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庭の蝋梅が満開に成りました [草花]

昨夜来の風雨も収まり、昼前にはあっという間に青空が広がりました。
気温も相当上昇している気がします。今、上着を一枚脱いでパソコンに向かっています。
目の前に置いて有る時計に付属されている温度計は、なんと17.8℃を表示しています。

我家の庭の片隅に植えてある、蝋梅の木もこの陽気で、一気に満開に成っています。
数年前は、野鳥に蕾が食べられてしまったのか、全く花を付けない時期が有りましたが、2年前か、NHK趣味の園芸というテレビ番組だったろうか、栃木市内の都賀町大柿の花山で収録された、蝋梅の枝の剪定方法を見て、見よう見まねで手入れをした効果が出てのか、昨年あたりから花が又咲く様になりました。

近づくと、ほんのりと甘い香りが、包んできます。写真ではこの香りは写せませんが、透明感のある黄色い花びら、太陽の光に透かすとキラキラと輝いているようです。

蝋梅2.jpg蝋梅3.jpg
蝋梅1.jpg

今、温度計は18.7℃を表示しています。どこまで上がるのでしょうか。
今年も暖冬。このまま春を迎えてしまうとは思われませんが、野菜が育ちすぎて、値段が平年より20から30パーセントも安くなっていると、新聞に有りました。家計にはありがたいですが、雪が少なくて困っている人達も沢山います。やはり冬は寒く、夏はほどほどに暑い、そんな一年に成れば良いのですが。
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都賀町富張の三宮神社鳥居脇に建つ石碑「電燈紀念碑」 [石碑]

栃木市都賀町の住宅地図を眺めていたところ、富張を流れる赤津川左岸の小丘南端に鎮座する三宮神社境内に、記念碑の地図記号が4つ有るのに気付きました。これは是非行って確認しなければと思い、早速行ってきました。
神社の東側に整備された駐車場が有り、その北端に新しく建てられた石碑が有りました。
確認すると「戦後六十七年富張移り変わりの記録」と題し、1945年(昭和20年)から2011年(平成23年)の間、日本国内で、そして都賀町富張で起こった事柄が、年表状に刻されています。そして最後に「この地に、富張の全てを想う人々の熱意が結集し、関係者の理解と協力の下、記念碑を建立する。」と結んであります。碑陰には、「平成25年11月」の日付けと、記念碑建立 富張寄付賛同者36名の氏名が刻されています。
戦後の移り変わりの碑.jpg
(駐車場に建てられた「戦後六十七年富張移り変わりの記録」と題した石碑)

駐車場に車を止め、参道に向かいます。
三宮神社正面入口.jpg
(三宮神社参道入口)

まず、参道石段登り口の右横に「軍馬紀念碑」と大きく力強い文字で刻された石碑が、碑の光を浴びてドッシリとした感じで建っています。碑表に見られる文字は他に、左端に小さく「栃木石工 山澤常正刻」と有るのみです。
石段の上に「三宮神社」の神額を掲げた石の鳥居が、新年を迎えて新しい注連縄を付けています。
その鳥居の左側にもう一つ石碑が建てられています。碑表に「電燈紀念碑」のこれまた達筆な文字が刻されています。左横に「皆川月堂書」と有ります。石碑の題字を揮毫した人物ですが、特定できませんでした。
軍馬紀念碑.jpg電燈紀念碑全体.jpg
(参道登り口右側、軍馬紀念碑)       (石段の上石の鳥居の左側、電燈紀念碑)

鳥居を潜ってその先の石段を登って行くと、広々とした境内の先に三宮神社の社殿。
石の鳥居.jpg三宮神社社殿.jpg
(新しい注連縄が取り付けられた鳥居)   (杉木立をバックに建つ社殿)

社殿に向かって右手前、境内の隅にもう1基石碑が見えます。近くに寄って確認します。
「都賀町富張鎮座 三宮神社由来」と題し、碑文が刻されています。文末に「平成十七年三月吉日 下野歴史研究会長 熊倉精一」と有りました。熊倉精一さんが著わした文献が何冊か、栃木市の図書館にも収められています。私も今まで何回か拝読しています。
碑文の内容が写真では分かりにくい為、書き写してみました。
三宮神社由来の碑.jpg三宮神社由来の碑(碑文).jpg
(三宮神社由来を刻んだ石碑)              (碑文を書き写しました)

拝殿にて参拝をして更に境内を探索。社殿右側にいくつかの石碑が並んでられられています。確認するとこれらの石碑は明治後期から昭和初期に、百円・二百円と言う高額奉納者に対して、氏子一同が記念して建てたものでした。
高額奉納記念碑.jpg
(高額奉納者に対して氏子一同が謝意を表した記念碑郡)

これらの石碑の中、私が興味を持ったのは、参道石の鳥居脇に建てられた「電燈紀念碑」です。この種の記念碑は栃木市内で以前一度お目に架かっただけです。(外にも有るのかも知れませんが)
それは、大平町富田南西端にあたる、西友田の浅間神社参道入口に建てられた、碑表に「電燈建設記念碑」と刻まれた石碑です。
碑陰には「昭和四年六月八日點火」の文字の外は、関係者の氏名が並んでいます。
電燈建設記念碑(富田).jpg電燈建設記念碑(碑陰).jpg
(大平町富田西友田、浅間神社入口の石碑) (碑陰上端部分に刻まれた点灯の日付け)

碑陰最下段に刻まれた発起人の一人「熊倉吉太郎」と言う人物は、石碑の題字「電燈建設記念碑」の文字を
揮毫していますが、その後、昭和9年(1934)8月1日から、第11代富山村長に成られた人物です。

ただ、この石碑に関してそれ以上の情報が得られなかったので、今回三宮神社参道に建つ「電燈紀念碑」を目にしたときは、ここにも電燈の記念碑が有った事に興味が沸いたのでした。

改めて「電燈紀念碑」の碑陰を確認すると次のように、碑文が刻まれていました。
碑陰上部.jpg碑陰下部.jpg
(碑陰上部、大正十四年十二月の日付け) (碑陰下部、建設委員などの氏名が並ぶ)

碑文を書き写してみました。
碑文.jpg
(実際の文体は写真の通り、漢字とカタカナです。簡体字も使われています)

碑文に有る様に、この石碑は大正14年(1925)12月1日に建立されていますが、これは前年同日に当時赤津村大字富張の地に、初めて電燈が灯った日の、一周年を記念して、電燈の建設に携わった富張1・2区の正副委員長が発起人となり委員の同意を得て、その経緯を石に刻して紀念としたものでした。

現在は当たり前の様に私達の生活の中に溶け込んでいる「電灯」。今の生活は電気無では成り立ちません。平成23年(2011)3月11日に発生した東日本大震災の後、私達は長期間の計画停電を強いられました。3月中旬のまだ朝夕の寒い時期に、暖房機が使えなくなったり、多くの製造現場では機械を動かせず、勤務体制の見直し等に翻弄されました。

今回確認した「電燈」の灯った日を記念して建てられた二つの石碑。大正期から昭和初期ににかけて、栃木市の各地域で同様の動きが起きていたことが、そして多くの人々は電燈が灯った事の喜びが伝わってきます。

もう少し栃木市各地区の電燈の普及状況を見ていきたいと思います。
旧栃木市が発行した栃木市史の内、最初に発行された「目で見る栃木市史」(昭和53年3月31日栃木市発行)を開くと、≪栃木町発展のあゆみ、明治期のまちのようす≫の項に、「大通りみ街燈ともる」と題して
≪明治六年(1873)大通りに三六基の街燈を設置、(中略) それにともなって軒先にガス燈をつける商家も目立ってきた。≫と、記しています。
街灯に浮かび上がる横山郷土館.jpg横山郷土館の旧ガス灯.jpg
(外灯の光で浮かび上がる横山郷土館)(軒先に点灯する外灯は、かつてはガス燈と云う)

この時の街燈の燃料はなんだったのだろうか。昭和27年に発行された「栃木郷土史」(栃木郷土史編さん委員会編)の中にヒントが有った。≪それはカーバイトの器具機材を各自が購入したものであった。≫と。私が学んだ栃木工業高校時代、アセチレンガス溶接作業の実習が有り、機械科実習棟の北側にはアセチレンガス発生装置が有った。カーバイトに水を滴下すると反応してアセチレンガスを発生させる。そのアセチレンガスと酸素を吹管で適宜混合して火口から噴き出す高温の燃焼炎により金属を溶融結合または切断させる。のですが、取り扱いを誤ると逆火して爆発すると言われ、あまり好きな実習では有りませんでした。当時のガス燈はカーバイトからアセチレンガスを発生させ、燃焼させて明かりを得たものだったのでしょう。

上記「目で見る栃木市史」には更に「ガス燈から電灯へ」と題した項が有ります。
≪栃木にガス燈があらわれたのは、日露戦争中自家用として町民の一部に使用されたにはじまるが、その大衆化は明治三十九年(1906)の初夏、ガス会社が設立されてからである。(中略) やがて明治四十四年(1911)下野電力が進出し、電灯がともるようになったのでガス会社は解散した。≫と記しています。
そのページの上部に、「電線路略図(明治43年)」の図面が掲載されていますが、その図に有る会社名は「栃木電氣株式会社」と成っています。

日本で初めての電力会社は現在の「東京電力(株)」の前身で、「東京電燈」で、明治19年(1886)の開業に始まります。栃木県内では、明治26年(1893)10月1日に「日光電力」が、明治35年(1902)1月15日に、「宇都宮電灯」が開業、その後明治40年(1907)9月、これらの2社が合併して、「下野電力」と改称しています。この宇都宮市に本社を置く「下野電力」は、明治41年(1908)栃木町まで架線を設置して供給する計画を立てた。一方栃木町には「利根発電(株)」に直結する「栃木電燈(株)」が望月磯平らによって開設されていた。栃木町では2社が競合する形に成っていた。その利害関係などによる内部事情から確執を起こしたが、「下野電力(株)」が同会社を買収する事によって、栃木町にも送電されるようになりました。明治44年5月のことに成ります。尚、寺尾村は遅れて大正14年(1925)のことに成ります。

大平町はどうだったのか、「大平町誌」には電灯に関する記載は見つけられません。先に紹介した「富山村」の「電燈建設記念碑」の碑陰に刻まれた日付け、「昭和4年6月8日点火」が、確認されます。該当地域は碑陰の関係者の名前欄から、富山村と古橋北坪が確認出来ます。

藤岡町については、「藤岡町史 通史編 後編」に「電気が入る」と言う題が見つかりました。大正6年(1917)≪藤岡町長、「藤岡電気(株)」に電柱設置の為、道路使用許可する命令書を下付している。≫と。又、≪藤岡町の加藤伝蔵と茨城県古河町の「古河電気(株)」との間で「電線路電柱」建設の為の敷地使用に関する契約が取り交わされている。≫などと、記されています。そして電灯が入った時期については、≪大正4年に部屋村大字緑川、5年に藤岡町、6年に部屋村大字新波、赤麻村の西赤麻、7年に部屋村大字部屋・石川・蛭沼、11年に岩舟村からの電線で三鴨村大字太田、11、2年に赤麻村残り全域、12年に三鴨村残り全域≫と記されていました。

都賀町では、「都賀町史 歴史編」に電灯と言う項が有り、富張地区の「電燈紀念碑」碑文の記載が有った。≪富張の三宮神社鳥居の傍らに「電灯記念碑」が在る。帝国電灯株式会社と契約して、大正十三年六月に該地区に電灯が点ったのである。点灯の記念であるが、「電灯記念」としたのも当時の人達が電灯への憧れの強さを示すものであろう。(後略)≫と、記されています。この時の契約相手の「帝国電灯(株)」とは、大正10年(1921)7月16日に先の「下野電灯(株)」を吸収していました。又、点灯した日付けは大正13年12月1日であり、6月は契約を行った時期の誤りです。
更に都賀町史には、≪本町に点灯されたのは大正七年と要覧にあるが、これは、おそらく家中宿坪地区であろう。その後、大正十三、四年ごろになって大柿地区までに及んだものと思うが現在記録が見当たらない。≫と記されています。

「西方町史」には、≪大正6年(1917)西方村内で初めて金崎に電灯がつく。≫と、又、「岩舟町史」には、≪大正5年(1916)電灯が普及する。≫

この様に栃木市内のほとんどの地域が、大正年間に電灯が点っている。ただ、「電燈建設記念碑」の建つ富山村が昭和4年の点灯と有り、予想外に遅れている理由が思い浮かばない。

参考文献:目で見る栃木市史、大平町誌、藤岡町史、都賀町史、西方町史、岩舟町史、
       東京電力三十年史、栃木郷土史、





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山口県横断、マンホールカード収集の旅 [マンホールカード]

1月12日日曜日、山口県岩国市を出発して下関を目指し、途中収集可能なマンホールカードを入手して来ました。
最初の一枚は出発地の岩国市。マンホールカードを配布しているのは、「岩国市観光交流所本家 松がね」です。配布は朝9時からと言うことで、少し錦帯橋観光で時間を潰してから訪れました。アンケートに答えて貴重な1枚をゲット致しました。アンケート記入欄には、全国各地からの収集者が並んでいました。
岩国市松がね.jpg岩国市マンホールカード.jpg
(岩国市のマンホールカード配布場所「本家松がね」)    (岩国市のマンホールカード)

錦帯橋でのんびりし過ぎてしまい、出発は9時40分に成ってしまいました。
次の目的地は「下松市」。移動距離は約50キロメートル、時間を掛けたくない為岩国ICから山陽自動車道を利用して徳山東ICへ。そこから少し戻る感じで下松市の中央公民館を目指します。
カーナビを頼りに目的地へ向かいますが、レンタカーのナビに慣れていないため、道を間違え、目的地を目の前に、周りをグルグル回ってやっとの思いで到着。ここまで1時間以上費やしてしまいました。
下松市図書館.jpg下松市マンホールカード.jpg
(下松市の配布場所、「下松中央公民館」        (下松市第11弾マンホールカード)

下松市のマンホールカードは、第3弾でもう一枚発行されていますが、「下松市上下水道局窓口」が配布場所で、土日等はお休みの為、今回は収集不可でした。
ロス時間が多くなってしまったので、直ぐ次の目的地「防府市」へ出発。ここも距離が約40キロメートル有る為山陽自動車道を利用しました。ところがここでも誤算が有りました。カード配布場所が防府天満宮の参道入口脇に有る為、現地についても道路は渋滞、駐車場も満車状態。仕方なく駐車場が空くのを待って、何とかカードをゲット出来ました。
防府市梅テラス.jpg防府市マンホールカード.jpg
(防府市配布場所、防府天満宮参道脇まちの駅「うめてらす」) (防府市マンホールカード)

次に向かうのは防府市の西隣の山口市です。山口市にはマンホールカードの配布場所が3カ所有るので、東から西方向へ順に収集して行きます。まず最初は山口駅舎内の観光案内所です。
山口駅.jpg山口市1マンホールカード.jpg
(山口市最初は山口駅舎内観光案内所) (山口市第3弾マンホールカード)

山口駅から湯田温泉観光案内所まではわずか3キロメートル程、それでも何故か道が渋滞をしていて20分も掛かってしまいました。湯田温泉は予想していたような温泉郷の雰囲気が全くありません。普通の商店街の様な街並みの中に旅館や観光ホテルが点在をしているのです。
湯田温泉観光案内所.jpg山口市2マンホールカード.jpg
(山口市の2カ所目は湯田温泉観光案内所) (山口市第6弾マンホールカード)

湯田温泉観光案内所の前に足湯が設けてあり、若いカップルが足湯に「名物瓦そば」の幟旗につられて店の中に入ると、お客で一杯です。店前に行列は出来ていませんでしたが、後から結構入って来ていました。
結構人気店だったようです。
熱々に熱せられた陶器瓦の上にそばが盛られてきました。瓦に接しているそばはパリパリに成ってその歯ごたえもいい感じでした。
草々に食事をおわして次の配布場所、新山口駅西口観光案内所に向かうことに。
新山口駅北口観光案内所.jpg山口市3マンホールカード.jpg
(山口市3カ所目は、新山口駅北口観光案内所)  (山口市第4弾マンホールカード)

新山口駅北口はまだ整備されたばかりの様で、駅前の割に閑散としている感じです。
朝から曇りがちの天気でしたが、ここにきて少しポツリポツリと落ちてきました。遅れがちの行程、先が思いやられます。
暗くなる前に九州に渡りたいので、次は一気に下関市へ目標を変えます。
下関市の配布場所は「下関市歴史博物館」、閉館は午後5時ですが、その後関門橋を明るい内に撮影したいのでもうもたもたしていられません。
ところが、こんな時に限って雨足が強くなって、宇部市を通過する辺りでは高速道路の視界も悪くなってしまいました。前途多難です。
雨の山陽自動車道.jpg
(山陽道宇部本線料金所当たり、まだ雨が強く降り続いています。)

埴生ICにて山陽自動車道を下り、国道2号線で下関市長府方面へ向かいます。
国道2号線を走り、下関市に入る頃には雨も上がって、これから向かう方向の西の空が明るくなってきています。最後の目的地「下関市歴史博物館」に着く頃は、青空が空に広がっていました。
下関歴史史料館.jpg下関市マンホールカード.jpg
(下関市のカード配布場所「下関市歴史博物館」)  (下関市マンホールカード)

山口県を横断しながら7種類のマンホールカードをゲット出来ました。

すっかり晴れ上がった空をバックに、関門橋を撮影することが出来ました。
関門橋.jpg
(壇ノ浦パーキングエリアより関門橋を望む)

青空の下、関門橋を渡り、無事本日の宿泊地北九州市小倉に到着できました。
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岩国の錦帯橋で私、新年早々失敗しちゃいました。 [橋梁]

昨年の正月休みに、長崎の眼鏡橋を堪能して来たので、今年は是非日本三大奇橋のひとつ、山口県岩国市の錦帯橋を見に行こうと、昨年の夏から旅行計画を立て、宿泊も錦帯橋近くのホテルに予約を取って先日行ってきました。
が、私を待っていたのは予想もしていない姿の、錦帯橋でした。その姿が次の写真です。
錦帯橋1.jpg
(橋の高欄部分が全体的にシートで覆われてしまった錦帯橋)
ホテルの部屋から錦帯橋.jpg
(錦帯橋が見えるホテルの部屋を取ったのだけれど)

計画していた時はグーグルマップのストリートビューを使って、撮影ポイントをあれこれ検討、上流側の橋から錦帯橋の全体像を狙おうとか、河原に下りて岩国城をバックに収めるとか、夜はライトアップされ暗闇に浮び上がるアーチ橋を写そうかと、あれこれ考えていましたが、全てあきらめました。確認不足でした。

なぜこんな姿に成っているのか、宿泊したホテルの方が説明してくれました。
錦帯橋は木橋の宿命で、鋼橋やコンクリート橋より寿命が短い為、5年毎に定期点検を行っているが、今丁度その時期に当たっている為で、錦帯橋全てに老朽化調査・保全工事用の吊足場を設置、足場部分や橋の側面をシートで覆っているのだそうです。
確認をしたら錦帯橋の左岸橋詰に、工事概要を記した掲示が建てられていました。それによると工期は「令和元年9月9日から令和2年3月16日まで」と成っていました。

気を取り直して周辺観光へ、まずは錦帯橋を渡ります。橋詰のチケット売り場で「入橋券」往復310円を購入して、あこがれの錦帯橋を渡ります。
錦帯橋入橋券.jpg
(錦帯橋入橋券、この写真の様なライトアップされたアーチ橋を撮影したかった)

1985年9月10日に発行された吉田巌編「橋のはなしⅡ」(技報堂出版)に、この錦帯橋について≪錦帯橋 - 城の代わりの橋≫と題して書かれています。一部抜粋させて頂き紹介いたします。
≪山口県岩国市を流れる錦川に、その名のとおり、川を横切る帯のように架かる見事な橋が錦帯橋です。五径間からなり、中央の三径間が、世界でも珍しい木造のアーチ橋になっています。この錦帯橋はいまは岩国城の城門橋ですが、建設当時(1673年)は城は有りませんでした。歴史は1615年(元和元年)の家康の「一国一城令」にまでさかのぼります。この「令」によって岩国城は廃却されていたので、正確な意味での城門橋ではありません。この「令」より58年後、城をおけない岩国藩の「城」というシンボルの代わりに、この錦帯橋が架けられたのです。(後略)≫
錦帯橋2.jpg
(錦帯橋の中央3径間のアーチ橋は勾配が急の為、部分的に階段状に作られていました)

地形図を見ると、錦帯橋の架かる錦川は岩国市を西から東へと流れていますが、かつて岩国城が建てられていた標高200メートル程の山が北側に突き出て地形と成っていた為、錦川はヘアピンカーブの如く大きく迂回して、山の西麓から北麓を巡り東麓に流れています。岩国城はこの錦川を城の三方を守る堀に見立て建てられてもの。廃城となった後も城山の東麓は吉川家代々の居住地となり、錦川の対岸となる「錦見地区」は城下町として開けています。

錦帯橋を渡ると「横山地区」です、かつて藩主や上級武士が住んでいたところで、今も立派な長屋門などが残っています。川沿いの道を歩いていると、銅像やら胸像、石碑などが並んで建てられていますが、その後方に気になる像が目に留まりました。
佐々木小次郎の像.jpg説明碑.jpg

「剣豪佐々木小次郎の像」です。横に据えられた石碑に説明文が記されています。
≪「先祖以来、岩国の住、姓は佐々木とうう、名は小次郎と親からもらい、また剣名を”巖流”ともよぶ人間は、かくゆう私であるが・・・・・」 吉川英治氏の小説「宮本武蔵」の一説である。 当地では、古くから佐々木小次郎が、ここ錦帯橋畔において、柳の枝が燕を打つのを見て、燕返しの剣法「巖流」を自得したと言伝えられている。≫と。そして又その横に、「岩国城」と題した歌の歌碑がたっています。歌詞がこの地を端的に表していると思いました。

岩国城歌碑.jpg
(佐々木小次郎の像の脇に建つ「岩国城」の歌碑)

そこから「吉香公園」周辺をぶらりと歩いていると、園内には多くの石碑が建てられています。
一番目立ったのが、錦帯橋から50メートル程の、公園入口に長裃姿に大刀を差し、右手に扇子を持ち錦帯橋の方向をジッと見つめる「吉川広嘉公像」です。
吉川広喜公像.jpg錦帯橋記全景.jpg
(「吉川広嘉公像」 左後方に写る石碑が「錦帯橋記」です)(「錦帯橋記」と篆額に有る石碑)

台座の裏側に銅像の人物に付いて説明されてます。冒頭部分だけ紹介します。
≪錦帯橋の創建者吉川広嘉公は旧岩国藩主三代目の領主で1621年第二代藩主広正公の長男として生まれた その天性の聡明さは岩国城を築き岩国の町を開いた藩祖広家公譲りのようである。(後略)≫

その銅像の左後方に見える玉垣をめぐらした石碑が「錦帯橋記」、弘化2年3月(1845年4月)岩国藩士の儒学者「玉乃九華」(名を惇成という)が撰した文を、明治8年9月明治前期の書家「桂洲伊藤信平」が碑文と篆額を書いています。
錦帯橋記(碑文).jpg
(「錦帯橋記」の篆額の文字と碑文を書き写しました)

江戸時代の儒学者が記した文書で、私には読み解く事が出来ませんが、一字一字漢字を拾って読んで行くと何となく内容が分かってきます。しかし読み下し文を書く力は有りません。

園内に建つ他の石碑も見てみます。
さくらの名所100選の碑.jpg日中友好の碑.jpg
(さくら名所100選の地「吉香公園・錦帯橋」)  (「日中友好の架け橋-錦帯橋」の碑)

さくらの名所らしく、吉香公園も錦帯橋の右岸堤も沢山の桜の木、さぞかし桜の咲く時期は見ごたえのある錦帯橋が見られるのだろう、出来ればもう一度桜の咲くころに訪れて見たいものです。
「日中友好の架け橋-錦帯橋」の碑は、中国語・英語・日本語の三ヶ国語で記されています。
日本文を見ると、2004年11月6日、岩国市と杭州市の交流促進のために錦帯橋友好協定が締結された事。なぜ杭州市なのか、それが1673年に創建された錦帯橋の架橋に、杭州市出身の高僧であり医師でもあった独立(どくりゅう)の存在が有っと伝えられている事などが記されています。

今回、残念ながら日本の代表的な名所として、「山は富士、滝は那智、橋は錦帯」と、並び賞される、その橋の優雅さを見る事は叶いませんでしたが、メンティナンス中の時期に来たことで、錦帯橋に対する岩国市民の、錦帯橋に対する強い愛情を知る事が出来た気がします。





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今年、最初に巡る石碑は「夢の実現」です [石碑]

2020年の始まりは、例年通りに元日の神明宮への初詣。毎年ほぼ同じ時間に行くと、ほぼ同じような参拝者の行列。神前で「今年一年健康で有りますよう」祈願してきました。
二日・三日はテレビ桟敷で箱根駅伝を見て過ごしました。そしてあっという間にいつもの生活に戻ってしまいましたが、炬燵からなかなか抜け出る事が出来ず、ブログの更新も出来ずに、今日まで来ました。
今日、いくらか暖かくなったので、パソコンの前に座った次第です。

今年最初のテーマは、前々から調べていた、「夢の実現」と碑の前面に大きく刻された石碑を巡ります。
この石碑が建っているのは、栃木市藤岡町甲の本郷東、市道1073号線の道路の脇に成ります。
石碑「夢の実現」.jpg
(栃木市藤岡町甲の本郷東に建つ「夢の実現」の石碑)

私がこの石碑を初めて確認したのは、2014年11月20日、渡良瀬川の支流のひとつ蓮花川を、渡良瀬川との合流点から遡る形で、川岸を歩いていた時です。

蓮花川と上記の市道1073号線とが交差する点に架かる「十三橋」の上から北西方向に向かう道路が、坂を登った先に、何やら胸像と共に建つ石碑を、手持ちのカメラで目一杯ズームアップして確認したものです。
蓮花川銘板.jpg十三橋銘板.jpg
(市道1073号線の蓮花川に架かる「十三橋」の銘板)

石碑の表面には、中央に大きく「夢の実現」も文字が彫られています。右側上部には「農業構造改善竣工紀念」、そして左側下部に「理事長関塚茂七書」の文字。
碑陰を見ると、上側半分に碑文、下半分には関係者の名前が並んで彫られています。
石碑の正面.jpg石碑の碑文.jpg
(石碑表面)              (碑陰上半分に彫られた碑文)

今、この石碑の建つ高台から南東の方角を望むと、水田地帯が広がっています。更にその先を見ると道路は坂を登っています。地形図を見ると石碑の建つこの場所は標高20メートルの等高線が通っています。そしてこちら側藤岡町甲の本郷東周辺は、標高25メートルの高台に成っています。又、蓮花川を渡った反対側の高台となる藤岡町大前の国造西周辺の標高も25メートル程に成ってます。その間の低地に水田が広がりその中央部分を、蓮花川が北から南に大きく蛇行して流れています。川の流れる水田地帯はかつては唯木谷津と称される低湿地帯で、現在でも標高16メートルと成っています。
唯木谷津.jpg
(石碑の前から南東方向を写す。中央の水田地帯を左から右に蓮花川が流れる)

「藤岡町史資料編近現代」第Ⅱ部「石に刻まれた歴史」には、この石碑に関する解説が有ります。
≪町道大前・新井線の只木谷津に臨む路傍に建つ「農業改善竣工記念碑」(1971年)である。「夢の実現」と刻まれているように、長年蓮華川の洪水に悩まされた只木谷津約百町歩の干拓事業は、この周辺の農家の夢であった。昭和22年のカスリン台風によって農耕が不可能になった後、同23年度の県営排水事業による新堀排水機場の整備の開始から、同46年の換地登記に至るまでの経緯を記し、「永年の夢の実現を喜び盛大なる完工式を挙行」してこの記念碑を建立したと結んでいる≫と、記しています。

石碑の前に建てられた胸像は、石碑の題字「夢の実現」を揮毫された当時の第一土地改良区の理事長「関塚茂七」氏で、眼下に広がった唯木谷津の水田地帯を見守っています。
胸像を据えた台座の裏面には、「関塚茂七翁を讃う」として、翁の略歴と功績とが刻まれています。
関塚茂七胸像.jpg胸像碑文.jpg
(関塚茂七翁之像)              (台座裏面「関塚茂七翁を讃う」の碑文)

胸像の背中部分には、「関塚茂七翁像 昭和三十二年丁十月 佐伯留守夫」と刻まれています。
又、台座の下部には発起人や建設委員等、34名の氏名が並んでいます。
台座下部2.jpg台座下部1.jpg
(胸像台座下部左側部分)                (胸像台座下部右側部分)

又、「関塚茂七翁之像」に向かって、右後ろにもう一基小さな石碑が建てられています。この石碑がどうも私には理解出来ない、多くの疑問が有るのです。
まづ石碑の表面には、「関塚茂七翁胸像 移転竣工記念 平成七年五月吉日」と有り、その下側に関係者の役職名と名前23名が並んで刻まれています。
山合新堀水閘1.jpg
(「関塚茂七翁之像」の右後方に建つ、少し小さな石碑表面)
これだけを見る限りでは、隣の胸像は元は別の場所に建てられていたものを、この地に移転竣工したのを記念して建てられた石碑と単純に解釈出来ます。
が、その石碑の後ろ面を見ると、その裏面には上側に「山合新堀水閘」と、そして下側には「明治三十六年十月建設 設計者 栃木縣技師工學士井上次郎 監督者 栃木縣土木工■ 伊藤千城 功七等 栗林長策」
と刻まれています。 (■部分の文字は判読出来ませんでした)
山合新堀水閘2.jpg山合新堀水閘3.jpg
(碑陰上部:山合新堀水閘)           (碑陰下部:建設年月・設計者・監督者)

使用されている漢字を見ると「栃木縣」とか「工學士」「功七等」と、平成に成って刻まれた文字とは考えにくい、「明治三十六年十月建設」と彫られた日付けから考えて、元々有った石碑を利用したものと考えたい。

碑陰上部に刻まれた「山合新堀水閘」とは何なのだろうか。関塚清蔵著「蓮花川」(昭和58年4月6日・全国農村教育協会発行)の中で、≪明治時代になると高取堤の決壊は無くなり、この部分から唯木沼に入る洪水の被害は無くなった。しかし今度は、渡良瀬川の洪水時には、赤麻沼から新堀を逆流して、唯木沼周辺の耕地が冠水する被害が出てきた。とくに明治二三年(1890)以降は、渡良瀬川の洪水時には、足尾銅山の鉱毒を含んだ水が入りこんで被害を大きくした。そこで山合の関塚清作、関塚千代作等が発起人となり、蓮花川の逆流を防ぐ目的で、明治三六年一〇月に山合新堀水閘を完成させた。≫と記しています。
そして又、水閘の有った位置については、≪この県道は最近まで、明治36年に作られた山合新堀水閘の上をとおっていて、水閘の横には旧排水機場があった。昭和56年に蓮花川の河川改良工事により、水閘も排水機場も撤去され、新しい新堀橋が完成した。この橋の南側の県道傍に関塚茂七氏の胸像が建っている。≫とも、記されていました。ここで言う県道とは現在の市道1070号線(旧県道栃木藤岡線)の事です。
この書籍「蓮花川」が発行された頃は、「関塚茂七翁之像」は現在の場所では無く、こちらの「新堀橋」の南橋詰に建てられていたものを、平成7年5月に移転した事など、全ての疑問が解消されました。
平成5年頃新堀橋.jpg
(かつて「山合新堀水閘」が有った、蓮花川に架かる市道1070号線の新堀橋。)

※参考にした文献:
  ① 「藤岡町史 資料編 近現代」 藤岡町史編さん委員会 藤岡町発行
  ② 「蓮花川 郷土の歴史と農業の発達」 関塚清蔵著 全国農村教育協会発行


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