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栃木市の聖火リレーを応援して来ました

今日と明日の2日間、栃木県内にて東京オリンピック・パラリンピックの聖火リレーが行われています。
今日の午後には、私の住む栃木市内で無事に開催されました。
午前中から時折、ポツリポツリと小雨がぱらつく曇り空で、本降りに成らなければと心配をしていましたが、幸い栃木市の最終を務めた車いすでのランナーがゴール地点の山車会館に到着するまで、雨傘を広げる事は有りませんでした。
当初は自宅のテレビの前で応援しようかと考えていましたが、栃木県の最初に始まった足利市で、息子の友人が鑁阿寺内を走っている画面を見て、実際にコースに行って応援したくなりました。

時間に少し余裕を持って歩いて家を出ました。もちろん念のため雨傘持参です。途中交通規制がすでに始まっていましたが、歩きですからすんなり近くの嘉右衛門町通りのコースに立つことが出来ました。
聖火リレーin栃木市1.jpg聖火リレーin栃木市2.jpg
コースの嘉右衛門町通りには次第に応援する人達が増えてきましたが、主催者側のスタッフが、新型コロナ感染対策、マスク着用や密にならないよう呼びかけておりました。

いよいよ聖火リレーの開始の時間が近づいて来て、まづ先導するパトロールカーが姿を現し、その後は聖火リレーを支援するスポンサー企業の車両でしょうか、軽快な音楽と共に次々と目の前を通過して行きます。
聖火リレーin栃木市3.jpg聖火リレーin栃木市4.jpg
トヨタ自動車、日本生命、NTT、コカコーラが思い思いの嗜好で、沿道で聖火ランナーを待つ私達の気分を盛り上げて行きます。
聖火リレーin栃木市5.jpg聖火リレーin栃木市6.jpg

私が応援場所と決めた嘉右衛門橋東側丁字路の場所は、丁度聖火リレーの中継点の様で、次に聖火を貰って走るランナーが目の前に現れました。
聖火リレーin栃木市7.jpg
少年です。まだ中学生でしょうか、トーチを手に緊張した面持ちで聖火が来るのを待っています。
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報道車両の通過後、聖火を点したトーチを右手に持った女性ランナーが、周りを伴走者に伴われ走って来ました。
聖火リレーin栃木市9.jpg
私の目の前で聖火の受け渡しが行われました。こんなに近くで聖火を見る事が出来てラッキーです。
聖火リレーin栃木市10.jpg
聖火を受けたトーチを手に、いよいよ少年がゆっくりと嘉右衛門町通りを南に走って行きました。

この後私はもう一度聖火を見たくなり、ゴール地点近くの大通りへ移動する事にしました。
間に合いました。手頃な場所を見つけて聖火ランナーの通過を待ちます。
大通りに先導のパトロールカーが現れ、続いてスポンサー企業の車列が通過して行きます。
聖火リレーin栃木市12.jpg聖火リレーin栃木市13.jpg

私が応援場所と決めた地点が、又偶然にも聖火リレーの中継点に当っていました。直ぐ私の脇に車いすに乗った栃木市の最終ランナーの方が持つトーチが目の前に現れました。淡い桜色を帯びた銅色に輝くトーチが、とても美しく見えました。
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右手にトーチを持ち、力強い足取りと満面の笑顔で聖火ランナーが車いすの最終ランナーの元に到着し、無事に聖火の受け渡しが行われました。
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栃木市コースの最終ランナーの手に渡った聖火は、トーチの先端で美しいオレンジ色の炎を見せていました。
聖火リレーin栃木市17.jpg

何時までも続く新型コロナウイルスによる感染、なかなか収束のめどが立っていません。最近は外出する事も少なく、家にいる事が多くなっていましたが、今日は聖火ランナーを応援すると言う目的で、ウィーキングを兼ねて出てきました。
家に帰宅する頃には、心地よい汗をかいていました。
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小平橋の桜が見頃を迎えました。 [自然の恵み]

我家から最も近い花見ポイント「小平橋の桜」が、今年早々と見頃を迎えました。
毎日、季節外れの暖かい陽気の為です。
小平橋の桜1.jpg
巴波川に架かるこじんまりとした「小平橋」、その北西橋詰に位置する2本の桜の木です。
どれくらいの樹齢なのだろうか。

左岸の土手に菜の花が黄色の花を、又道路の脇にスイセンが咲いていたので、それを前景に入れて撮ってみました。
小平橋の桜2.jpg
小平橋の桜3.jpg

桜の開花時期が年々早くなってきている様な気がして、これまで撮影した「小平橋の桜」を何枚か比較してみました。撮影日は残念ながら同一では有りませんが、23日から25日ですのでほぼ同時期と思われます。

先ず今年2021年3月24日撮影です。7分咲き程度になっているでしょうか。
小平橋の桜(2021年3月24日)1.jpg

次は昨年2020年3月23日撮影です。 昨年も結構早く咲いていましたね。
小平橋の桜(2020年3月23日).jpg

3枚目は2018年3月25日撮影です。 蕾はふくらんで来ているようですが、まだ開花していなかったですね。
小平橋の桜(2018年3月25日).jpg

そしてもう1枚、2017年3月24日撮影です。これは蕾もまだ小さくて、まだまだ開花までは日にちが必要です。地面の色もまだ土色で草も生えて来ていません。昨年今年は地面の色も緑に変わっています。
ちなみにこの年「小平橋の桜」が5から6輪開花した日は3月31日でした。4月6日に満開となっています。
小平橋の桜(2017年3月24日).jpg

2017年4月6日撮影、満開を迎えた「小平橋の桜」
小平橋の桜(2017年4月6日).jpg

これだけではドンドン早くなっているとは断言できませんが、今年は暖かい日が続いています。
来年はもっと早くなるのか。元に戻って4月開花に成るのか、今から来年が気に成ります。


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家の周りの自然 [自然の恵み]

今朝は久しぶりに雨音で目を覚ましました。
「雨か・・」
昨日は春分の日、昼近くに墓参りをしてきた。少しポツリと雨が降ってきたが、直ぐに止んで無事に墓前に花と線香を供えて来ました。
ここ数日は暖かい日が続いていた。5月の陽気だと天気予報。
暖かいと外仕事が苦にならなくなる。庭の雑草も大きくなる前にこまめに処理する。
狭い庭だが真夏の除草作業は堪ったものではない。

今我家の庭にはスイセンの黄色い花と、ユキヤナギの白い花が咲いています。
スイセン.jpg
ユキヤナギ.jpg
家の周りの田圃の畔には、菜の花が広がっています。
菜の花.jpg

今我家では午前中に良く雉の鳴くのを耳にします。
何所に居るのか周囲の田圃を見渡しても見つかりませんでしたが、昨日カメラを望遠一杯ににして観察。
見つけました。灌木の陰に隠れる様にほとんど動きません。
雉.jpg
暫らく見ていると、近くの草むらに小さい黒い影が動き直ぐに消えました。
「ヒナか・・」
その後もじっと目を凝らして草むらを観察していましたが、二度と確認出来ませんでした。

今朝も雨の降る中、雉の鳴く声が聞こえています。
が、昨日見つけた場所にその姿は有りませんでした。

箱森町も田んぼがどんどん宅地開発され、新しい住宅地に変貌してきています。
でも、幸い我家の周辺にはまだ自然が残っています。

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栃木市内を流れる、もうひとつの赤津川 [栃木市の河川と橋]

かつて赤津川と言えば、栃木市民にとっては、毎年のように市内に洪水災害をもたらす、暴れ川として困った存在の川でした。
その赤津川は源流を栃木市の北端西方町真名子の男丸まで遡ります。鹿沼市との境界となる大倉山(455m)の南麓の沢水に求めています。そしてこの赤津川は栃木市街地の洪水対策の為に昭和23年から26年にかけて、吹上町の新田橋の下流部で、それまで南東方向現在の栃木市総合運動公園方向に流れていた河道を遮断して、真っ直ぐ南に開鑿して、「赤津川分水路」として錦着山の北西部で永野川に繋いでいます。が、今回紹介をする赤津川は、タイトルの通り上記の赤津川では無く、栃木市内を流れるもうひとつの赤津川に成ります。

もうひとつの赤津川は、大平町蔵井で永野川に堰を設け、その水を右岸から取水して、大平町の真弓・西水代・伯仲を縦断する様に流れ藤岡町蛭沼に入り、西前原の排水機場を抜けて渡良瀬遊水地内で、江川と合流しその後巴波川に流れ込んで行く「赤津用水路」の事で、国土地理院地図上には「赤津川」と表記されています。
新西野田堰1.jpg
(大平町蔵井の永野川に設けられた、新西野田堰)
新西野田堰2.jpg
(堰の上流側右岸に有る、赤津用水の取水門)
新西野田堰3.jpg
(取水された水は永野川右岸の堤を抜けた後、開水路と成り南流していく)
この後赤津用水は大平中学校の東側の道路脇を流れて行きます。この間住宅街の幾筋もの通りに架かる橋を潜りますが、それらの橋の名前は確認できません。親柱に橋名板が埋め込まれていた跡が残っていますが、銘板自体は外されて載っていません。
大平中学校東側を流れる赤津用水.jpg
(左手の建物は「大平中学校」、赤津用水は奥から手前に流れています。)

そこから「さくら通り」の下を抜け、今まさに満開を迎えている「さくら樹木公園」の北側から東側にかけて流れています。
大平町の桜公園脇を流れる赤津川.jpg
(大平運動公園の東端に位置する「さくら樹木公園」はいままさにいろんな品種の桜の花が、ピンク色の花びらをほころばしています。)

赤津用水はこの後「県道蛭沼川連線」に架けられた「新愛宕橋」の下を流れ、県道の東側に流れを変えます。
2021年新愛宕橋.jpg
(県道蛭沼川連線に架かる「新愛宕橋」。橋高欄の向こうに色とりどりの桜が咲いています。)
新愛宕橋銘板1.jpg赤津用水銘板1.jpg
(「新愛宕橋」の親柱には、嬌名と河川名が表示されています。)
河川名として「赤津用水」と表示されています。この赤津用水には多くの橋が架かっていますが、私が確認した中で河川名が表示されているのは、この「新愛宕橋」だけです。
此の橋名の「愛宕」はどうして命名されたものか、今のところ私は確認できていません。「愛宕」とは神社名に良くありますが、付近にそれらしい神社は見当たりません。架橋地点の北東側に有る磯山に鎮座しているのは「諏訪神社」ですし。

次に架かる橋は「中才橋」ですが、現在の橋には橋名等の表示が有りません。高欄は普通の白色のガードレールタイプで親柱も有りません。
2021年中才橋.jpg
(現在の「中才橋」、橋の高欄は白色のガードレール式で何の表示もされていません)
1993年8月に私が撮影した時は親柱も有りそこに「中才橋」と表示が有りました。
1993年中才橋.jpg
(1993年撮影した時の「中才橋」、橋名が確認出来ます)

この「中才橋」の名前は地名から命名されています。国土地理院2万5千分1地形図「栃木」を見ると、架橋地点の左側に「中才」の地名が表記されています。

この後赤津用水は県道から離れて南東方向「ゆうゆうプラザ」の西側に出て、そこから又南流しています。
県道小山大平線の下を抜けた後は、ほぼ南北に縦断している市道1071号線の道路の西側に沿って流れています。
ゆうゆうプラザ南側より道路脇を南流する赤津川.jpg
(写真右端の道路の奥に「ゆうゆうプラザ」を遠望出来ます。赤津用水は道路脇を流れています)

暫らく土地改良で碁盤の目の様に整然と開けた田んぼの中の道路を南に向かうと、やっと親柱が建つ橋が道路脇に現れました。この橋を渡って真っ直ぐ西に向かうと、市立大平南中学校に突き当たります。
みづきばし1.jpg
(学校への入口となる橋、高欄が「ハ」の字状に造られています)
みづきばし2.jpg
親柱に掲げられた橋名は「みづきばし」、左右共に同じひらがなの橋名で河川名は有りません)

赤津用水はそのまま真っ直ぐに南流を続けて、主要地方道岩舟小山線(旧国道50号線)に架かる「下宿橋」を抜けて行きます。この橋なんの変哲も無く、高欄も白色のガードレールタイプですが、橋桁側面にしっかり橋銘板が付いていました。さすが元国道に架かっている橋です。
下宿橋.jpg銘板下宿橋の.jpg

赤津用水はまだまだ、ひたすら一直線上に南に向かって流れ、国道50号の所で西側に200メートル程移動しますが、その後も又整然と区画された水田の中の真っ直ぐな水路を流れて、大平町西水代から大平町伯仲を抜け、藤岡町蛭沼へと変わります。
竣工碑1.jpg竣工碑2.jpg
(国道50号の南側、田んぼの片隅に建てられた「大平南部土地改良区 竣工記念」の碑)

この大平町から藤岡町に変わる所で再度西側に100メートル流路を変えています。この境界線の堤上に1本の石碑が建っています。
赤津川の土手上に建つ石柱.jpg石柱の追記文.jpg
(赤津用水の本流と支流の合流点の堤の上に建つ「堤高標」)
「堤高標」と大きく陰刻された下側に、「大正元年八月十二日」「大字伯仲」と刻まれています。又、側面には「追記 新規事業の実施に当り地元より消滅を惜しむ声あり 由って新川の名と共に神の倉堤の名が語り継がれんことを祈念して水入の地よりこの地に移す」と刻した石版が新たに埋め込まれています。
恐らく土地改良事業によって、元々この石碑が建っていた場所が消滅した為、「新川」や「神の倉堤」の事を後世に語り継ぐため現在の場所に移設したもので、それは「昭和五十五年一月 大平南部土地改良区」のことになります。
碑文に有る「神の倉堤」や「水入の地」とは何所だったのか、元々この「堤高標」はどんな目的で建てられたのか更に調査が必要です。

この石柱の建つ場所から南側は、いよいよ藤岡町蛭沼と成ります。そしてここからの赤津川(用水)の流れは、西側を縦断して走る県道蛭沼川連線とおよそ80メートルの間隔を保つように並行して南流していきます。そして南の主要地方道藤岡乙女線に架かる「倉前橋」との間、五カ所に橋が架けられていますが、これら五つの橋の名前が確認出来ました。
藤岡町蛭沼を流れる赤津川.jpg
(写真中央を流れるのが「赤津川(用水)」手前から3番目の橋の右側に石柱が建つ)

それらの橋名は上流側から、「3-204-2号橋」・「三蔵橋」・「川端橋」・「寺西橋」・「赤津橋」です。
三王寺大桝塚古墳遠望.jpg
(南側の「倉前橋」から赤津川(用水)の上流方向を望む。中央奥、茶色の小丘が古墳)

「寺西橋」の南東部の小丘が「山王寺大枡塚古墳」です。小丘の標高は23.7メートルで古墳の上に国土地理院の三角点が設置されております。
山王寺大桝塚古墳1.jpg
(山王寺大桝塚古墳 全長96m、後方部幅48m、前方部長さ48mの前方後方墳)
三角点.jpg
(古墳の頂部に設置されている、四等三角点「蛭沼」、後方に赤津川(用水)を望む)

「寺西橋」の名前は、この古墳の上に山王寺という古寺が有った事から、寺の西側部に架かる橋と言う事です。
寺西橋.jpg
(かつての古寺の名残の卵塔、後方に赤津川に架かる「寺西橋」)

主要地方道藤岡乙女線の「倉前橋」を抜けた赤津川(用水)は南西方向に進み、西前原工業団地内にて、富吉方向から流れてきた「静戸川」を合わせ、新しくなった西前原排水機場に流れ込みます。
静戸川との合流点.jpg
(西前原工業団地内にて右岸に静戸川が合流する。前方奥に排水機場の建物)
西前原排水機場.jpg
(新しくなり、周辺整備が進む西前原排水機場)
渡良瀬遊水地内へ.jpg
(渡良瀬遊水地内に流れてゆく赤津川(用水)、この後江川と合わさり巴波川に落ちて行く)
 
大平町の蔵井で永野川から分かれた赤津川(用水)の、約9.5キロメートルにわたる橋巡りでした。
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巴波川に関して色々 [栃木市の河川と橋]

今回は、この私のブログ名でも使わせて貰っている「巴波川」に関した、あれやこれやです。
「巴波川」、この川の名前を読める人は、栃木県内の人、それも県南のこの川の流域に住んでいる人か、その知人や関係者位では無いでしょうか。
「巴波川」を広辞苑で検索しても出て来ません。「うずまがわ」と読みますが、「巴波」を「うずま」と読ませるのは他に有るのでしょうか。
ちなみに<漢字源>にて、「巴」(ともえ)の文字を検索しても、読み方が「うず」とは出て来ません。
<字音>では「ハ」とか「ヘ」だけで、<意読>で「ともえ」と出てきます。そして「巴」を用いた難読語として、巴西爾(ブラジル)・巴波那(ハバナ)・巴比倫(バビロン)・巴拉圭(パラグアイ)・巴黎(パリ)の最後に巴波川(うずまがわ)が出てきます。
もう一方の「波」(なみ)の文字も、読み方が「ま」とは出ません。<字音>では「ハ」だけです。
そこから導くと「巴波川」は、「ははかわ」とか「ともえなみかわ」としか読めなくなります。とても「うずま」とは成らない訳です。

「栃木郷土史」(栃木郷土史編纂委員会著・歴史図書社発行)の第六章第二節「栃木の水系」に、
<一、うづま川>として、<川原田村鹿島神社御手洗沼に源を発している。うづま川は宇津間川・巴波川等の字をあてているが、元禄度箱森村書上に、一、鶉妻川 幅十間、村東方ヲ通リ申候。水上壱里 北方川原田村ト申所ヨリ出水ニ而流申候而栃木ヘ落合申候 とあり、鶉妻川の字を用いている。
元来、うづま川西方箱森村より薗部村地内にかけてなだらかな起伏多く、うずらがおびただしく棲息していたので、一名うづらが岡と呼ばれ、江戸時代、死刑場及牢屋等あつた現入舟町の禊教分院及其の東北方は、薗部村鶉島といった。(後略)>

それではどこで「巴波川」の文字を当てるようになったのでしょうか。
栃木県文化協会発行の「栃木の水路」の四章「母なるうずま」の中に<うずま川の名称>として、上記の説を記していますが、更に<江戸時代後期になると栃木町では巴波川の文字をあて、さらに渦川の文字をあてるものもあらわれる。小学校の教科書として編さんされた改正栃木県地誌略(明治十五年一八八二刊)には、「渦川は標茅が原および真名子山中より流出し・・・・・」と書いている。 (中略) 水流中へ水が湧き出るさまに「巴波」「渦」の文字をあてたものであろうか。このようにかわった文字をあてることは文化・文政(1804~1829)ごろの栃木町の文人好みのものであった。>とも。

結局ハッキリした事は分かりませんが、現在は「巴波川」の文字に統一されています。
が、ここで又ひとつ、新たな疑問が湧き上がりました。
上記の二つの文献の抜粋にて、最初の「栃木郷土史」では「うづま川」と、後の「栃木の水路」では「うずま川」と表記していました。

私が若い頃に参加していたアマチア写真同好会の名称は「うずま写友会」と表記しました。
うづま写友会作品目録.jpg
(うずま写友会、写真展作品目録)
うづま写友会写真展会場.jpg
(うずま写友会、初期の頃の写真展風景、まだ現在の文化会館が出来て無く、商工会議所ホールを借りて開催をしていました。)

同じころ栃木市で初めてだと思いますが、「うづまっこ」という月刊タウン情報誌が創刊されました。この月刊誌では、編集室だよりに「うづま有情」、他に初期の頃連載漫画「うづま君」やうづま文芸等々、うづま川との表記に基づいていました。
タウン情報誌うづまっこ.jpgタウン情報誌うづまっこ2.jpg

そこで、「巴波川」に関連した書籍や資料について少し調べてみました。
まず、「うずま」との表記を使っているものです。
①栃木市発行の「目で見る栃木市史」やその他の「栃木市史」
②藤岡町発行の「藤岡町史」や「ふじおか見てある記」
③平凡社発行の「栃木県の地名」
④「角川日本地名大辞典9 栃木」
⑤下野新聞社発行の大嶽浩良著「下野の明治維新」や荒井邦著「巴波川 部屋河岸」
⑥栃木市文化のまちづくり協議会発行の石塚倉子遺著「室の八島」
など、多数確認出来ます。

一方、「うづま」との表記を使っているものは、
①金剛出版発行の坂本冨士朗著「うづま記」
②東京新聞出版局発行の牧口正史著「巴波川 江戸期の歌人石塚倉子の生涯」
と、あまり確認出来ませんでした。他に「うづま」の表記が見られるものとして、
①「うづま焼」 入舟町
②「うづまクリニック」 川原田町
③「うづま運転代行サービス」 小平町
などが、確認出来ました。

それでは実際に巴波川に架かっている橋に表示されている「巴波川」のひらがな表記を見ていきたいと思います。但し範囲は栃木市街地です。上流部より川を下って見ていきます。表記の無いものや確認出来ないものは除きました。
それではまず「うずまがわ」「うずまかわ」と表記された橋です。
①前原橋 ②新高瀬橋 ③原ノ橋 ④嘉右衛門橋 ⑤泉橋 ⑥開運橋 ⑦常盤橋 ⑧幸来橋 ⑨公園橋 ⑩開明橋 ⑪平成橋 以上11橋確認出来ました。
嘉右衛門橋1.jpg開運橋1.jpg公園橋1.jpg

次に「うづまかわ」「うづまがわ」と表記された橋です。
①小平橋 ②大川橋 ③新橋 以上3橋だけでした。
大川橋1.jpg新橋1.jpg

これまで私は、巴波川に架かるこれらの橋を沢山撮影してきていますが、今回分かった事は橋名表示部分は良く撮影して有るのに、川の名前の銘板部分は意外に写していなかったのです。当然「巴波川」と言う事は分かり来たことだったので、改めて写真に撮る必要も感じませんでしたからね。
今回掲載した川名部分の写真は今回改めて撮影をしてきた物です。

以上から、「巴波川」のひらがな表記は、一般的には「うずまがわ」ですが、「うづまかわ」でも又良しです。
電子辞書の「漢字源」で「渦」を検索する時、「うず」と入力すると「渦」の漢字がヒットしますが、「うづ」では出て来ません。ただその意味の解説に、<{名}うず(うづ)。うずまき。水流がへこんだところに旋回してできるまるいうず。「旋渦」。>と表記されていて、「うづ」とも表記されています。

冒頭に紹介した栃木市初の月刊タウン情報誌「うづまっこ」でも、「うづま今昔 栃木の心巴波川」と題して記事が載っていたことが有ります。その中で「うづま川-その名の由来」が有りましたので、一部重複に成る所も有りますが抜粋して紹介させて頂きます。
<うづま川には、鶉妻川・渦川・宇津間川・それに現在の巴波川という字が使われていた。「元禄度箱森村書上」によると 鶉妻川(うづまがわ)幅十間、村東方ヲ通リ申候。水上壱里、北方川原田ト申所ヨリ出水ニ而流候而、栃木ヘ落合申候。と書かれている。また「大日本地名辞典、坂東、第六巻」には、巴波川は古名寒川にてウヅマとは渦巻の義なり、巴波の文字を仮りたるも真理なきにあらず。 とある。この書から考えると、巴波川のうづまとは渦を巻く川という意味からきているようだ。しかし、何時頃から巴波川という字が使われるようになったかは判明できない。面白い説には、鶉が巴波川に棲息していたことから、うづま川となったというものもある。>

「母なるうずま」であり「栃木の心巴波川」では、一年中色々な催しが企画され行われています。
先日はこのブログでも紹介した通り「ダックレース」が有りました。そしてまた、まさに今日も巴波川では「流し雛」が行われていました。
流し雛1.jpg流し雛2.jpg
流し雛3.jpg流し雛4.jpg

折り紙で折ったお雛さまに思い思いの願い事を書いて巴波川に流していました。そこには、コロナ収束を願ったもの、世界平和を、戦争が起きない様にと、長生きが出来ますよう、100点採れるようになど大きな願い、ささやかな願いが巴波川のさざ波にゆられて流れて行きました。

巴波川ではこの後、五月の青空に向かって、多くの鯉幟が泳ぐ姿が見られることでしょう。




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