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三杉川の橋巡り② [栃木市の河川と橋]

前回に引き続き三杉川を下り、架けられている橋を見ていきます。
今回の最初の橋は、「谷津橋」になります。
前回最後の「榊橋」を潜り抜けた三杉川の流れは、その後も東北自動車道の北側に沿って西に向かって流れて行き、字中山から字田代に変わった所で東北自動車道の高架橋「田代橋」を抜け、東北自動車道の南側に流れを変え、その先で4番目の橋「谷津橋」に至ります。
4谷津橋.jpg4谷津橋橋名板.jpg
(谷津橋、前方奥に東北自動車道のアンダー、その向こう側に主要地方道栃木佐野線)

渡る道路は市道61007号線で、この道路は主要地方道栃木佐野線から字田代にて南に入る道路。曲がって直ぐ東北自動車道のアンダーを潜り、三杉川の「谷津橋」を渡り、三杉川の支流「羽田川」に沿って、字羽田から字広戸へと、太平連山の馬不入山の北麓の沢深く入って行きます。
羽田川の源流となる馬不入山(うまいらずさん)の北麓の柳沢には、都賀郡出身の世界的偉人、天台座主第三世となった「慈覚大師円仁」の史跡のひとつ、独鈷水御堂が有ります。今回そこまで足を伸ばしてみました。
独鈷水御堂への入口.jpg独鈷水御堂.jpg
(慈覚大師円仁ゆかりの史跡「独鈷水御堂」入口)(柳沢の奥高台にある「独鈷水御堂)

ここに参るのは7年ぶりになります。このブログにて2015年1月7日「独鈷水御堂」として紹介をしています。
久しぶりで周辺の山肌には、太陽光発電施設のパネルが並び、以前とは少し趣が変わった気がしました。
太陽光発電用パネルが並ぶ.jpg

寄り道をしたついでに、羽田川に架かる橋で、名前が確認できた橋を上流側から載せておきます。
羽田川.jpg羽田橋.jpg
(羽田川に架かる羽田橋)

大芝原橋.jpg大芝原橋橋名板.jpg
(大芝原橋)

羽田農道橋.jpg羽田川農道橋銘板.jpg
(羽田川農道橋)

川入橋.jpg川入橋銘板.jpg
(川入橋)

三杉川に戻って来ました。羽田川との合流点の直ぐ下流に東北自動車道の高架橋が迫っています。
三杉川と羽田川の合流点.jpg東北自動車道高架橋「川入橋」.jpg
(左側の三杉川に右側から羽田川が合流)(合流点の直ぐ下流で東北自動車道を潜る)

三杉川の5番目に架かる橋は丁度東北自動車道の高架橋の下側に隠れる様に架かっている「川原田橋」です。
5川原田橋.jpg5川原田橋2.jpg
(東北自動車道の真下に架かる「川原田橋」) (下流側から見た川原田橋、手前の堰は「水神堰」)
地形図にてこの橋の存在を確認出来るものが一枚有りました。昭和40年3月国土地理院発行の2万5千分1の「栃木」の地形図です。(前回も記しましたが、この地域を最初に確認出来るものです。5万分の1スケールの地図は有りますが、詳細内容は記載されていません。)
この地図で三杉川の上流から橋の地図記号が記載されているものを列挙すると、「境橋」「榊橋」「谷津橋」そしてここ「川原田橋」と確認出来ます。
昭和44年4月に修正された地形図が発行されますが、その中には多くの橋の地図記号が省略されてしまって、県道に架かる「境橋」だけ地図記号が残っているだけで、ここ「川原田橋」は、三杉川の線と道路の線がただ交差して表示されているだけとなっています。「谷津橋」も「榊橋」もしかり。
その次に発行された、昭和49年11月発行の地図は「東北自動車道」が表示された為、「川原田橋」はその陰に隠れて地図上からは忘れ去られる橋と成りました。

三杉川はここまで太平連山の北麓に沿う形で西流してきましたが、この辺りからその流れをゆっくりと南に向きを変えて行きます。太平連山がここで切れた為です。こうして太平連山の西端を回り込み、その後しばらくは三毳山の方向へ南流していきます。
前回に引き続き今回も説明用の概略図を作ってみました。文章の未熟なところを少し補いたいと思います。
三杉川上流域概略図2.jpg

三杉川が字中妻にて流れを西から南に変えると同様、東北自動車道も三杉川に沿って南に方向を変えています。又、同じように県道も南に向きを変えていますが、しかし元々県道はもう少し先まで西に向かい、村檜神社や慈覚大師円仁が少年時代に勉学修行に励んだと言う大慈寺の前まで行ってから、南に方向を変えていました。
葛生町に向かう県道が交差する十字路も以前は丁字路で南へ抜ける道路は、昭和59年1月発行の地形図に初めて描かれています。又、新しく三杉川の右岸に沿って南に進むバイパス道路は平成25年8月発行の地形図で現れています。
三杉川、6番目の橋は「中妻南橋」です。その名の通り字中妻の南部に位置します。
6中妻南橋.jpg6中妻南橋銘板.jpg
(6番目の「中妻南橋」)         (橋桁の橋銘板、2003年11月の竣功)

この「中妻南橋」は、葛生町から藤坂峠を越えてきた道路が、小野寺交差点を真っ直ぐに県道を横切った道路が三杉川を渡る場所に架けられた橋になります。この道路は橋を渡った後、東北自動車道のアンダーを抜けた後、東北自動車道の東側側道の形で、南進をしていきます。
現在架かる橋は、2003年(平成15年)11月です。最初の橋はその道路の状況から、東北自動車道の建設と合わせて作られたと考えられますので、1972年には有ったと考えます。
ただ地形図の図暦を比較して見ていくと、現在の架橋位置とは違ったようで、新しいバイパス道路の建設に伴い架橋場所が変えられたと考えられます。

橋ひとつ見ても、その地域の開発過程を窺い知ることが出来、面白いものです。
今回もあちらこちらと、寄り道をしてしまい、巡った橋は又3橋だけでした。次回から少しペースを上げて行きたいと思います。
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久しぶりに栃木市内の橋を巡ります [栃木市の河川と橋]

久しぶりに栃木市内の河川に架かる橋を、見て回りたいと思います。
今回巡るのは「三杉川」です。
「三杉川」は現在の大きくなった栃木市の西端、岩舟町小野寺を縦断する様に流れる河川で、その下流域は佐野市との境界を成しています。最終的には佐野市高山町と栃木市藤岡町都賀との境界付近で、渡良瀬川左岸に合流しています。
この「三杉川」の源流は、小野口町に有る「あさひヶ丘カントリークラブ」と、岩舟町小野寺に有る「桃里カントリー倶楽部」との間辺りの沢水を集めたもので、この川筋がかつては栃木市と岩舟町の境となっていました。
三杉川源流.jpg
<写真右の山が小野口町、左が小野寺で、三杉川はこの山合から流れ出ています。ガードレールの付いた道路は主要地方道栃木佐野線です。>

この三杉川が最初に潜る橋は、主要地方道栃木佐野線が通る橋で、その橋名はかつてが架橋場所境界線で有った事から、「境橋」と命名されています。合併前はこの橋の橋詰に「栃木市」「岩舟町」と記した道路案内標識が立てられていました。
1境橋.jpg1境橋銘板.jpg

橋を抜けたすぐ先で、左岸から小河川が合流しています。この水路は東方向に有る「廻峠」の南方、太平連山の最高峰「晃石山」北麓に有る、「エヴァンタイユゴルフクラブ」周辺の沢水を集めた「八幡沢」になります。読み方は「はちめざわ」と、国土地理院2万5千分の1の地形図に記されています。

三杉川はこの後道路から離れて行き、南側をほぼ平行に走る「東北自動車道」との間で、多少蛇行しながら西流していきます。

次の橋は「山中橋」で、県道から南に折れて、高速道路のアンダーへ向かう脇道(市道61006号線)に架かっています。
この橋の名前は、その地域の字名「山中」から命名されています。
2山中橋.jpg2山中橋橋名板1.jpg2山中橋橋名板2.jpg
「山中橋」を渡り、高速道路のアンダーを抜けた先の林道沿いに数軒の家屋が建っていますが、ここの住民の姓は全て「山中姓」となっています。

高速道路のアンダーの通路の脇に水路が有り、山中橋の直ぐ脇に落ちています。梅ヶ入沢に成ります。
梅ヶ入沢を遡って見ます。アンダーを抜けた先の細い道路(市道61006号線)を進んでいきます。
梅ヶ入沢1.jpg梅ヶ入沢2.jpg
<梅ヶ入沢からの水が流れるアンダー内の水路。写真手前で三杉川に落ちる。>

暫らく行くと沢に架けられた橋が現れました。ガードレール型の高欄に橋名板が付けられています。「竜胆郷橋」と有ります。
竜胆郷橋.jpg竜胆郷橋橋名板.jpg

この辺は竜胆(りんどう)の群生地でも有るのでしょうか、辺りに人気が無かったので、聞くことが出来ませんでした。橋の先に1軒人家が有りましたが、その先は「林道山中広戸線」と言う事で、広戸に抜けられるのでしょうが、今回はここで引き返し、三杉川に戻る事にします。

山中橋の下流85メートルの所に、高欄の無い単純桁橋が架かっています。「榊橋」です。この橋名も現地の字名を採って命名したものでしょう。橋長6メートル、幅員3メートル程の小さい橋です。
3榊橋.jpg
何の表示も無いので何時架けられたものかは不明です。そこで国土地理院発行の地形図の図暦をたどってみました。
国土地理院の2万5千分1の地形図で、三杉川上流域は「栃木」の区域に入り、一番古い物は昭和40年3月の発行になります。(それ以前にも発行された地図が有りますが、何故か画面の左半分が空白状態となっています。国土地理院の発行窓口にお聞きしたところ「はっきりした事はわからない」という回答でした。)
地形図を見ると現在の場所に橋の地図記号が描かれています。
ただ先に見た山中橋はまだなく、県道から山中橋に真っ直ぐ通っていた道路もまだ有りません。地形図には山中橋の袂で三杉川に合流している「梅ヶ入沢」の川筋は描かれ、沢の脇に建つ人家も出ており、その家に向かう道路は「榊橋」を渡り、三杉川の左岸沿いの道を「梅ヶ入沢」の合流部まで遡り、沢沿いの道で沢に向かって行くルートになります。言葉では説明が下手なので概略図を用意しました。
三杉川上流域概略図.jpg
①東北自動車道が開通したのは、1972年(昭和47年)11月13日の為、昭和40年発行の地図には当然描かれていません。
②山中橋の竣工時期は、1993年(平成5年)5月です。県道から山中橋へ向かう道路はその時期に開通したものと思われます。地形図に道路が現れたのは1997年(平成9年)5月発行の物からです。

ちなみに最初の「境橋」が竣功したのは、銘板から1992年3月ですが、これは新しく架け替えられた物で、昭和40年3月発行の地形図にも当該地点に橋の地図記号を見る事が出来ます。

今回は上流から3橋しか巡ることが出来ませんでした。次回も三杉川を下って行きます。
三杉川はこの後も主要地方道栃木佐野線と東北自動車道との間を西流して、「田代」にて東北自動車道の高架橋「田代橋」を潜って、東北自動車道の南側に流れを変えます。そこで市道61007号線が通る「谷津橋」を潜りますのでそこにコマを進めます。
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太平山南麓の大中寺に春を求めて [自然の恵み]

ここの所厳しい寒さが続いていましたが、昨日の大寒を越した今日は朝から青空が広がり、寒さも少し和らいだようで、昼間少し出かけてみました。
栃木市大平町西山田の大中寺です、久しぶりに訪れました。
大中寺は太平山の丁度南麓に当たり、その山懐の中に有る為か北風や西風から守られ、南からの太陽の光を集めて、晴れた日は冬でも暖かな場所に有ります。

参道入口に有る広い駐車場に入ると驚きです。太平山のハイキングを楽しむ人たちのものでしょうか、沢山の車が止められています。やっと駐車場の一番奥に1台分のスペースを見つけることが出来ました。

参道の両側には背の高い杉が聳え、その奥に山門、更にその奥に本堂の大きな屋根が見えます。
大中寺参道.jpg大中寺山門越しに境内を望む.jpg

先ずは本堂前まで登り、お参りをしてから境内を散策。大中寺は七不思議で有名なので、先ず一通り見て回った後、本堂前方の境内に咲く蝋梅を写真に収ました。ほぼ満開の状態で、黄色の透き通るような花びらが光を浴びて輝いていました。
大中寺の蠟梅1.jpg大中寺の蠟梅2.jpg
その蝋梅の横に咲く白梅は、まだ蕾が多かったですが、それでも可憐な白い花びらを開いている枝も見られました。
大中寺の白梅1.jpg
大中寺の白梅2.jpg大中寺の白梅3.jpg

まだまだ寒い日が続くでしょうが、それでも確実に春は直ぐ近くまでやって来ています。もすこしの辛抱です。
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正月休み、ひとりコマを回す

今日は1月4日、月曜日。一般的には仕事始めの日に成りますが、今年は新型コロナ感染増加防止の為に、追加して連休にする企業が多いと聞きます。でも、会社や学校が休みであっても、不要不急の外出は控えて静かな年末年始を送って下さいとの要請で、初詣等で神社仏閣に訪れる人は例年の3割前後だったようです。
私も正月三が日は外出する事も無く、家で過ごしました。暇を持て余していたので、家に有った和独楽を持ち出して、独楽回しに挑戦してみました。「独楽」、まさに一人で楽しむとは良くつけた名前です。
始めは思う様に紐を巻くことも出来ず、とても回して楽しむ状態ではありませんでした。それでもあきらめずに何回もトライして行くうちに、次第に綺麗に巻ける様になって来ました。綺麗に巻けると、独楽の回りも良くなって来て、回り方も次第に安定して力強く回転する様になって来ます。
上手く回せると、段々楽しくなって、独楽にマジックで色付けしたり、色気も出て来てもっと難しい技に挑戦してみたくなって来ました。乞うご期待。
独楽あそび1.jpg独楽あそび3.jpg
独楽あそび2.jpg独楽あそび4.jpg

独楽回しなどは、今から60年程前、子供の頃にチョッと遊んだ経験が有るだけ。それも不器用な私は、上手く回すことが出来ず、直ぐに飽きて放り出していました。
それでも、子供の頃は学校の冬休みは、色んな遊びをしました。「お正月」という童謡唱歌に出てくる遊び、凧揚げや独楽回しは冬休みの男子の定番遊び。
特に凧揚げは冷たい北風の吹く日、近所の男子が田んぼに集まって、どこまで高く上げられるか競争をしたものです。独楽回しは、和独楽では無く、ベーゴマが主流だったと思います。
ベーゴマで遊ぶ(昭和40年頃).jpg
(ベーゴマで遊ぶ子供達、昭和40年頃撮影)
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境内に石造りの牛像が祀られている、栃木市大平町牛久の牛来寺 [堂々巡り]

今日、2021年(令和三年)の新しい年が明けました。我家はこの年末年始は喪中の為、正月飾りもせず毎年恒例の家族そろっての初詣も、年賀状の楽しみも有りません。新型コロナの感染拡大は収まる気配も無く、昨日はこれまでの数値を大幅に上回り、日本全国で4,519人の感染者が確認されたと読売新聞一面に載っていました。。
遠くにいる息子には、帰省させませんでした。そんな訳で正月の団欒も無いので、この冬は居間の炬燵も造りませんでした。今日は一日中、テレビを見、新聞を読んで、外出する事も無く静かに一日を過ごしました。
そんな中、目を通していた「よみうりタイムス・栃木南部版」の1面に<今年は丑年 朝日森天満宮「なで牛」>の記事が出ていました。
朝日森天満宮は、栃木市の西隣、佐野市に祀られている神社です。私も昨年の梅の咲く時期に参拝をして、記事に載っていた「なで牛」を撫でて来ました。
朝日森天満宮社殿.jpg朝日森天満宮なで牛.jpg
(佐野市・朝日森天満宮社殿)           (朝日森天満宮境内にある「なで牛」)

我が栃木市における丑年に関わるものが無いかと、思いを巡らすと、牛の石造を境内にお祀りしている寺院が浮かんできました。大平町牛久の「牛来寺」です。
この「牛来寺」に関しては、すでに2015年6月4日に、このブログ「巴波川日記」に書きましたが、何故か海外からわけのわからない文字でコメントが入ってきてしまうので、公開を遮断していました。
今回丑年と言う事で、その後の話題も追加して、ここに再度公開をする事にしました。

1年半ぶりに牛来寺を参拝して来ました。
「牛来寺」(ごらいじ)は栃木市大平町牛久、県道153号線(南小林栃木線)、栃木市沼和田町から南に進み大平町牛久に入ると、道路右側に雷電神社のこんもりとした森が見えてきます。牛来寺はそのすぐ先です。道路左側に駐車場が有ります。車を停めて中に進みますとお寺の入口正面に出ます。こちらにも駐車場が有ります。本堂の鮮やかな朱色が目に飛び込んできます。
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入口左側に建つ石柱正面に「栃木県指定文化財 薬師如来」、石柱右側面には「慈覚大師霊跡」そして左側面には、牛来寺の由緒が刻まれております。
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右側には、大きく「薬師瑠璃光如来」と刻まれた石碑が建っております。1969年に撮影をした私の写真にも、薬師堂の手前にこの石碑が写っております。
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(1969年に私が撮影した牛来寺薬師堂)

石碑の後ろに石に掘られた牛が座ってくつろいでおります。横の説明板に「御法の牛」と有って「自分のからだの悪い所をなでてから、牛の同じところをなでると病がよくなり、じゃけんな心も消えて豊かな暮らしが出来るようになると云われています」と、記されています。 私も最近動きの悪くなった右肩をなでさせてもらいました。
牛来寺の御法の牛.jpg
(栃木市大平町牛久、牛来寺の「御法の牛」)

本堂(薬師堂)にて参拝を済ませ、境内の中を散策させてもらいました。
牛来寺は正式には、「医王山光明院牛来寺」と号する、天台宗の寺院です。
私のブログにても2014年10月14日に「都賀三十三薬師霊場巡礼③」の中で紹介をしていますが、第十一番札所となっております。
ご詠歌を記した立札が有りました。「願えただ我もじゃけんの角折りて 牛さえ法に引かれくる身を」
牛来寺5.jpg
先ほどの御法の牛の説明文、そしてこのご詠歌の中にも出ている言葉「じゃけん」とは、どのような意味なのでしょうか、調べてみました。仏教用語≪五見・十惑の一、因果の理法を否定する誤った考え≫と有り、更に分からなくなりました。一般的には、正しくない見解、よこしまな考え。で何とか納得しました。
牛来寺の由緒は、≪嘉祥三年庚午(850)、聖の慈覚大師さま蓮華まだらの牛に乗り、諸国巡行のその折りに、九十九曲りや牛の跡、その頃この地で悪病が、流行忌く人数知れず、嘆き悲しむ人多く、さながら地獄の様のごと、大師沐浴咒穣すれば、衆病あまねく痊愉せり、薬師如来のお加護ぞと、邑人こぞって信奉す、梵想のお告げで大師さま、この地に一寺を建立し、薬師如来を安置して、衆生済度を誓願す、三界衆生のともがらは、万病除きて楽を得る、日光闇を照らさるる、月光煩悩掃わるる、後の仏の御世までも、慈悲の守りをたれ給う。≫牛来寺の資料より抜粋し掲載。七五調の文で読みやすくなっています。

本堂に向かって左側に、二つの擬宝珠が置かれています。小さい方は明治二十一年に倒壊して再建されなかった観音堂の屋根に有った物と言う。ここ牛来寺は「都賀三十三観音霊場・第二十三番札所」でも有ったのです。本尊の聖観世音菩薩は、現在本堂に合祀されています。
牛来寺6.jpg牛来寺7.jpg
大きい方の擬宝珠は、旧本堂の屋根に有った物で平成十二年の増改修で新しい屋根に葺き替えた時、外され保存されています。1969年撮影の薬師堂の屋根は向拝が有りません。平成の改修の際に向拝が加えられ、又旧堂宇の両側にそれぞれ一間分が増築されているのが分かります、元の堂宇の柱は円柱の部分になります。
牛来寺1.jpg

牛来寺鐘楼の梵鐘には、天台宗の寺院に行くと、必ずと言っていいほど目にするお言葉「一隅を照らす これすなわち国宝なり」の文字が陽鋳されています。
牛来寺鐘楼.jpg牛来寺梵鐘1.jpg
(牛来寺の鐘楼)                  (梵鐘縦帯に「照千一隅此則国宝」の文字)
このお言葉の由来について、令和3年の「天台こよみ」の「一隅を照らす -本当の宝物ー」の記事の中に載っておりましたので、抜粋し紹介をさせて頂きます。
<この天台宗のシンボルともいえる「一隅を照らす」という言葉は、宗祖大師が比叡山(山家)における僧侶(学生)の育成方針を示した「山家学生式」のお言葉、  国宝とは何物ぞ 宝とは道心なり・・・・・・ 径寸(大きな宝石)十枚 これは国宝にあらず 一隅を照らす これすなわち国宝なり  に由来します。>

本堂裏手に6基の石仏が並んでいます。一番右側は「念佛百万遍供養塔」で、享保六年(1721)の建立。他は十九夜供養塔になります。紀念銘を見ると、享保十三年(1728)や天明七年(1787)など、江戸時代中期の物が多いです。
牛来寺8.jpg
境内は説明の立札も多く、見ていて良く理解する事が出来ました。

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