SSブログ

皇居一般参観にて、二重橋を渡って来ました。 [橋梁]

今日、梅雨の中休み、雲の間から青空も覗く、蒸し暑い夏日となりました。事前申し込みにて午後の部の一般参観が可能となり、初めて皇居内を見て歩く事となりました。
午前中は宮殿東側に広がる、「皇居東御苑」内を見学して、午後の一般参観に備えました。
集合時間に合わせて、皇居一般参観の入場口となる「桔梗門」前に向かいました。
桔梗堀.jpg
(手前が桔梗濠と南東角に聳える「二重櫓」。左手奥に「桔梗門」を望む。)
この「二重櫓」は、「桜田櫓」とも、「巽(たつみ)櫓」とも言われています。
江戸時代には、ここ「桔梗濠」より「和田倉濠」・「道三濠」を通り、日本橋の下を抜けて、隅田川に通じていました。
桔梗門1.jpg
(桔梗門です。この門は「内桜田門」とも言われています。門構造は桝形となっています。)
「和田倉門」側から皇居に向かい、「桔梗濠」の南側沿いを「蛤濠」との境に有る「桔梗門」前で、宮内庁職員の方より通行証を受取り、後について「桔梗門」を潜り、皇居の中に入りました。
桔梗門2.jpg桔梗門3.jpg
(前方正面の高麗門の先に四角に囲われた桝形広場)(広場右手の渡櫓門を潜ります。)
本日は事前に手続きを済ませた人と、当日受付の人と合わせて400名を超える参観者となりました。入口にて手荷物検査を受け、「桔梗門」の東側に建つ、「窓明館」において参観者全員の入場手続きが済むまで休憩して、参観開始まで待つ事になりました。
午後2時近くに参観開始となりました。「窓明館」を出て、「富士見櫓」の方向に移動します。右手奥に現在の国会議事堂のモデルになった建物と言われている、「元枢密院庁舎」を見る事が出来ました。又、左側桔梗門北側側面となる石垣の石の表面に、薩摩藩島津家家紋の丸に十の字の印を、確認する事が出来ました。よく見ると他の石にも色々な形や文字の様な印が付けられている事も、確認できます。
桔梗門4.jpg旧枢密院庁舎1.jpg
(左側石垣の石表面の丸十字紋の印)     (右手奥に見える、元枢密院庁舎)
道に沿って少し左方向に進むと、右手正面に「富士見櫓」が現れます。この「富士見櫓」は、旧江戸城本丸で現存する唯一の櫓で、遺構の中では最も古いものに属するといわれます。三重櫓で、石垣の高さは約14.9メートル、櫓の高さ約15.5メートル。何処から見ても美しく見えるところから、「八方正面の櫓」とも呼ばれています。「富士見櫓」の脇を通り、「蛤濠」と「蓮池濠」との間の道を進んで行くと、正面に宮内庁庁舎が見えてきます。昭和10年(1935)に建築された建物で、戦後昭和27年(1952)10月から昭和44年(1969)3月までの間、三階を仮宮殿として使用していました。
富士見櫓1.jpg宮内庁庁舎1.jpg
(富士見櫓と参観者)              (宮内庁庁舎)
宮内庁庁舎前を通り抜けると、新年(1月2日)及び天皇誕生日(12月23日)に一般参賀が行われる、広々とした「宮殿東庭」の北側の端に至ります。「宮殿東庭」の西側に昭和43年(1968)に完成した鉄筋コンクリート造りの宮殿が建てられています。庭に面して南北に約160メートルもの長い棟を見せているのが「長和殿」です。「長和殿」前のこの広場には2万人もの人が入る事が出来ると言います。又この地下には120台の駐車場が造られているそうです。
宮殿長和殿前1.jpg
(長和殿の前、宮殿東庭において説明を聞く)
広い宮殿東庭を北から南に抜けると、いよいよ「二重橋」を渡る事になります。参観コースはこの二重橋を渡った橋の南詰にて、Uターンして再度二重橋を渡り、宮殿東庭に戻る事になります。
正面鉄橋1.jpg正面鉄橋2.jpg
(宮殿東庭の南端門の先に二重橋高欄を望む)(二重橋の上に出ると皇居正面入口が見える)
「二重橋」の現在の正式名称は、「正面鉄橋」と言うそうです。
普通私達が観光等で訪れて、皇居外苑側から見る「二重橋」は、皇居正門前に架かる石橋の奥に見える鉄製の橋ですが、以前の私はこの手前の石橋の事を「二重橋」と思い込んでいました。
正面石橋1.jpg
(2001年1月、皇居を訪れた時撮影した、普段見る事の出来る姿の「正面石橋」)
「正面石橋」は、明治20年12月に木の橋から石造りの橋に、奥の「正面鉄橋」は明治21年10月に、木の橋から鉄の橋に架け替えられました。
正面鉄橋6.jpg正面石橋3.jpg
(1969年8月撮影、皇居正面鉄橋)         (1969年8月撮影、皇居正面石橋)

石橋の設計は、当時皇居御造営事務局の技師であった久米民之助、欄干の装飾は同じく河合浩蔵によるものです。石は岡山産大島花崗岩。橋の渡り35.3メートル、幅12.8メートル、円弧のアーチを二つ並べた眼鏡橋の形に設計されています。
正面石橋2.jpg
(正面石橋の後方に聳える「伏見櫓」とその間に見えにくいですが「正面鉄橋」が有ります。)
石橋の男柱石の上に設置されている現在の青銅鋳造飾電燈6基は、昭和61年9月に鋳型を取って新しく鋳造されたものです。長年使われてきた以前の飾電燈の1基が、東御苑に設置されています。
正面石橋の旧飾電燈1.jpg
(東御苑内に設置されている、正面石橋の旧飾電燈)

江戸城においては、これらの木橋は「西の丸大手門」及び「西の丸下乗橋」と呼ばれました。「二重橋」の名前は、その架橋された所の濠が深く、橋桁を二重に組んであった事に依ると伝えられています。現在の「正面鉄橋」は、昭和39年3月、新宮殿の工事に際して架け替えられたものです。
正面鉄橋3.jpg
(「正面鉄橋」の中ほどからの眺め。「正面石橋」の先に皇居外苑の緑、奥に丸の内ビル群)
正面鉄橋4.jpg
(「正面石橋」 このアングルからは滅多に見る事は出来ません。)
伏見櫓1.jpg正面鉄橋5.jpg
(正面石橋南詰からの伏見櫓)                  (正面石橋南橋詰の飾電燈)

少し暑かったですが、7月としては天候に恵まれ、初めての「皇居一般参観」を十分に楽しむことが出来ました。休憩所となった「窓明館」の売店で、菊の御紋の入ったカステラと皇居のしおりを土産に買いました。
皇居記念スタンプ.jpg
(皇居参観記念スタンプ押してきました)

伝説が造らせた橋物語、結城「みかつきはし」 [橋梁]

今日、栃木のお隣の県茨城県の結城市に「歴史探索ウォーク」に参加して来ました。
栃木市からは、JR両毛線にて小山へ、更に小山からはJR水戸線に乗り換えて、二駅目が結城駅です。
栃木駅発9時6分発の電車に乗り込むと、小山駅にて14分間の乗り換え待ち合わせ時間が有るものの、9時40分には目的の結城駅に到着しました。
結城の駅前で、今日一日結城の街を案内して下さる観光ボランティアガイドの方が出迎えて下さいました。私は結城の街を訪れるのは初めてです。
栃木市と結城市は、室町時代に遡ると、栃木の街をつくった皆川氏の先祖と、結城氏は小山氏と共に兄弟関係に有りました。武蔵国太田氏の出で、下野国小山に移住し小山氏を名乗った小山政光を父親として、小山氏を継いだ長男「朝政」、下野国芳賀郡長沼に住み、長沼氏を称した次男「宗政」、そして下総国結城に住み結城氏の祖となった三男「朝光」です。ここで長沼氏の子孫が長沼荘から、下野国皆川荘(現栃木市)に移住し、皆川氏を称したのでした。

ガイドをして下さったボランティアの男性は、案内のベテランで、前もって予定されたコースを計画通りの時間で進行され、説明の内容も非常に広く深くて、関心をする事ばかりでした。
弘経寺1.jpg弘経寺2.jpg
(ガイドさん一押しの寺院、七堂伽藍が残る弘経寺「ぐぎょうじ」の表門)
結城の街は、城下町の顔を持ち、街中には多くの寺院が有り、見世蔵や造り酒屋など、時代を感じさせる建物が、街のいたる所で出合う事が出来ます。
結城街1.jpg結城街2.jpg
(見世蔵の並ぶ結城の街並)             (造り酒屋の土蔵)
あちらこちら案内を受けましたが、「橋好き」の私が食いついた話は結城の街の北東部に有る、「城跡歴史公園」の南に下がる道の途中に架る、親柱に「みかつきはし」の橋名を付けた石造りの橋に関した説明でした。
三日月橋1.jpg三日月橋2.jpg
(城跡歴史公園の南側に見える石造りの橋)    (橋の親柱に「みかつきはし」の橋名板)
ガイドさんの説明に依ると、この石橋には「結城埋蔵金伝説」に関係する話が存在します。まずその埋蔵金伝説から話が始まりました。「結城埋蔵金伝説」は日本三大埋蔵金の一つとして知られています。豊臣秀吉の埋蔵金・徳川幕府の埋蔵金そして、ここ結城の埋蔵金の伝説に成るそうです。結城の埋蔵金は、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした時、平泉の黄金財宝を持ち帰って、鎌倉への帰国の途中、頼朝に従い手柄を立てた結城家初代の朝光の館に立ち寄った。その際持ち帰った黄金財宝を朝光に預けたのか、与えたのか。その辺の説明はハッキリ覚えていません。そんな埋蔵金伝説に対してそれから多くの人が、その埋蔵金を求めて発掘を行っていると言います。そして大正時代の事、大掛かりな発掘が行われ、この辺り一帯を掘り起こしたと言います。しかし結果、埋蔵金を発見する事が出来なかったそうですが、その発掘の痕がこのような堀の様になってしまった為、ここに橋を架けたものだそうです。反対側の親柱には「大正六年十二月吉日竣工」とこの橋が完成した日付が付いています。

埋蔵金を発見できなかったにもかかわらず、後始末に立派な石橋を架けていった、夢追う発掘人の、太っ腹な行動に関心する石橋でした。

那珂川に架かる土木遺産の境橋 [橋梁]

昨日、那須烏山市の那珂川に架かる境橋を見に行って来ました。数日前に読売新聞栃木版に「近代化遺産を巡ろう」と言うタイトルの下に、モノトーンの朝靄の中に白く輝くアーチ橋、てまえの川面には小舟が2隻、何とも美しい風景の写真が掲載され、私の目を引き付けました。写真には「土木学会が選んだ土木遺産の境橋=那須烏山市提供」と添えられていました。
珍しい橋となると、じっとして居られません。まして栃木県内の事、実際に行って見てみたいと思い、昨日行って来たものです。
那須烏山方面は結構出かけた事が有りますが、国道294号線で通過するのがほとんどです。今回の目的地の那須烏山市の宮原と大沢とを繋ぐ、境橋は市街地より東へ向かい、那珂川の流れが天狗のお面の鼻の形の様に大きく蛇行している、丁度その鼻の先端部分で那珂川を渡る県道29号線に架かっている橋に成ります。
途中右手に折れて行く県道12号線の先に、白く高くそびえ立つ斜張橋「烏山大橋」の塔が見えます。そこを横目に目的地の境橋に向かいます。
目の前に「境橋」が見えて来ました。その境橋の西詰で県道から左に入る細い道路に入ります。道の角に「烏山町青少年野外活動広場入口」の立て看板が有りました。細い道を進むと那珂川の河川敷きに出ます。車が数台止まっていました。私も車を停め那珂川の川岸へ行くと、下流方向に目的の「境橋」を下から橋全体を見る事が出来ます。
境橋(那珂川)1.jpg
(境橋の上流側、那珂川右岸の川の流れの直ぐ脇から撮影)
ドッシリとして重厚な鉄筋コンクリート製、その力強さの中にも華やかで美しい曲線を持つ、三連アーチ橋が那珂川の上に架かっています。
境橋(那珂川)2.jpg
(二本の橋脚の上部高欄部に丸く突き出したバルコニー)
次に車を移動して橋を渡り、境橋の東詰に一寸した空き地が有ったのでその場に車を停め、橋の上を歩く事にしました。
境橋(那珂川)5.jpg境橋(那珂川)6.jpg
(橋西詰の親柱に刻まれた橋名、右側がひらがなで「さかひばし」、左側が漢字で「境橋」)
丁度車を停めた場所に、一本の記念碑が建てられていました。そこには「那須烏山市の近代化遺産」と題して、境橋についての説明が記載されています。説明文を転載させて頂きます。
境橋(那珂川)3.jpg境橋(那珂川)4.jpg
(橋の東詰に建てられた記念碑。下側に土木遺産認定書を写した石版が埋め込まれている。)
≪境橋は、主要地方道常陸太田那須烏山線の那珂川に架けられた橋長112.5m・幅員6.1mの上路式RCオープンスパンドレルアーチ橋です。現在の橋は3代目で、初代は明治30年に舟橋が、2代目は大正9年に洋式木橋が架けられましたが、度重なる洪水による被害への対応から永久橋への架け替えが昭和10年の第39回通常県議会で決議されました。設計者は、関東大震災後の帝都復興局橋梁課長として隅田川橋梁群の設計・積算や、美橋として知られる聖橋など百数十橋を手がけた当時における橋梁設計者の第一人者・成瀬勝武です。橋脚上には半円形のバルコニーが設けられるなど意匠性と希少性に富み、また、那珂川屈指の景勝地に調和した優美な景観から、平成19年度土木学会選奨土木遺産にも認定されています。≫
橋の上は自動車も頻繁に通過しますが、バルコニーに入る事で、安全にゆっくりと下を流れる那珂川の流れと周囲に広がる山々の紅葉とを堪能する事が出来ました。
境橋(那珂川)7.jpg境橋(那珂川)8.jpg
(橋の欄干から突き出たバルコニー、ここからゆっくり風景を眺めることが出来る。)
境橋(那珂川)9.jpg境橋(那珂川)10.jpg
(境橋から上流側の那珂川の様子)     (境橋から下流側那珂川の流れ)

秋深まる塩原渓谷へ [橋梁]

先日、インターネットを見ていた時、「口コミで選ぶ 日本の橋ランキング」と言う記事が目に留まりました。記事の頭にエメラルド色の海の向こうの島に伸びる橋梁の写真が目を引いたからです。
記事は≪世界最大の旅行口コミサイトの日本法人トリップアドバイザー株式会社が発表した。≫として、ベスト30の橋梁名とその所在都道府県名が載っていました。
掲載されていた写真は1位の角島大橋(山口県)でした。興味が有るのは我が栃木県の橋梁はどうかという事です。見てみると、27位に「回顧の吊橋」そして29位に「七ツ岩吊橋」の2橋が栃木県としてランクインしていました。
2橋とも吊橋ですが、調べてみると両方とも、那須塩原市の塩原温泉郷の中を流れている箒川に架かるものでした。丁度紅葉も見頃という事で、今日ドライブを兼ねて行って見て来ました。
東北自動車道で「西那須野塩原IC」まで行き、国道400号線で塩原温泉郷へ向かいました。初めに一番手前の「回顧の吊橋」をみようと、近くの駐車場に入りましたが満車状態だったので、ここは後回しにして次の「七ツ岩吊橋」へ向かいましたが、その途中道路脇に「留春の吊橋」「留春の滝」の案内板の立つ駐車場が空いていたので、急遽予定を変更して「留春の吊橋」を見る事にしました。
留春の滝1.jpg留春の滝吊橋1.jpg
(留春の滝)                (留春の吊橋、右岸上流側から撮影)
次に予定をしていた「七ツ岩吊橋」です。ここも国道400号線脇の「塩原温泉ビジターセンター」の駐車場に車を置いて歩く事1・2分で吊橋に着きました。
塩原七ツ岩吊り橋1.jpg
(29位にランクされた「七ツ岩吊橋」、左岸上流側より撮影)
「七ツ岩吊橋」は2001年3月に竣工した、「下路式ダブルワーレン補剛吊橋」と言う形式です。橋長は87m、幅員は1.5m。吊橋の塔柱は右岸側のみで、左岸側はコンクリート製のガッシリとした親柱に吊橋の主索の一方を支持する方式で、私は初めて見る形の吊橋です。
塩原七ツ岩吊り橋3.jpg塩原七ツ岩吊り橋2.jpg
(親柱に取り付けられた銘板)          (吊橋の左岸橋詰より撮影)
橋詰から下を流れる箒川の左岸を少し上流に歩き、塩原渓谷の紅葉を撮影しました。
箒川(塩原渓谷)1.jpg
(七ツ岩吊橋上流部の箒川の流れ)
次は、ビジターセンターで入手した観光パンフに、「紅の吊橋」が10分ほどで行けると載っていたので、早速向かいました。「紅の吊橋」は塩原温泉郷の街中「塩原もの語り館」の直ぐ裏手に有りました。
紅の吊橋1.jpg
(紅の吊橋、右岸橋詰より撮影)
「紅の吊橋」と命名する通り、橋の周辺は紅葉が鮮やかで、見応えが有りました。
最期は、来るとき見られなかった「回顧の吊橋」に向かいました。太陽が西の山に沈むころに成ってしまい、駐車場はガラガラに成っていました。渓谷へ降りる険しい階段状の道を注意しながら急ぎ足で降りると、途中で太陽が山の陰に入ってしまいました。それほど長い距離でなかったので、吊橋の近くに有った「回顧の滝」の写真も撮影できました。
回顧の吊橋1.jpg回顧の滝1.jpg
(回顧の吊橋、右岸側より)     (回顧の滝、吊橋を渡った右岸側より撮影)
回顧の吊橋2.jpg箒川(塩原渓谷)2.jpg
(橋の銘板)               (回顧の吊橋上より下流側を撮影)
吊橋近くに有った説明板によると、「回顧(みかえり)の吊橋」≪吊橋にかかる重さ(橋自体の重さと乗っている人間の重さ)は、主索と呼ばれるケーブルによって支えられています。回顧の吊橋の主索の直径は4cmで、橋に体重55kgの大人が360人乗っても耐える力を持っています。≫と有りました。チョッと信じ難い数値の様に思えました。渡っていると結構揺れて、2・3人でも落ちるのではと不安になりました。
今日は吊橋三昧の一日でした。

日本で一番大きい煉瓦アーチ橋「碓氷第三橋梁」を見て来ました。 [橋梁]

標高が900メートル程有り結構高いので、紅葉もそろそろ良いのではと思い国道18号線を走り碓氷峠の手前で見る事が出来る、旧信越本線の碓氷川に架かる煉瓦造りのアーチ橋「碓氷第三橋梁」を見に行って来ました。(ちなみに、JR日光駅付近の標高は534m、華厳の滝駐車場付近は1282mです。)
しかし紅葉はまだ少し早かった感じです。山の上の方が色付き始めて来たところです。
最近、長野方面に行くときはもっぱら「上信越自動車道」を利用してしまう為、碓氷峠を越える事はまず無くなっていましたので、本当に久々の碓氷峠でした。
上信越自動車道の松井田妙義ICで一般道に下り、国道18号で横川から碓氷峠に向かいました。碓氷バイパスとの分岐から5km、10分足らずで道路右側に目的の「碓氷第三橋梁」が姿を現します。
碓氷第三橋梁1.jpg
(国道脇から見た「碓氷第三橋梁」)
橋から300m程行った所に有る駐車場に車を置いて、橋の所に戻ります。
国道18号線から橋の上まで歩いて登り、橋の上に乗ることが出来ます。
「碓氷第三橋梁」の説明板が登り口に建てられています。
碓氷第三橋梁2.jpg
※説明板の内容を写してみました。
      旧信越本線の碓氷第三アーチ
   1.建 設 明治二十五年十二月竣工
   2.設計者 イギリス人、パゥネル技師
           日本人、 古川晴一技師
   3.構  造 煉瓦造、アーチ橋
           (径間数四、長さ八十七.七メートル)
   4.建設してからのあゆみ
     碓氷の峻険をこえるため、「ドイツ」の「ハルツ山鉄道」のアプト式を採用して
     横川、軽井沢間が明治二十四年から二十六年にかけて建設されました。
     その、こう配は1000分の66.7という国鉄最急こう配です。
     これを昭和三十八年九月、速度改良の為新線の完成と同時に使用禁止
     となりました。このアーチ橋は廃止になった構造物の中で最大のものです。
     すぐれた技術と芸術的な美しさは今なおその威容を残しております。
     ここに往時を偲ぶ記念物として、その業績を長くたたえたいものです。
         昭和四十五年一月一日
                    高崎鉄道管理局
                    松井田町教育委員会
碓氷第三橋梁5.jpg
下から見上げると、その大きさが一層迫ってくる感じです。残念ながら私は信越本線を利用した事が有りませんので、国鉄最急勾配のアプト式列車に乗車した経験が有りません。
現在、アプト式は大井川鉄道にて1000分の90という勾配で運行されていると聞きます。今度乗ってみようと思います。
碓氷第三橋梁3.jpg碓氷第三橋梁4.jpg
(5号トンネル側より碓氷第三橋梁を撮影)
横川駅から元熊ノ平駅の間は遊歩道「アプトの道」として歩いて散策できると言うので、「碓氷第三橋梁」から「熊ノ平」間を歩いて来ました。


群馬県高崎市を流れる烏川の佐野橋 [橋梁]

先日(2015年10月4日)、読売新聞栃木版の「わが街空から」水辺編の記事が目に留まりました。群馬県高崎市に有る「佐野橋」について書かれていたからです。
佐野橋1.jpg
(佐野橋右岸下流側から撮影。奥に上越・信越新幹線の高架橋)
紙面の上半分のスペースに、「佐野橋」全体を上空から撮影した写真が掲載され、下半分に「佐野橋」にまつわる興味深い記事が載っています。
以前、橋に関する本を読んでいる中で「佐野の舟橋」と言うものが書かれていました、栃木の人間としては「佐野」と言うと、お隣の「佐野市」の事と決めつけてしまいますが、この「佐野の舟橋」は万葉集の東歌に収録されている、≪上毛野 佐野の舟橋取り放し 親は離くれど 吾は離るがへ≫と詠われている様に、群馬県に有ったものと今回改めて知る事が出来ました。
佐野橋3.jpg
(佐野橋左岸橋詰付近より撮影。背後に上毛の山並みが霞んでいます。)
かなり以前に読んだ本でしたが、改めて引っ張り出して読み直しました。岩波新書「橋と日本人」(上田 篤著)です。その中の「うきはし」の部分、挿絵に葛飾北斎・諸国名橋奇覧「かうつけ佐野ふなはしの古づ」の浮世絵が使われています。
川の両岸に杭を打ち、綱を渡して50余隻の小舟を並べて繋ぎ、上に板を置いて人馬がその上を渡って行く様子が描かれています。舟橋は中央部が川の流れで押される様を誇張してか、「く」の字に曲げて描かれています。ここにも「かうつけ」(群馬県)と記されています。
≪世阿弥はこの歌を元に「舟橋」と言う能をつくった。≫と有ります。「橋と日本人」より抜粋させて頂きます。
≪ある旅僧が上州佐野にやってくると、フナバシをかけて橋供養をしている若い男女にあう。かれらは、親が橋板を外したために川底に沈んでうかばれないまま「邪淫の鬼」となった男女の亡霊である。とうじ、人が川で死んだときは、舟に鳥をのせて鳥が鳴いたところの川底に死骸がある、といいつたえられていた。しかし、その死骸もみつけられないままに成仏できない二人なのだ。そこでつぎのような歌が詠まれる。
東路の 佐野の舟橋鳥は無し 鐘こそ響け夕暮れの空
ここで、「取り放し」が「鳥は無し」によみかえられている。その一句をいわば掛詞として、フナバシも非情さがうたいあげられたこれは古作の能である。≫
又、上毛新聞社発行の「群馬の川」の中に、「烏川にまつわる伝説」としてやはりこの「佐野の舟橋」が掲載されています。
≪烏川にかかるこの舟橋を隔てて両側に長者がいた。佐野村の長者は「朝日の長者」といい、また一方の長者は「夕日の長者」といった。朝日の長者には一人の息男があり、夕日の長者には一人の息女があったが、両方とも一人息、一人娘であった。≫ストーリーはこの美男美女の二人が、舟橋の上で出逢い、互いに慕い合う仲となって行きます。しかし二人の親達はもともと仲が良くなかったので、二人の仲を裂くために、この舟橋を切って落としてしまった。逢う事が出来なくなった二人は、毎日川の両岸に立って苦しみ、ついに二人は烏川に身を投げてしまうと言う悲恋物語です。この「佐野の舟橋」については類似した話も伝えれれているという事です。
烏川1.jpg
(佐野橋の橋上より烏川下流方向を撮影。長閑な川の風景が広がります。)
現在の「佐野橋」は当然舟橋では無く、鋼鉄製の橋脚が並んでいます。欄干と橋床は木製ですが、橋桁は鋼製と木製の部分が混ざっている様です。全長121メートル、幅2.15メートルとなっていますが、橋詰はコンクリートのガードが造られ更に幅が絞られています。人や自転車は通行可ですが、軽自動車以上は不可となっています。今日も犬を連れた散歩の人や、学校帰りの生徒が自転車で渡っています。
佐野橋4.jpg
(佐野橋東詰より撮影。幅員1.4mの標識が立つ)
群馬県高崎市を流れる「烏川(からすがわ)」に架けられた「佐野橋」は右岸の佐野窪町と左岸の上佐野町を繋いでいる生活道路のようです。
今回私は右岸の佐野窪町側から現地に入りましたが、田畑や河川敷が広がり思うように目標に向かうことが出来ませんでした。田圃の中の道路脇に車を置いて、歩き回り幸い散歩をしていた方に教えて頂き「佐野橋」にたどり着くことが出来ました。「佐野橋」の直ぐ上流側には「上信電鉄線」の「烏川橋梁」が架かっています。
佐野橋2.jpg
(佐野橋の上流、上信電鉄の鉄橋の上をカラフルな電車が走っていました。)
烏川の左岸には立派なマンションも建てられています。高崎駅も近い為付近にはアパートも多く建てれれています。一方右岸は河川敷や田畑が広がる長閑な田園風景が残っています。もうすぐ西の山脈に夕陽が沈もうとしています。急いで家路につきました。