽しい尻内町の神社三昧でした。


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