SSブログ

栃木の盆踊り唄 あれこれ [懐かしい写真]

8月ももうすぐ終わり、新型コロナ感染症の蔓延で、栃木市も未だに緊急事態宣言下に居ます。
不要不急の外出は自粛、市内の多くの公共施設が閉鎖となっています。
毎年行われていた夏のイベントも、何もかも中止に成り、街中の人通りもまばらです。

例年の8月であれば、あちらこちらで、「夏祭り」だ、「盆踊り大会」だ、「納涼祭」だ、等として夏を満喫しているところなのにと思います。

そこで、今回はそんな夏の風物詩のひとつ、「盆踊り」についての私の幼いころからの思い出を辿ってみたいと思います。

まだ小学校に通う前だったろうか、両親に連れられて「盆踊り」に行った時の記憶です。
会場は、栃木神明宮の南隣、現在「第二公園」となっている所。現在広場の中央にはクスノキが、大きく枝を伸ばして真夏に良い木陰を作っています。
第二公園のクスノキ.jpg
(今や第二公園のシンボル的存在のクスノキ)
今は無くなっていますが、そのクスノキの横に螺旋の滑り台が有って子供達が元気に遊んでいました。
第二公園の遊具で遊ぶ子供たち.jpg
(クスノキの下に有った螺旋状の滑り台、いつの間にか無くなっていました)
そのクスノキが、かつてどうだったのかもちろん記憶は有りませんが、その広場に櫓が組まれ、櫓から四方に祭提灯が架けられ、櫓の上では賑やかに笛や太鼓や鐘によるお囃子が演奏され、しわがれた爺さんの声がスピーカーから流れていました。
(ここで歌われていたものが、昔からこの地方で唄い伝えられた「盆踊り唄・口説き節」であることは、ずっと後の大人になってから知りました。「栃木市史 民俗編」の中に、「盆踊りの音頭」として、沢山の歌詞が紹介されています。「鈴木主水(もんど)」とか、「お吉清左」「国定忠治」などなど、聞き覚えが有りました。)
会場は大勢の人だかりで、小さかった私は、会場の中の様子を見る事は出来ませんでした。
曲が変わり、女性の歌声と成り、それが幼かった私の耳にも心地よく聞こえていました。それが「栃木音頭」でした。

小さい頃に、家に40センチメートル四方の、木製の箱型の蓄音器が有りました。蓋を開けるとターンテーブルが有り、レコード盤をセットしてハンドルを回して作動させました。何枚か残っていたレコード盤の中に「栃木音頭」と記された音盤が有り、何度か聞いた記憶が有りましたが、どんな曲だったかは全く記憶していません。

「栃木音頭」の歌詞を、しっかりと意識して聞いたのは、二十歳を過ぎてからで、勤労者が集う「勤労青少年ホーム」を利用するようになって、そこでお囃子会のメンバーに入って、八木節とか日光和楽音頭などと共に練習をしたのが始まりでした。
大杉囃子を練習するのに、仲間たちと小山市の小薬や小宅方面に出かけて、お囃子の練習している所を探しては、カセットテープに録音をさせて貰いました。(そのテープは今も大切に保管しています。)
「栃木音頭」や「栃木小唄」は踊り方を、民謡会の踊りの先生に教えて貰いました。
昭和47年8月には、勤労青少年ホームのテニスコートに本格的な櫓を組んで頂き、初めて櫓の上でお囃子を演奏しました。演奏するのはやはり日光和楽音頭と八木節でした。
「栃木音頭」と「栃木小唄」は録音され曲を流して踊って楽しみました。
栃木青少年ホーム盆踊り大会.jpg
(栃木市勤労青少年ホームのテニスコートで行われた盆踊り大会)
その当時は、盆踊りが盛大に行われていたのは、日光市の古河電気工業や真岡市でした。近くでは壬生町で藤井の「かんぴょう音頭」が有り、お囃子仲間と見に行ってきました。
その頃、栃木市では各地域、自治会等で盆踊りが行われていましたが、栃木市でも大きな祭にしたいと、栃木青年会議所が提唱して、昭和48年8月のお盆に、「10万人栃木まつり」として開催されました。
東中校庭に出現した盆踊りの櫓.jpg
(東中学校の校庭に組まれた櫓)
祭の初日は「栃木ヤングフェスティバル」として若者達が中心となってとして企画されました。
10万人栃木祭ヤングフェッティバル1.jpg
(中高生をはじめ、多くの若者が会場いっぱいに溢れた)
10万人栃木祭ヤングフェッセィバル.jpg
(櫓の脇で、井桁に組まれた丸太に火を付け、フィナーレのキャンプファイヤを楽しむ)

此の時昔から盆踊りで歌われてきた口説き節をリニューアルして「栃木やぐら音頭」がお披露目されました。
私が幼い時聞いた盆踊り唄です。
「栃木やぐら音頭」は、八木節と同じ歌詞で、七・七調です。八木節との違いは、お囃子と唄とがワンフレーズ毎に交互に唄い演奏されます。

<栃木名物 読み上げまする
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ

 陸の松島 太平山よ
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ

 桜つつじの 錦着山よ
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ

 女人平家で あの有名な
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ

 吉屋信子の 学びしところ
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ>
 
こんな感じで、音頭取りと囃子が掛け合いながら、進んで行きます。
上記の歌詞は、私が思い出すまま書きましたから、順不同かもしれませんが。
  
又、櫓音頭では音頭取りが交代するたびに、次のような口上が唄われます。

 <前の先生は 関東一よ
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ
 
  関東どころか 日本で一よ
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ
 
  前の先生の 読んだるように
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ
 
  うまいわけには 読めないけれど
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ
 
  鈴木主水を 読みあげまする
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ>

 こうして本題に入って行きます。ただ多くの唄の歌詞が長い為、まず最後まで唄われる事は無いようです。
 そこで

<まあだ まだまだ 読みたいけれど
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ

 後に先生 やまなすほどに
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ
 
 後は頼むよ 大先生に
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ
 
 頼みまするよ 品よく頼む
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ>

 こうして、音頭取りが順番に交代して行きます。
音頭取りによって、スピードが遅くなったり、調子が変わったりしますが、それも愛嬌に成ります。
調子よければ、踊りの輪もドンドン広がって行きます。
 
 
東中の校庭に櫓を組んで行われた盆踊りは2年間で、昭和50年8月から踊りの会場は大通りに変わりました。
大通り会場の踊りの列.jpg

大通り会場の踊りの列2.jpgしなやかに踊る.jpg
演奏に熱が入る.jpg

盆踊り唄として、メインは「栃木櫓音頭」と成りましたが、まだその頃は、各地域自治会等で開催される盆踊りでは、ま「日光和楽踊り」や「栃木音頭」も踊られました。

私の好みとしては「栃木音頭」が一番です。唄うような調子で筆記してみました。

<手拍子揃えて 踊りゃんせ~ (トコスットン スットントン トコ トコスットン スットントン)

  はぁあ~ あ あ あ あ~ あ~え~
  晴れの栃ぃ木ぃい~に~   コリャセ
  春ぅ 風ぇ 吹けぇばぁ~~
  街は黄金ぇえ~の コリャセ 
  街は黄金ぇえ~のぉ 花ぁ吹雪~
 手拍子揃えて 踊りゃんせ~ (トコスットン スットントン トコ トコスットン スットントン)

  はぁあ~ あ あ あ あ~ あ~え~
  春は 絵巻~ぃ~の コリャセ
  錦~着~山ぁに~
  つづく 花ぁ笠 コリャセ
  つづく 花笠 人ぉ~の 波
 手拍子揃えて 踊りゃんせ~ (トコスットン スットントン トコ トコスットン スットントン)

  はぁあ~ あ あ あ あ~ あ~え~
  唄も~可愛~い~い コリャセ
  娘ぇは 見頃~
  麻は 刈り~頃 コリャセ
  麻は 刈り頃 使ぁ~い頃
 手拍子揃えて 踊りゃんせ~ (トコスットン スットントン トコ トコスットン スットントン)

  はぁあ~ あ あ あ あ~ あ~え~
  さあっさ 繰りぃ~出~せ コリャセ
  祭~りの 太鼓~
  ドンと 響くぅ~は コリャセ
  ドンと 響くぅは 寄せぇ~太鼓
 手拍子揃えて 踊りゃんせ~ (トコスットン スットントン トコ トコスットン スットントン)

  はぁあ~ あ あ あ あ~ あ~え~
  さあっさ 踊~ろ~よ コリャセ
  シャ シャ~ン~ガ~ シャン~ト~
  花の 栃ぃ木ぃい~に コリャセ
  花の 栃木に~ 陽がぁ~昇る
 手拍子揃えて 踊りゃんせ~ (トコスットン スットントン トコ トコスットン スットントン)>

 前出した「栃木市史 民俗編」の中には上記の「栃木音頭」は掲載されていません。タイトルが「栃木音頭」と同じ名前の唄が有りましたが、私はそちらは聞いた事が有りません。

「栃木小唄」と言うものも有りました。これも「栃木市史 民俗編」の中に、サトウハチロー作詞の歌詞が掲載されていますが、私が知っている「栃木小唄」は又別の曲で、これも掲載されていません。

<ハァ~ ア~ ア~
 春は 花から ほのぼの 明けてょ~
 桜 つつじの 錦着山も~
 呼べよ 栃木の 晴れ姿 晴れ姿
 やんれ 栃木は よい ところ~

 ハァ~ ア~ ア~
 夏は あの娘と ネオンの 街をょ~ 
 涼み がてらに 仲よ~く ぬ~け~て~
 嬉~し 巴波の 蛍~狩 蛍狩
 やんれ 栃木は よい ところ~

 ハァ~ ア~ ア~
 秋は 太平 絵のよに 映えてょ~
 紅葉 錦の 化粧~姿~
 霞む 筑波も はづか~しや はづかしや
 やんれ 栃木は よい ところ~

 ハァ~ ア~ ア~
 冬は 山脈 屏風~に すえてよ~
 雪も 風情の 栃木の 街は
 あつ~い 人情の 花の~郷 花の郷
 やんれ 栃木は よい ところ~

 ハァ~ ア~ ア~
 さあっさ 踊ろよ 仲良く まるくょ~
 踊りゃ お国も まんま~る なぁ~て
 栃~木 繁昌の 灯もお~どる 灯もおどる
 やんれ 栃木は よい ところ~>

 上の「栃木音頭」も「栃木小唄」も、元々は栃木の花柳界の、芸者さん達により、お座敷で披露されていたものだったのでしょうか。演奏も三味線や小太鼓だった記憶が有ります。(録音していたテープは紛失しました)

幼いころの盆踊りの夜 人混みの向こうから聞こえた耳触りの良いお姉さんたちが唄う、盆踊り唄の思い出です。
又、踊りたくなりますね。


 

  

  



nice!(0)  コメント(1) 

出会いの場、二俣橋 [橋梁]

熊本県のほぼ中央部に位置する美里町には、日本で一番大きな石造り単一アーチ橋から、長さ幅共に2m足らずの石橋など、町内全域に多くの石橋が架けられています。その数は何んと30橋以上に成ります。
霊台橋.jpg
(江戸時代の石造り単一アーチ橋としては日本一大きな「霊台橋」。橋長:89.86m、橋幅:5.45m架橋は弘化4年(1847)です。)

岩清水橋.jpg
(霊台橋に向かう手前脇道に架けられていた「岩清水橋」。橋長・橋幅共2m足らずの小さい石橋)

そんな石橋の町「美里町」に、「恋人の聖地」に登録された「二俣橋」が有ります。
恋人の聖地・二俣橋.jpg
(2018年、第4回恋人の聖地、観光交流大賞を受賞した、「ハートができる石橋」の現地案内板)

ハートは何時でも見られるものではなく、アーチ橋に差し込む太陽の光の入射角の関係で、案内板に記載されている様に、11月から2月の、午前11時30分から12時頃と有り、天候との兼ね合いも有り、見る為には結構な努力が必要かもしれない。
ただ、チョッと気になるのが、その橋の名称。「二俣」ですが、恋人の二俣は良くないですよね。そこで、ここでは異なる観点からその意味を考えてみます。この橋が架かっている場所が、二つの川が合流する地点に成ります。二筋の川の流れがこの場所で落ち合うと言う状況から考えれば、橋の袂に設置された幸せの鐘の基礎に記された言葉に、納得出来ました。
     「川が、であい    道が、であい     人が、であう」
ここは全ての出会いの場所に成っているのです。

二俣橋.jpg
(二俣橋を下を流れる「釈迦院川」上流側に架かる「新年祢(しんとしね)橋」から撮影)

釈迦院川は二俣橋(二俣渡)の下を流れた直後、右岸に津留川が合流しています。そしてその津留川に架かる石橋が「第二二俣橋(二俣福良渡)」で、架橋時期はどちらも同じで文政年間です。更にその第二二俣橋の直ぐ上流部に、「第三二俣橋」が架かっています。

釈迦院川に架かる。橋長:28.0m 橋幅:3.3m 橋高:8.0m 文政12年(1829)架橋。
二俣橋(二俣渡).jpg
(二俣橋(二俣渡)を第二二俣橋(二俣福良渡)側から撮影、ハートはこのアングルから)

津留川に架かる。橋長:27.0m 橋幅:2.5m 橋高:8.0m 文政13年(1830)架橋。
二俣福良渡.jpg
(第二二俣橋(二俣福良渡)を、右手前から流れてくる釈迦院川下流側より撮影、

津留川の第二二俣橋の直ぐ上流側に架けられた現代橋。昭和2年3月に竣工しています。
第三二俣橋.jpg
(第三二俣橋、津留川の左岸橋詰より撮影)
nice!(0)  コメント(0) 

我が国最大級の水路橋、「通潤橋」の放水を見て来ました。 [栃木市外の橋梁]

先月、前々から見に行きたかった熊本県山都町の、五老ヶ滝川に架けられた水路橋(単アーチ石造り)の放水を見て来ることが出来ました。
放水1.jpg
(通潤橋の放水の様子)
現在は一部観光の要素も有りますが、元々は年に一度、橋の上部に敷設された通水管内に溜まった泥や砂などを除くために、橋の中央部上部両サイドに設けられた放水口を開放して、通水管内の水を吐き出す、水路維持の為に必要な作業でした。
通潤橋は現在も白糸台地へ水を送る現役の水路橋の為、放水の水も農業用水に利用されている為、放水する日は毎年予定が発表されますが、天候等の事情により急きょ取りやめになる事も有ると言う事です。
私が向かった日は、幸い天候に恵まれ予定通り実施され、豪快な放水の様子を目の前で見る事が出来ました。
私が行った日は1日1回、午後1時から約15分間の放水の日でした。現地の状況が全く分からない為、途中で道路渋滞が起きないか、駐車場が有るか等、不安が有りましたので、余裕を持って出かけました。
結果、順調に行って放水の3時間前に「道の駅通潤橋」の駐車場に到着しました。
クマモンの作り物.jpg
(駐車場の脇に展示されていた、現地山都町八朔祭の大造り物のクマモンがお出迎え)

時間に余裕が出来ましたが、とりあえず「通潤橋」の近くへ行って見る事に。
五老ヶ滝川の上流側の橋を渡って、川の左岸沿いの歩道を通潤橋へ向かいます。
上流に架かる橋.jpg
(五老ヶ滝川上流に架かる橋を渡って「通潤橋」の近くへ)

途中、歩道脇に銅像が建てられています。この「通潤橋」の建設を計画し先頭だって進めた、惣庄屋(現在の町長にあたる)であった、布田保之助の像です。
布田翁の像.jpg
(通潤橋の方角を見つめ、何か記録をしている惣庄屋の布田保之助の像)

通潤橋の足元近くから見上げると、そのスケールの大きさに改めて圧倒されます。下を流れる五老ヶ滝川は手前から橋の下を流れて行きます。
通潤橋近影.jpg
(通潤橋近影 アーチは直径27.9mの半円をなし、常水面から橋上までの高さは20.2m、橋の幅約6.3m)
放水口(上流側).jpg
(橋中央に設けられた放水口、写真は上流側、上下2ヶ所有り、橋の反対側(下流側)に1ヶ所設けられています。橋に敷設されている三本の通水管のそれぞれの放水口に成ります。最初に載せた写真に三筋の放水の様子が分かります)

壁石垣.jpg
(橋の上流側右岸側の壁石垣部分は、2018年5月7日の豪雨の為、石垣の一部が崩落してしまいました。通潤橋の石垣が崩れるのは初めての事だったそうです。
アーチの脚部に見える袴様の石垣は「鞘石垣」で、基礎部強化の為布田保之助が石工と共に熊本城まで出掛けてその石垣を参考に考案したと言われています。
2020年4月に、熊本地震の被害箇所も含めて、綺麗に保存修理工事が完成して、以前の様に放水する雄大な姿を見る事が出来る様になりました。)

まだまだ時間が有るので、橋の上を確認したいと思います。ただ現在は安全の為通潤橋の上は立ち入り禁止になっていますので、橋の上が展望できる場所に向かいます。通潤橋史料館の館長さんにルートを教えて頂き、右岸側の展望場所に歩いて向かいます。
途中「国民宿舎通潤山荘浜の湯温泉の前を抜け、布田保之助を祀った「布田神社」の脇を抜けて行くと、通潤橋の通水管を流れてきた水が出てくる吹上池に出ました。
右岸側より水路上面を望む.jpg
(通潤橋の橋の上面、向こう岸から手前まで、3列に石が並んでいます。)

吹上口.jpg
(その手前、石垣に囲まれた池の側面に、通水管に繋がった3ヶ所の開口が見えます。この開口部から通水管を通って川を渡って来た水が、逆サイフォンの原理により吹き出してくるので、「吹上口」と言われるところです。)

通潤隧道.jpg
(吹上池に繋がる水のトンネルが有ります。上に「通潤隧道」の銘板が設置されています。このトンネルを抜けて南側に広がる白糸台地に灌漑用水として水が流れて行くのでしょうか。)

ここで一旦道の駅に戻り、早めの食事をとって置きます。
通潤橋前バス停.jpg
(戻る途中、通潤橋前バス停付近からの遠望)

石橋カレー.jpg
(お食事処いしばしにて、ここならではの「通潤橋カレー」を注文。ごはんは通潤橋のアーチ型に盛られ、添えられたピーマンやパブリカは三筋の放水を表現しているようです。美味しく頂きました。)

腹ごしらえをしたところで、今度は通潤橋左岸の高台に登ります。
左岸高台より通潤橋を望む.jpg
(高台への坂道をやっとの思いで登ると、通潤橋を左岸側から見下ろせる展望所に出ます。アーチ橋の向こう側は食事前に行った「吹上池」の有る高台です。)

左岸高台の取入口.jpg
(少し降りたところに水路が有って、静かに水路一杯水が流れており、その先に通潤橋の水の「取入口」が設けられています。
この水路の水は、通潤橋から約6km上流にある、笹原川の「上井手取水口」から水路を延々と流れてきた水です。)

取入口で水の流れは3本の通水管に分水される.jpg
(取入口から流れ込んだ水は、石で組んだ三列の水路に分流され、通潤橋の通水管に導入されます。)

これで通潤橋を下からと右岸側(吹上口)、左岸側(取入口)からと見て来ましたが、その全容を上手く文章で説明出来ないので、「山都町観光協会」発行の、「通潤橋放水暦2021」の資料中に掲載されている、解説文と解説図を参考にする為、抜粋させて頂きました。
通潤橋説明図.jpg
(通潤橋の目的や構造が端的に説明されています。取入口から吹上口間の水路の長さ約123.9m、橋の長さ約76.0m、取入口と吹上口の高低差約1.1m)

放水2.jpg
(放水口から勢いよく吹き出る水が、正に圧巻です。)

午後1時、予定通りに放水が開始され、その勢いに驚かされました。近くでカメラを構えるとたちまちレンズが水しぶきでビチョビチョです。
15分間の放水の予定でしたが、30分過ぎても結構な量が吹き出ていました。
放水を見上げる観光客達.jpg
まだまだ放水が続いている通潤橋を背に、大満足で帰路に着きました。

今回参考にさせて頂いた資料:
一般社団法人 山都町観光協会発行資料 「通潤橋 放水暦 2021」及び「心も潤す虹の架け橋通潤橋」
「眼鏡橋 日本と西洋の古橋」 工学博士 太田静六著  発行所理工図書
nice!(0)  コメント(0) 

常盤橋のこと、あれこれ [栃木市の橋梁]

栃木市の市街地中央を貫流する「巴波川(うづまがわ)」に「常盤橋(ときわばし)」と名付けられた橋が架けられています。
巴波川に架かる常盤橋.jpg
(栃木市街地中央を貫流する「巴波川」に架かる「常盤橋」、左岸橋詰より撮影)

橋自体は一般的な桁橋で、栃木市の橋梁資料によると、橋の長さは13.2メートル、幅員6.0メートル、架設は1961年で、橋種は鋼橋。との内容が記されています。
ただ私の素人目で見ると橋桁はコンクリート製で鋼材は確認できません。橋は2径間で、中央部の橋脚はコンクリート柱4本で支えています。
巴波川に架かる常盤橋2.jpg
(下流側右岸から見る常盤橋。写真中央奥のビルは、栃木市役所です。)
私よりこの「常盤橋」の方が新しい。驚きですが、私が小学生の頃この場所を何度も通っているけれど、現在のコンクリート橋の前は恐らく木橋でしょうが、全くその記憶はないのです。上流に架かる大川橋は昭和43年(1968)に現在の橋に変わっていて、それ以前は木橋だった記憶は有るのですが。
その頃はまだ、橋自体に興味も無かったですから。仕方ない事です。

「常盤橋」と言う名前の橋は、全国各地に見る事が出来ます。栃木県内では真岡市の市街地を流れる「五行川」の支流、「行屋川」に架かっています。
真岡市の行屋川に架かる常盤橋.jpg
(真岡市内を流れる行屋川に架かる「常盤橋」。真岡駅のSLキュウロク館前から東に延びる「ときわ通り」に有る。)

茨城県筑西市の小貝川を渡る、旧国道50号(現、茨城県道7号線)の橋も「常盤橋」で、その上流側の新国道50号(下館バイパス)の小貝川に架かる橋は「新常盤橋」の名前が付けられています。

九州に目を転じてみると、長崎県長崎市の中島川に架かる石造りアーチ橋で有名な「眼鏡橋」の下流側にも「常盤橋」と名付けられた橋梁が架かっています。
長崎眼鏡橋夜景.jpg
(下流側に架かる「袋町橋」より望む、ライトアップされた眼鏡橋)
長崎市の常盤橋夜景.jpg
(同じ「袋町橋」より下流側を望むと見えるのが「常磐橋」)
長崎市街地を貫流する中島川及びその支流には、寛永11年(1634)に長崎の興福寺二代目住職如定が架けたとされる我が国最初の石橋「眼鏡橋」を始め多くの橋が、江戸時代に架橋され、初期の石橋は在留中国人による架橋が多かったが、元禄時代に入ると日本人の寄附によるものに変わって来ています。
しかし、昭和57年(1982)7月23日の長崎大水害でこれらの多くの石橋が被災して、流出や半壊してます。現在の橋は昭和60年・61年に復旧したもので、眼鏡橋と袋町橋は元の石橋の状態に復元させましたが、他のアーチ橋は石橋に似せていますがコンクリート造りだそうです。

又、福岡県北九州市小倉北区の紫川にも「常盤橋」を見る事が出来ます。
北九州市小倉北区の常盤橋.jpg
(北九州市小倉北区の市街地を貫流する「紫川」に架けられた、木橋の「常磐橋」)
この木橋は平成7年に、紫川マイタウン・マイリバー整備事業のひとつとして、江戸時代と同じ「木の橋」に生まれ変わりました。長さ85.0メートル、幅6.0メートルです。
小倉北区の常盤橋の由来案内板.jpg
(常盤橋の由来を記した、左岸橋詰に建てられた案内板)
江戸時代この橋は、小倉から九州各地にのびる諸街道の起点であり、終点でもありました。長崎街道、中津街道、秋月街道、唐津街道、門司往還の5つを「小倉の五街道」と呼びますが、そのすべてがこの橋に繋がっていました。上の案内板にも記されている様に、この常盤橋は九州における日本橋となっていたのです。

どこの県にも、一ヶ所や二ヶ所は「常盤橋」と命名された橋を見つける事が出来るかも知れません。
それでもやはり「常盤橋」と言えば、東京の日本橋川に架かる橋が、知名度は一番でしょうか。
この日本橋川には上流側より、「新常盤橋」、
新常盤橋(日本橋川).jpg
(日本橋川に架かる「新常盤橋」、上流側には東北上越新幹線の高架橋が架かる)
新常盤橋の親柱.jpg新常盤橋から望む常磐橋.jpg
(「新常盤橋」の親柱と高欄、高欄越しに下流に石造り二蓮アーチ橋の「常磐橋」を望む)

次に、明治10年(1877)6月に架けられた石造り二蓮アーチ橋の「常磐橋」、
常磐橋(日本橋川).jpg
(明治新政府が帝都の近代化を推し進める為に造られた石橋。なだらかなアーチがやさしい感じになっている。白亜の大理石の親柱も高い気品を醸し出しています。このもっとも古い「常磐橋」は平成23年(2011)3月11日の東日本大震災で被災して、修復工事が行われていましたが、今年(2021)5月10日に工事が終了して、渡れるようになりました。写真の常磐橋の先に写る建物は日本銀行本店です。)
常磐橋の親柱.jpg常盤橋から望む常磐橋.jpg
(修復された大理石製の親柱に刻まれた「常磐橋」の文字。下流側のもう一つの「常盤橋」の高欄越しに望む「常盤橋」。日本橋川の上空には首都高速都心環状線が走っています。)

更にその下流側に大正15年、関東大震災の復旧事業で新しい「常盤橋」と新たな道路が作られています。
常盤橋(日本橋川).jpg
(「昭和元年拾貮月完成」の「常盤橋」。写真左奥の木々の中に建つ銅像は、現在放映中のNHK大河ドラマ「晴天を衝け」の主人公、渋沢栄一に成ります。)
常盤橋の親柱.jpg常盤橋の橋名板.jpg
(石組みの重量感のある親柱。上部は常夜灯に成っています。)

ここで「ときわ(常磐)」の意味について、広辞苑を引いてみると、(トコイワの約)として
①常に変わらない岩
②永久不変なこと
③松・杉など、木の葉の常に緑色で色を変えないこと。
と記されていました。
「何時までも壊れないで有って欲しい」という願いを込めて命名した橋の名だったのでしょう。

広辞苑にはもう一つ「ときわ(常磐・常盤・常葉)」の項が有り、
平安末期の女性。もと近衛天皇の皇后九条院の雑仕。源義頼に嫁し、今若・乙若・牛若を生む。(後略)
源義経の生母、常盤御前の「常盤」です。

私はもう一人「常盤姫」という女性を知る機会が有りました。今から30年ほど前、単身赴任で東京本社に4年程勤務していた時です。会社の最寄駅の自由が丘駅から歩いて通勤をしていましたが、その途中毎日この女性の姿を眺めていました。
「常盤姫」は世田谷区立八幡中学校の建物の外壁に描かれたモザイク壁画で、絵の中央には羽ばたく白鷺。その右下に白鷺の行方を見守る「常盤姫」の姿が描かれています。
常盤姫の壁画.jpg常盤姫説明板.jpg
(世田谷区立八幡中学校の建物の壁画と「常盤姫」の説明板)

「常盤姫」の説明文を、書き写させて頂くと、
<昔、世田谷地方一帯の領主で、足利将軍の一族であった吉良氏が、いま豪徳寺のある所に城を構えていた。吉良氏七代目の頼康は、ある雪の朝 狩に出て、奥沢城の近くで白鷺を射落とした。見ると白鷺の足には結び文があって、
       狩人の きょうはゆるさん しら鷺の
             しらじらし夜の  雪のあけぼの
と、しりしてあった。頼康は、狩人が見のがしてくれるように願って放した元の飼主の心にうたれ、家臣に命じてその人を探させた。
 白鷺を放したのは、吉良氏の家臣で奥沢城主大平出羽守の娘「常盤姫」とわかった。常盤は、白鷺のとりもった縁で召され、頼康に仕えるようになった。
 白鷺のように清く美しく、そのうえに聡明であった常盤は、頼康の愛を一身に集めていたが、頼康に仕える他の女性達からはねたまれて、罪をきせられ、頼康から遠さけられて城を追われ、逃げる途中追手のために殺された。しかし、ほどなく常盤に罪のないことがわかり、悪だくみをした女性達は重く罰せられた。
 春がめぐって来て、奥沢田圃の白鷺が射落とされたところから一本の草が芽生え、やがて夏には白鷺が翼を広げて飛ぶ姿に似た鷺草の花が咲いた。大正の終わりごろまでは、奥沢城址周辺には沢山の鷺草が自生していたと伝えられている。      世田谷の伝説より。>

奥沢城址は、この八幡中学校の南側に有る現在の九品仏浄真寺に当り、寺の境内には鷺草園が有ります。
九品仏浄真寺参道.jpg九品仏浄真寺山門.jpg
(東急大井町線の九品仏駅から歩いて1分程で浄真寺参道入口に至る。但し、参道を歩いて総門まで2分程掛かります。総門を潜ると左手に閻魔堂。そこから木々に包まれた境内を歩き山門を潜ると直右側に鷺草園が有ります。)
鷺草の説明板.jpg
(浄真寺境内の一画に有る鷺草園に、鷺草の説明板が建てられています。鷺草は世田谷区の花に指定されています。)

尚、常盤姫が殺害され葬られたとされる場所には現在「常盤塚」の石碑が建てられています。 またその傍らに建つ「伝承史跡常盤塚」の碑文には、ここに今も眠る常盤姫の霊を愛しむ地元住民の優しい気持ちが溢れています。
常磐塚.jpg伝承史跡常磐塚.jpg
(住宅街の中にひっそりと建つ「常盤塚」の石碑)

又、近くの駒留八幡神社の境内には、常盤弁財天と名を変えて、今も常盤姫を祀る祠が残されています。
駒留八幡神社.jpg
(常盤姫を祀った祠の有る駒留八幡神社)

常盤橋のテーマから大きく脱線をして「常盤姫」の話に成ってしまいましたが、「常盤」繋がりと言う事でご容赦願います。

今回参考にさせて貰った資料は
 ・栃木市橋梁長寿命化修繕計画 令和2年3月版 栃木市建設部道路河川維持課
 ・「眼鏡橋 日本と西洋の古橋」 工学博士太田清六著 発行所理工図書(株)
 ・北九州市ホームページ
 ・東京新聞電子版「文明開化期から現代へ 思いを橋渡し 常盤橋 創建時の姿に復元」


nice!(0)  コメント(0)