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いよいよ夏本番、今日我家のヒマワリも開花しました [草花]

今日、ついに関東地方も梅雨明けをむかえたと、ニュースで報じていました。
そして、この日を待っていたかの様に、我が家のヒマワリも開花を始めました。
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天気予報ではこの後一週間、晴れ時々曇りのお天気マークがズット並んでいます。
いよいよ夏本番、先週末エアコンのフィルター掃除を済ませておいて良かったです。

そして今日の夕方、早々に戸締りをしてエアコンを付けて、気持ちよく夕食を済ませ7時のテレビニュースを見ていた時です。突然の停電。我家だけでは有りません。辺り一面どの家も電気が付いていません。
雷が鳴っている様子も無く、原因が分かりません。
停電は意外と長く続いていました。急に暑くなった影響で、多くの家庭でエアコンを使い出した為と言う訳では無いでしょうし、何か事件か事故が発生したのか、サーバーテロが起こったのか。色々と思い巡らします。

20分間以上停電していたでしょうか、突然電気が復旧。テレビ画面は何事も無かったように放送を続けています。臨時ニュースも何も有りません。8時45分からの首都圏ニュースでもまったく停電の話題は出て来ません。我家の感覚では重大事件です。大規模停電発生です。
この辺限定の停電だったのかな?原因が不明のままではチョッと不安です。明日の新聞ニュースに出ないか気になります。

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千塚町八幡宮境内に建つ石碑 [石碑]

栃木市の北西部星野町から、鍋山町・大久保町・梅沢町・尻内町と寺尾地区を、南東方向にほぼ一直線に流れ下った永野川が、吹上地区の仲方町と千塚町との境界付近から、流れを僅かに南に変えて吹上地区の西部に位置する千塚町と宮町のほぼ中央部を南流しています。
今回訪れた千塚八幡宮は、栃木の市街地から県道32号(栃木粕尾線)を北に走り、千塚小学校の先の歩道橋の架かる交差点を左折し、西に向かい永野川に架かる「千塚橋」を渡り、永野川の西岸域側にせり出している足尾山地の東の縁、山裾から少し石段を上がった所に祀られています。
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(千塚橋の西方300メートル、道路の右側に参道入口の石の鳥居)

参道登り口に建つ案内板によると、主祭神誉田別命(ほんだわけのみこと)、境内地1,577坪、旧社格指定村社、本殿一間社流造柿葺、拝殿入母屋造瓦葺と成っています。
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(石段を上った先に現れる、八幡宮社殿)

今回の石碑は八幡宮の社殿に向かって右隣に建てられています。
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(社殿右手に建つ石碑)

石碑の上部篆額には「御大典記念」と有ります。
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(石碑上部、「御大典記念」と篆書体文字が陽刻されています)

碑文最後に記されている「昭和3年11月吉辰」で明らかなように、篆額に有る「御大典」とは昭和天皇の即位の礼から大嘗祭等の一連の儀式を総称した言葉の様です。この年昭和3年には、日本各地で御大典を記念した行事や事業が計画執り行われたようです。そしてそうして実施された事業内容を記した記念の石碑が各地に建立されています。
ちなみに、この篆額の文字は、碑文冒頭に記されている「内務大臣、望月圭介」によるもので、この人物は御大典の時(昭和3年)、内務大臣に就任して御大典の警備最高責任者でした。

碑文に目を通します。昭和の初期に建立された石碑ですが、ありがたいことに非常に読みやすい、漢字とひらがなの文章です。明治期の漢文体や、戦前の漢字とカタカナで埋め尽くされた碑文は、とても読み解くことが難解な石碑が多いのですが。

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(碑文を読みうつしました)            (碑陰の寄附者芳名一覧)

碑文によりますと御大典記念事業として、八幡宮氏子らが相談をして神社拝殿の改築、境内の整備を行った事などが記されています。そして、碑陰にはこの事業に寄付を行った多くの人達の名前が連ねられています。その数は、篤志寄附者として52名、寄附者として115名の名前と寄附の内容が記されています。
寄附金の額を集計してみると3,755円。最高寄附金は300円、一番多い寄付金額は6円で34名おりました。
これらの金額は現在の価値にしてみるとどの程度になるものか、昭和初期の物価などを調べて私なりに推定を試みました。その結果として寄付金の合計は2,854万円程度になるものと思われます。300円は現在では200万円以上となり、まさに高額寄附者と言うことにまります。
寄附者115名に内容を見ていくと、高久姓が一番多くて35名、次に横倉姓13名、その後には柴姓9名、名渕姓・臼井姓7名と続いています。
現在の千塚町の主要苗字をゼンリン住宅地図にて確認してみると、一番多い苗字はやはり高久さんで37軒、二番目は柴さんで10軒、三番目は臼井さんで9軒、次が熊倉さん、横倉さんで共に8軒、続いて琴寄さん7軒、名渕さん6軒となります。
千塚町の主要苗字の分布は昭和初期も現在もほとんど変わっていない事が分かりました。
また寄附者の名前の中に「保知戸」という珍しい苗字を見つけました。この苗字は2004年度版栃木市電話番号帳を見ると市内に8軒有りますが、その内5軒が千塚町に分布をしています。
この苗字は他に多く見られた「高久」や「横倉」「琴寄」と言うかつての皆川家臣団に当たるか、寛永12年の「皆川先祖譜代家臣録」(近藤兼利著「皆川廣照伝」附録)を開いてみると、「保知戸」の苗字は確認できませんでしたが、千手村の中に「宝冶戸」と言う苗字の人物が4名おります。この姓に関係するものと推定いたします。
この千手村とは現在の千塚町の一部のかつての名前で、「千塚」と言う地名は明治8年6月に「千手村」と「犬塚村」とが合併して生まれた地名だそうです。(「吹上地区小字の由来」吹上地区まちづくり協議会編集発行)

今年は今上天皇の即位の礼が行われます。「令和御大典の年」です。令和の時代が平和で豊かな時代になることを願いたいと思います。



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神明宮の神幸祭を見て来ました [祭]

今日未明に栃木市内で拳銃の発砲事件が発生したと言うニュースを、昼のテレビニュースで知りました。
犯人が拳銃を持ったまま逃走していると言う事で、街の中はどうなっているのかチョッと心配になりました。
今日、栃木の街中は旧栃木町五ヵ町の総鎮守「神明宮」の夏祭り「神幸祭」が行われる日だからです。
でも夕方、耳を澄ますと街の方向から微かに、祭太鼓の音が聞こえて来ています。無事行われている様で、夕食後ウォーキングを兼ねて、祭り見物に出かけてきました。
いつものウォーキングルートを歩いて、祭会場となっている大通りへ向かいました。
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(街中ウォーキングルートは幸来橋から巴波川沿いを歩いて駅前を回りこんで大通りへ)

栃木駅前を回りこんで大通りへ。南関門道路を北上して巴波川に架かる「関門橋」を渡る辺りから、前方が賑やかになって来ました。交通規制が惹かれる文化会館入口交差点の先に、丁度御神輿が到着して休憩に入るところです。
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(倭町三枡屋本店さん前に到着した御神輿)

ここで一旦担ぎ手さん達の休憩がとられるようで、御神輿は台の上に置かれましたので、近くに寄って写真を撮ってきました。
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(「神明宮」と記した弓張提灯を四方に取り付けた御神輿、重量感タップリです)

この御神輿、私も今から30年程前の若かった頃に、担がせて頂きました。見ていると今でもその時の重量が肩に圧し掛かってくる様です。この神幸祭は栃木旧5ヵ町のお祭りですから、御神輿はこの各町内を隅から隅へと回って歩くために、早朝から神明宮を出発しましたが、午前中は万町東裏通りや旭町神明宮裏通り、旭町五丁目内を回って、それからやっと大通りに出てきました。(今でもそれは変わっていないのではと思いますが)その為か午前中は担ぎ手が十分集まらず、御神輿の重量でドンドン下がってつぶされそうになり、リーダーからは「みっともない担ぎはするな、上げろ上げろ」と、何度も発破を掛けられたものでした。その時は祭りの後、数か月胸が圧迫されるような痛みが続いた記憶が残っています。
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(旧栃木5ヶ町の高張提灯が勢ぞろい、旭町の提灯が後ろに隠れていてチョッと残念)

そして、御神輿とは切って離すことが出来ないのが祭囃子。この地囃子を聞くのは私は大好きです。大太鼓に付け太鼓、大鼓・小鼓はリズミカルに打ち鳴らされる、そして鉦に調子よく流れる横笛の音色。
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(例年通り神幸祭に花を添える、旭五お囃子保存会の山車)
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(私が見物していた時演奏していたのは、藤岡町蛭沼の囃子保存会の人達でした)

何時までも見物をして、お囃子を聞いていたかったのですが、大通りの歩道に並ぶ露店の店先を見ながら帰路につきました。万町交番前は警察官が立って交通規制をされておりました。
ウォーキングルートは更に北上し、北関門道へ入ります。ここまで来ると祭の喧騒もすっかり遠ざかり、いつもの風景が周りを包んでいます。

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五羽の子ツバメが、無事揃って巣立って行きました。 [自然の恵み]

今朝、一番に玄関先のツバメの巣を確認しました。巣にツバメの姿は有りません。昨夜はどうやらツバメは戻ってこなかったようです。これで完全に巣立っていったと感じました。空は久しぶりの青空が広がっています。
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(今朝、7月17日9時頃撮影、ツバメの姿が消えた巣)

ツバメ達の巣立ちの準備は7月11日頃から見られる様になりました。狭い巣の中で羽を広げ「羽繕い」をしたり、巣の縁につかまって羽をバタバタさせ、羽ばたきの訓練をするツバメの姿が見られました。
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(7月11日16時頃、狭い巣の中で羽を広げるツバメ、他のツバメが窮屈そう)

7月13日の朝、家の周りを数羽のツバメが飛び回り騒いでいるように見えます。もしかしたら我家のツバメが飛び出したのかと、急いで巣を確認するとそこにはまだ五羽のツバメが並んでいました。その巣の近くを飛び回るツバメ、親ツバメもその中にいるのでしょうか。「皆も飛び出してごらん」と、誘っている様にも見えます。
その内、意を決したように一羽が羽ばたいて巣を飛び出して、近くの電線に止まりました。
そのて又一羽、又一羽と巣から飛び立ちました。でも後の二羽はまだその時では無い様です。
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(7月13日11時頃撮影、残った二羽はまだ飛ぶ気は無さそうです)

その日の夕方、巣をのぞいてみると、シッカリ五羽のツバメが揃って、親ツバメから餌を貰っていました。
まだ巣立ちには成らないようです。
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(7月13日16時頃撮影、五羽のツバメが揃っていました)

7月14日の14時過ぎに巣を確認すると、なんとツバメの姿が無く、みんな巣から飛び立っていました。
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(7月14日14時30分撮影、ツバメの姿が無くなった巣)

しかし、その日の夕方には一羽のツバメが巣に戻っているのを確認しました。
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(7月14日18時頃撮影、一羽のツバメが戻っています。)

その日も結局夜には、五羽のツバメが巣に居るのを確認しました。まだこの巣が良い様です。
翌日7月15日も昼間五羽のツバメはみんな巣を飛び出していましたが、やはり夕方になると、巣に戻っているのです。
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(7月15日18時頃撮影、たくましくなった五羽のツバメが巣の中で休んでいます。)

そして翌日7月16日、とうとうこの日はツバメは一羽も巣に戻って来ませんでした。
そして今朝、空っぽになったツバメの巣だけが残りました。完全に巣立ったようです。付近の電線にツバメの姿は見えません、でもしばらくは近くで飛び回っているのかもしれません。
秋になり南の国へ旅立つ為の体力を付け、無事に海を渡ってほしいものです。
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もすこし様子を見て、この巣も処分していきます。
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大皆川町の田んぼ脇に建てられた「報徳碑」 [石碑]

栃木市街地の西方に、かつての皆川村の大字のひとつ大皆川、現在の栃木市大皆川町と言う地域が有ります。、北側の千塚町や宮町から南流してきた永野川が、太平連山から北東部に張り出した舌状台地に、行く手を阻まれた形で大きく円弧を描いて、その流れを東方向に変える、その内側となる永野川右岸に位置しています。
永野川の西から南西側の対岸は皆川城内町、南東側は岩出町と成っています。
今回の石碑はそんな大皆川町の西域、家屋脇水田の畔の上に建てられています。
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(家屋をバックに水田に面して建つ石碑3基)(一般の石碑より厚さが薄い)

私が撮影に訪れた日は、梅雨の冷たい雨がシトシトと降っていました。
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(3基並ぶ石碑は、中央が碑文を刻した主碑、両側は普通碑陰に刻される関係者芳名一覧)

中央に建つ石碑の表面に刻された文字を書き写しました。□は判読する事が出来なかった文字の箇所になります。
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石碑上部の篆額の文字「報徳碑」は、建立時に陸軍大将従二位勲一等伯爵であった、山縣有朋によるもの。碑文は大日本帝国神道修正教官長の新田邦光の撰文であるとが、碑文冒頭に刻されています。明治初期の日本政界及び宗教界で活躍された人物の名前でまず驚かされます。
碑文は「晃山峩峩 永川滾滾」と韻を踏んで始まっています。「こうざんがが えいせんこんこん」これは何を描写したものか、私のお粗末な頭で考えてみた。「晃山峩峩」は皆川の地の南側に東西に連なる「晃石山」を最高峰に連なる山々の事か、そして「永川滾滾」とは皆川の地を貫流する「永野川」の流れを詩的に表現したもの。次に続く「螺貝丘」は通称「法螺貝城」と呼ばれた「皆川城」の事。やっとの事でそこまで読み込むのですが、その後が続かない。どのように読んで行けば良いのか、遅々として読み進むことが出来ない。
「文糸翁」とか「關口保」「長沼五郎秀宗」など単語として読みとれますが、文章として成り立たない。「長沼五郎」と云えば1159年頃に小山城を築いた、下野大掾「小山政光」の二男「宗政」で、下野国芳賀郡長沼に居を構え「長沼氏の祖」が思い浮かんできますが。又、「秀宗」の名前は、第二次皆川氏の祖の事と思われます。西隣、皆川城内町の金剛寺境内に有る、皆川家歴代祖廟の中に「初祖長沼秀宗公」と記された墓石が見られます。その説明文に「永享元年(1429)会津田島より移住」と記されています。
金剛寺の伝によると秀宗は下野国に移り、初め岩田郷皆川庄滝の入に住み、その後白山台に移った。更に観音山に築城したとしています。
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(金剛寺、皆川家歴代祖廟)      (長沼秀宗公墓前に立てられた表示版)

こうして観るとこの「報徳碑」の人物は皆川家に関係した人との推定が成される。碑文にはその人物の人となりが、縷々と記されていますが、私には難解な漢文で読み切れません。
このブログで前に紹介した、細堀町の田んぼの畔に建てられた石碑の場合の様に「大川鴻山先生碑」と有れば、誰の為に建てられた石碑か一目瞭然なのですが、今回の石碑はその人物にたどり着くことがなかなか出来ません。
碑文の最後に記された日付けは、「紀元貮千五百五十五祀愛景」と記されています。これは西暦にすると「1895年」、この年日本は日清戦争に勝利し下関にて「日清講和条約」が締結された時です。

次に中央に建つ主碑の両側の石碑に目を向けてみます。
まず左側の背の高い石碑。上部に「主師高恩」の文字。その下に多くに人物の名前が連ねられています。その筆頭には、「衆議院議員の新井章吾」皆川村の北東側に隣接する吹上村の出身。次に「県会議員の高久倉蔵」、この人は同じ皆川村出身で、大皆川の東隣り泉川の生まれ。この人物は後に第九代皆川村長や、明治41年(1908)の第10回衆議院議員選挙にも当選して活躍をした人の様です。≪石崎常蔵著「栃木人・明治・大正・昭和に活躍した人びとたち」を参照させて頂きました。≫
その他には「里長」「親友」「親戚」故旧」「門人」「世話人」等の名前が続いています。
日付けは「明治廿八年七月」と刻されています。
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(碑に向かって左側に建つ「主師高恩」碑)  (碑に向かって右側に建つ「主師高恩」碑)

そして、右側の小ぶりな石碑を見ると、左側の石碑同様「主師高恩」と有ります。
その筆頭には「門人」として、「村長関口豊次郎」の名前。村長とはもちろん地元皆川村の長になります。
「門人学友」の次に「皆川旧臣」として7名の名前が連なっています。下段には「門人」そして「発起人」達の名前になります。下段は雑草に遮られて名前が確認できない所が有りました。

改めてこれらの石碑の主人公は誰なのか考えてみます。
「門人」とする名前が多く連なっている所から、先の細堀町の石碑「大川鴻山先生」の「錬武館」のような剣道場を設けて多くの門下生を教えた人物なのか。明治初期の大皆川の教育機関を調べてみると、明治5年8月2日に日本最初の近代的学校制度を定めた「学制」が太政官より発せられると、栃木の周辺地域でもそれぞれの村で私塾的な教育施設が出来てきます。大皆川にも関口源治氏による「分校国宝舎」が開校しています。この人は先に記した村長関口豊次郎氏の父親になります。しかし碑文の中に「源治」の名前は見つかりません。発起人の名前の中に「関口」と言う文字が多くみられますし、碑文の中にも「關口」の名前も認められますから、関口姓の人物で間違いないと考えますが、この石碑の建つ地区「西大皆川」には現在も約100軒の住居が有りますが、その内関口姓は13軒確認されますので、特定は出来ません。昭和33年8月15日発行「皆川廣照伝」(編者:近藤兼利)の付録「皆川先祖譜代家臣録」の中にも、大皆川に「關口」姓が10名分確認されますから、ここからも絞り込みは出来ません。(皆川先祖譜代家臣録の中に収められている「關口」姓の人物は一番多く68名数えられています。)
この石碑に関しては今後も調査を進めていきたいと考えています。

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今日も、ツバメ成長中 [自然の恵み]

今日も5羽のツバメのヒナは元気で親ツバメから餌を貰っています。
かなり体も大きくなり、胸には白い毛も現れています。
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(丸々と太った5羽のヒナ達。窮屈そうに身を寄せています。7月9日朝撮影)

でも、ここまで来るまでに今年も色々有りました。
今年の6月26日に4羽のヒナを確認しましたが、その後ヒナが6羽孵った事が7月1日に分かりました。
親が餌を運んでくると、その気配でヒナ達は一斉に大きく嘴を開けて、餌を貰おうとします。
よく見ていると、巣の前列に先に孵ったヒナ4羽が陣取り、後方にまだ成長僅かなヒナが一生懸命首を伸ばして餌を貰おうとしています。が、なかなか餌に有りつけません。
前列のふてぶてしい顔をしたヒナ達は、親が車で巣にもたれてジッと待っていますが、その後方でお腹を空かしたヒナが一生懸命嘴を開け、首を精一杯伸ばして、餌をせがんでいる姿が少し切なく見えました。
その時ある不安がよぎりました。

翌日の朝、その不安が的中しました。玄関の床の上に1羽のヒナが落ちていました。
気が付いたときはまだ小さく動いていましたので、何とかしなくてはと思いました。
実は昨年も1羽のヒナが同じように巣から落ちていたので、すぐ巣に戻しましたが、その後又落ちてしまったのです。
インターネット上には「巣からヒナが落ちて困った、どうすればいいか」と言う書き込みが結構あります。
その中に確かにヒナが落ちた場合戻しても又落ちる、仮の巣を設けてやればヒナの声に親ツバメが気付けば又面倒見てくれる。と有ったので、さっそく小箱を用意して玄関の外灯の上に設置してみたが、親が怪しんで近づかない。翌日箱の中をのぞくとまだヒナが小さく鳴きながら体を動かしていたので、今度は思い切り巣の近くに仮の巣を移して設置してみました。
すると親ツバメは一層警戒して仮の巣に近づきません。落ち着かない様子で辺りを飛び回り、それでも何とか巣の中にいる5羽のヒナには餌を運んでいました。
やはり一度見放されたヒナは助からないのか。
昨年も結果的に4羽のヒナが大きく成長した時は巣が小さく見えました。今年は5羽、今も押し競まんじゅう状態に見えます。
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(昨年、成長した4羽のヒナ、巣が小さく見えます。2018年6月撮影)

一昨年、2017年には巣全体が落ちてしまった事が有りました。この時は箱の中に落ちた巣ごと入れて、玄関の外灯の上に設置しました。
この時は親ツバメもヒナの見放さないで育てて無事5羽が巣立ちました。
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(一昨年、巣全体が落下し、玄関外灯の上に設置した箱で子育てを継続。)
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(広い箱の巣で大きく成長した5羽のヒナ達。2017年7月撮影)

その後仮の巣に親ツバメも慣れたのか、箱の上に止まって休む姿が見られましたが、中のヒナが無事なのか確認するのも不安で、しばらく様子を見る事に。
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(巣の脇に設置した仮の巣にとまる親ツバメ、巣には5羽のヒナが覗く)

7月7日の朝、思い切って仮の巣の中をのぞいてみました。すると不思議なことに箱の中は空っぽになっていました。どうした事なのか、謎が深まりました。
なぜヒナが巣から落ちてしまったのか。
ヒナが誤って巣からのり出して、自ら落下したのか。?
他のヒナ達に追い出されるように落下したのか?
こんなことは無いと考えるが、6羽は多すぎると親の手によって放り出されたのか?
実際今も巣の中はすし詰め状態。6羽だったらどうなったものか。又巣ごと下に落下してしまうのでは。
色々想像してしまいます。
それにしてのヒナの死骸は何所に消えてしまったのか。
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(親ツバメが近づくと、大きく嘴を開けて、えさを求める5羽のヒナ達)

早く5羽揃って巣立って欲しいと思っています。
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