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「帝室技藝員畫伯草雲田崎翁墓」が建つ西方町真名子、梅樹谷(真上) [石碑]

栃木市の北域、西方町真名子に真上と称する地区が有ります。
この「真上」と言う地区は、真名子の一番西の端、赤津川の支流で都賀町大柿の中央を西から東に流れる逆川を遡っていき、都賀町大柿北西域の野上を抜けた北隣に当たります。
都賀町と西方町との境界点から、300メートル程北上すると、分岐が現れます。ここまで走って来た道路は市道1009号線、この分岐を右に曲がって行く方が市道1009号線となり、この分岐から更に直進する道路は市道2006号線となります。先月8月20日に「栃木市道1009号線、都賀町大柿中郷に建つ石碑」と題したブログにて、この市道2006号線は山に向かって登って行くと砕石工場に行き当たり、その先は工場の私有地に入って行く雰囲気で、道路が行き止まりの様に書きましたが、それに対してそのブログを読んで下さった方からコメントが有り、この道路その先も有り工場を抜けると更に林道が続き、最終的には鹿沼市立粟野中学校付近で、県道17号(鹿沼足尾線)に行き着くようで、実際にその道路を走られた写真を載せたブログを教えて頂きました。ただその様子は道路上に倒木や落石の跡などが見られ、簡単には通過できない感じです。そのブログを書いた方は自転車でその林道を踏破した様で、なかなかの冒険家と言った感じが覗われました。
話を戻します、その市道2006号線を1200メートル程進んだ道脇に一本の木製の道標が建てられています。ただ表記がかすれてしまいハッキリ読み取ることが出来ません。車を止めてよく確認すると、「田崎草雲墓地」と書かれています。
道標.jpg墓地への道.jpg
(墓地入口道路脇に建つ標柱) (墓地は逆川に架かった橋を渡った先を右へ)

車を道路の脇に寄せて止め、見学する事にします。
田崎草雲の墓地は道路脇を並行して流れている逆川に架かる小さな橋を渡った先を右手の坂道を登った所に有るようです。橋を渡った所に墓地への道案内と「草雲先生について」と題した、西方村教育委員会と西方村文化財保護委員会とが、昭和五十九年九月十九日に建てた案内板が有りました。
案内標識.jpg早雲先生の説明板.jpg
(橋を渡った前方に建てられた案内表示)   (「草雲先生について」の説明板も)

そこから坂を少し登ると前方に数基の墓石が目に入ってきます。が、その手前に道路を遮る3本の細い電線が有ります。この周辺はシカやイノシシそしてクマなどの出没で、田畑が荒らされる為、多くの田畑の周囲には電気を流した電気柵が設置されています。
ここから先に進めません、あきらめて道路まで戻った時、近くの畑で雑草を草刈り機で刈ってる人が見えたので、声を掛けて「電気柵で田崎草雲の墓まで行くことが出来ない」事を話すと、電線にフックが有るからそれを外して通ることが出来ると教えて頂けました。
確かに電線に取っ手が付いていて、そこを持ってフックを外すことが出来ました。無事に電気柵を抜けて墓地の元へ。
入口の電気柵.jpg田崎早雲墓地.jpg
(墓地への道を遮る電気柵)         (田崎草雲墓地の標柱の後ろが田崎翁の墓)

「西方村指定史跡 田崎草雲墓地」と記した標柱の奥に、「帝室技藝員畫伯草雲田崎翁墓」と大きく陰刻された墓石が有りました。  

私が「田崎草雲」の存在を知ったのは、今から45年前に遡ります。昭和49年(1974)4月に足利市を訪れ「足利学校」や「鑁阿寺」などと共に「草雲美術館」を見学した時です。
早雲美術館1.jpg早雲美術館(1974年4月).jpg
(「足利市草雲美術館」1974年4月撮影)

そしてその後、市内の書店で「画聖田崎草雲」と題する荒川敏雄著(アポロン社)を見つけ購入蔵書としました。今回改めて読み直し、田崎草雲の生涯を追いました。
そしてなぜ足利を中心に活躍した人物の墓が、この真名子の山奥に有るのか納得できました。その部分を抜粋させていただきます。
≪少年のころ父常蔵に一度連れて行かれたことのある野州真名子(現在の栃木県上都賀郡西方村真名子)の羽山家を訪ねた。草雲の祖父は羽山家から江戸の田崎家へムコ養子に入り足利藩に仕えた。つまり羽山家は草雲の宗家であった。≫この本が発行されたのは昭和47年5月20日ですが、現在「野州真名子」は栃木市西方町真名子と変わっています。
田崎草雲20歳から21歳の事でした。13歳の時に母親が亡くなり、継母との間には溝が深まって行った。17歳で花鳥画で頭角を現し、18歳の時「草雲」と改名、両刀を捨てて画道に生きる事を決意した。ついに20歳の夏敢然として脱藩し、ひとり遊歴の旅に出た。その頃のことに成ります。

墓地入口に建てられた「草雲先生について」の文中、≪先生は恩義ある真名子をこよなく愛し梅樹谷(真上)に幾度か足を運び家族と談笑し往時を追懐したり、後年足利の白石山房にて多くの門人を育成し明治31年9月1日84歳をもって永眠さる。遺言により此の地梅樹谷に分骨し墓碑を建立し之を祀る≫と、記されています。

田崎草雲翁の墓碑は祖父の出身である、羽山家の墓地の向かって右隣に建てられています。
再び荒川敏雄著「画聖田崎草雲」の「病床日誌」より、≪明治31年(1898)7月10日、真名子村の羽山謙吉氏来房、翁、川島平五郎氏ら三名で、翁の先祖の墓碑建立を相談す。碑銘は次の通り。
  聴真院釈蓮居士     文化九季壬申正月十日  田崎甚内
  能生院釈尼妙蓮大姉  文化二季亡卯六月七日  同   妻
             明治三十一年季成戌七月  田崎 芸 建之 ≫ 

田崎草雲翁墓碑.jpg先祖の墓碑.jpg
(田崎草雲翁の墓碑)              (草雲建之の先祖の墓碑)

栃木市の北域、梅樹谷(真上)にひっそりと建つ画聖田崎草雲翁とその先祖の墓碑でした。
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太平山あじさい坂駐車場入口脇に建つ「射撃場建設記念」の碑 [石碑]

栃木市の中心から太平山へ一直線に登る県道269号(太平山公園線)。その終点、あじさい坂登り口の手前右手にある「あじさい坂駐車場」。この駐車場の入口右脇に1基の石碑が建てられています。
「市営あじさい坂駐車場」は無料休憩所や公衆トイレもあり良く整備されていてます。あじさい祭開催期間中は有料になりますが、通常は無料で利用できます。駐車場に車を止めて石碑を見学します。
1太平山六角堂前駐車場.jpg県道269号標識.jpg
(県道269号の終点、あじさい坂登り口付近、お食事処「福松家」さんの先に駐車場)

太平山麓射撃場建設記念1.jpg
(あじさい坂駐車場入口右脇、石垣の上に建つ石碑)

駐車場入口脇、石垣の上に建つ石碑、下側部分は雑草で隠れて読むことが出来ません。碑陰に回り込んでみると、小さな文字で大勢の方の名前が並んで彫られています。
その右端に少し大きな字で「栃木懸猟友會下都賀支部」でしょうか、下の方がやはり雑草に隠れてしまっています。
石碑正面全体.jpg碑陰.jpg
(石碑正面、下側が雑草で隠れて読めません) (碑陰には大勢の人の名前が並んでいます)

石碑正面上部の篆額に篆書体文字で「太平山麓」と陽刻されています。その下石碑右側に「昭和三十年」まで読めます。その下には「十一月」とまで写った写真が私のアルバムに残っていました。
そして石碑の中央には、「射撃場建設記念」と力強い文字が陰刻されています。
篆額部分.jpg石碑正面.jpg
(篆額部分、「太平山麓」と陽刻されています)(石碑正面中央に、「射撃場建設記念」)

左側には「第七代栃木市長」の文字下側は雑木に隠れて見えません。
栃木市役所のホームページで歴代市長を調べてみると、「7代 栃木理一」で就任1951年(昭和26年)4月24日、退任1955年(昭和30年)1月25日と記されています。
石碑の日付けは昭和30年11月と成っていますから、すでに退任されていることに。
昭和55年(昭和30年)3月16日付で、大島定吉氏が第8代栃木市長に就任をしています。石碑の建立に向けて多少の時間的ずれが生じていたようです。

碑陰に並んでいる人達の名前を確認できる範囲で書き写してみました。やはり石碑下部が下草に隠れて見えませんでしたので。
射撃場建設記念碑(碑陰表示内容書き写し).jpg
(碑陰に刻されている文字を書き写しました)

栃木市地区・寺尾地区・吹上地区を始め、壬生地区・小野寺地区・豊田地区・寒川地区など、かつての下都賀郡内各地区ごとの猟友会会員や役員の名前がぎっしりと記されています。

昭和46年8月25日発行の「栃木市政だより」の記事の中に、「昭和46年度狩猟者(初心者向)講習会のお知らせと言うものが載っています。その記事の中に、実技の場所として「栃木市平井町697の4、狩猟会下都賀支部射撃場」と記載されていました。

私がまだ子供の頃、太平山に遊びに行ったとき、この射撃場から聞こえる銃声に引かれて、射撃場内を覗いた経験が有ります。猟銃を持った大人の人達が、銃を構え、合図をするとどこからか的が飛び出して行く。その的を見事に撃ち落とすのを目撃したのです。

射撃場と言えば猟銃が必要ですが、かつて栃木市には「オリン晃電社」と言う猟銃の製造会社が有りました。私が中学生の頃栃木市街地を撮影した写真の中に、その当時5階建のビルがまだ珍しい昭和40年・41年の晃電社ビルが写っているものが有りました。
1965年3月大通り1.jpg元晃電社ビル(1966年4月).jpg
(昭和40年3月撮影、大通り奥の高いビルが晃電社)(昭和41年4月撮影、第一銀行奥が晃電社)

1986年度版のゼンリン住宅地図でビルの建っている場所を確認すると、表記には≪NIKKOゴルフ銃砲 (株)晃電社 5F≫と成っていました。
私が上の写真を撮影した1965年頃、近所に晃電社で通訳の仕事をしているという人が、引っ越してきました。通訳と言う言葉に子供心にすごい人が来たと思った記憶が有ります。
その当時オリン晃電社は、日本屈指の銃器製造メーカーだったと言います。20歳代の頃にはオリン晃電社に勤めている友人もおりました。
もちろん現在は「オリン晃電社」も「晃電社ビル」も有りません。このビルの跡地は現在「万町ポケットパーク」と成っています。

そして、太平山麓の射撃場も、いつの間にか姿を消し、その射撃場跡も今は駐車場となり、昔の面影は全く残っておりません。

では、射撃場はどうなったのでしょうか、今、栃木市尻内町から国道293号を通って都賀町大柿方面に進むと、都賀カンツリー倶楽部の手前に、「NIKKO SHOOTING RANGE」と記した大きな看板が建っています。和訳すれば「ニッコー射撃場」となります。そこで国道から北側に入る坂道を登って行くと、突然銃声音が飛び込んできました。そのまま進んでいくと、広い駐車場に多くの車が止まっていて、多くの猟銃を持った人達が、崖に向かって飛んでゆく的を撃ち落としている風景が広がっていました。
ニッコー射撃場1.jpg
ニッコー射撃場2.jpg
(ニッコー射撃場では休日、多くの方が射撃の訓練をしていました)

私の子供の頃は、街中で空気銃を打っている人を見かけましたが、今は規制が厳しくなりました。それでも私が勤務していた会社では狩猟を趣味にしていた人が結構居て、「解禁になったぞ」など話しているのを耳にしていました。リタイヤーした現在はそうした外の情報が入らなくなってしまいました。
それでも、最近テレビニュースなどで、クマやイノシシが出没して被害が発生、地元の猟友会の方が出動したなどと、良く聞く様になりました。

1基の石碑を調べているうちに、昔の記憶が色々と思い出されたり、現在の射撃場の様子を知ることが出来ました。
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栃木市道1009号線、都賀町大柿中郷に建つ石碑 [石碑]

今回の石碑は、栃木市道1009号線の道路脇に建てられています。と言っても、市道1009号線が何所なのか分からないと思いますので説明しますと、都賀町大柿を通過する国道293号を「大柿十字路」から西走すると、道路右手に野の花自然園「花之江の郷」、そこを通過すると右手に分岐する道路が現れます。この右手の細い道路が国道293号の旧道に成り、現在はこの分岐点を起点に市道1009号線と成っています。ここから逆川に沿って西走すると信号機のある丁字路が有りますが、市道1009号線はそのまま直進します。旧国道はここを左折していました。以前は直進方向には「この先行き止まり」の案内が有った記憶が有りますが現在は見当たりません。直進した先に「ハーモニーヒルズゴルフクラブ」への入口が出来た為でしょうか。丁字路をそのまま直進、ゴルフ場の入口を通過すると道路右側に薬師堂が現れます。
薬師堂.jpg
(信号機の有る丁字路から600m、道路脇に建つ薬師堂。西側から撮影)

その先200mで逆川に架かる「中郷橋」を渡り更に250m進むと道路が少し北方向に向きを変えます、今回紹介する石碑はこの道路が方向を変える地点に建てられています。
石碑の建つ場所.jpg
(道路脇に建つ石碑、道路はここから北北西に向きを変えています)

市道1009号線は更に北北西方向に遡ること1200m進むと、逆川に架かる「新野上橋」が現れます。
新野上橋.jpg新野上橋銘板.jpg
(逆川に架かる「新野上橋」、左側の古い橋は「野上橋」です。北側より撮影)(橋銘板)

「新野上橋」を渡って200m先で、西方町真名子に入ります。西方町真名子に入って300m、逆川に架かる「真上橋」の上に達します。この橋の手前で分岐が有り右に折れる細い道が市道1009号線になります。この先は山を越えて1本北側の沢を流れる赤津川を渡り、栃木市立真名子小学校北側を東走して、県道37号(栃木粟野線)に突き当たります。しかしこのルートで都賀町大柿と西方町真名子間を通行するのは地元民がほとんどで、まさに地元の生活道路と思われます。私もこのルートで通過したのはこれまで3回だけです。一度は山の中を抜ける途中で、道路の前方に2匹の小鹿が現れ、私の車に驚いて山の中に逃げて行きました。西方町の真上や小沼では、こうしたシカやイノシシに田畑を荒らされるのを防ぐために、田畑の周囲に電気柵をめぐらしています。

尚、分岐を直進して「真上橋」を渡る広い道路は、市道2006号と名称が変わり、西方町真上を山の奥に進んでいきます。
真上橋.jpg真上橋銘板.jpg
(逆川に架かる「真上橋」を北側から撮影。)                  (橋銘板)

「真上橋」を渡って市道2006号を1700m程進むと、前方には砕石工場が現れ、道路はその工場の中に入って行く様な感じと成る為。道路の探索はここまでとし、引き返すことに。
工場敷地入口に架かる逆川の橋の脇に「一級河川上流端」の石柱が建てられています。
逆川大和砕石㈱入口の橋.jpg
(市道2006号の先に現れる「大和砕石(株)真名子工場」)

平日にこの真上への道路に入ると、この砕石工場関係のダンプカーが引っ切り無しに通行していますが、日曜日に訪れるとダンプカーの姿は消え、ほとんど車の通行は無くなります。

以上の文章での説明ではなかなか上手く言い表せていないので、逆川流域の概略図を作成しました。
逆川流域概略図.jpg
(逆川流域概略図)

それでは市道1009号の脇に建てられた石碑をジックリ観察します。
石碑の正面.jpg石碑の裏面.jpg
(石碑の表面中央に大きく竣工記念碑と刻されています)(碑陰には碑文が刻されています)

石碑正面右側には「中郷野上線道路改修」、中央に大きく「竣工記念碑」、そして左側に「昭和五十三年九月吉辰」そして「勲五等土屋大□書」と刻されています。碑陰には碑文が右半分に、そして左側半分に「土地提供者」や「記念碑建設委員」「寄附者芳名」などが刻されています。
碑文は読みにくかったですが何とか読めましたので、書き写してみました。
碑文書き写し.jpg
(碑陰に刻された碑文と関係者の名前一覧を書き写しました)

碑文冒頭の「中郷野上両部落」は、都賀町大柿の地名。続く「幹線道路延長2,476米」に相当するのは、信号機の有る丁字路から西方町真名子との境界までの距離に相当します。
この道路改修によりそれまで劣悪な環境に有った町道が改善されたことが、碑文に記されています。

この石碑の外に市道1009号の先、真上橋を渡って進む市道2006号の道路脇にも同様の竣工記念碑が建てられていました。石碑正面右側には「都賀真上線村道改修工事」と有ります。
都賀野上線村道改修工事竣工記念碑.jpg
(西方町真上、市道2006号脇に建つ「竣工記念碑」)

碑陰に事業概要が刻されていますが、その中に「工事延長 二千七十米」と有りますが、この距離は市道1009号の西方・都賀の境界から、真上橋をわたり市道2006号をずっと遡って、大和砕石(株)真名子工場までの距離に相当します。
これら2基の石碑により都賀町大柿宿坪の丁字路から大和砕石(株)真名子工場に至る約4,500mの道路の改修の歴史を今、振り返ることが出来るのでした。
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「道の礎」に刻まれた歴史の一コマ [石碑]

東北自動車道栃木インターチェンジ出口から県道栃木粕尾線に出て左折、直ぐ東北自動車道の下を潜り抜けると、右手側道の脇に少し雑木が茂っている。
現在の様子.jpg
(通称鍋山街道を北上して、東北自動車道の下を抜けた右手側道脇に雑木が茂る)

雑木に隠れる様に一基の石碑が建っています。雑木の右側は東北自動車道の側道で、その右手奥に見えるこんもりとした小丘が、吹上町と野中町との境が山頂を通る米山。そしてこの石碑の建つ場所も野中町ながら、直ぐ北側の田んぼは吹上町と言うロケーションになります。

今から4年前の、2015年11月29日に撮影した頃は、まだ雑木も小さく石碑の姿は見えていました。
2015年11月29日撮影.jpg
(2015年11月29日撮影、東北自動車道側道脇に建つ石碑)

以前に撮影をした石碑の写真には、石碑の表面に雑木の枝が枯れた状態でこびり付いていますが、何とか碑文を読むことが出来ました。石碑上部の篆額には篆書体文字が陽刻されています。最初は何んと書いてあるのか全く分からず、調べて行くうちに右から左に「道の礎」(みちのいしずえ)と記されていることが分かりました。この篆額の文字を記した人物は、この石碑が建てられた昭和47年(1972)11月当時の栃木市長だった、柴新八郎氏です。
石碑全景.jpg篆額部.jpg
(石碑前景と石碑上部篆額部分。2015年3月11日撮影)

碑文を読み移しました、文末に昭和四十七年十一月吉日東北自動車道吹上地区地権者会と記して締めています。比較的新しい石碑で、現代仮名遣いの文章で、私にも容易に読むことが出来ます。
石碑には直ぐ脇を走る東北自動車道が計画され竣工開通するまでの間、地元地権者の対応が記されています。
≪昭和41年10月通過路線が確定発表されたが地区民の予想に反して美田の中央を縦断した為一同驚愕憤激し路線の変更を叫び猛反対運動を展開した≫と、ではその当時地元吹上地区の人達が描いたルートはどんなものだったのでしょうか。確かに岩舟小野寺地区から皆川小野口地区はそのルートの大部分が、太平連山の西側から北側の山裾を縫う様に通っています。又、都賀地区から西方地区も観音山から西方城址の有る城山の東側の山裾を走っています。それに対して皆川地区の東部から吹上地区の全ルートに関しましては、ほとんどが開けた田んぼの中を通過しています。
元々栃木市の周辺は豊かな水田が多く、その為工業団地造成も思う様に進まない土地柄でしたから、この東北自動車道路で多くの田んぼが潰れるのは、どれだけ無念な思いだったものか。その気持ちが碑文の最後に見られました。
≪思うにこの道の礎は正に父祖の培いし流汗の農地である 茲に国土開発と地域発展に寄与する為先祖伝来の土地を提供し併て地権者会の活躍を後世に伝えるためこの碑を建立する≫と。

碑文部.jpg碑文書き写し.jpg
(碑文部分を読み、そのまま書き写してみました)

東北自動車道と北関東自動車道の交差する、この栃木市に生活する一人として、東西南北のどこへでも容易にアクセスする事が可能になっています。この便利さを享受出来る幸せをもっと感謝しなければならないのかも知れません。「道の礎」と記された石碑は、そんな事を思い起こさせるものでした。
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千塚町八幡宮境内に建つ石碑 [石碑]

栃木市の北西部星野町から、鍋山町・大久保町・梅沢町・尻内町と寺尾地区を、南東方向にほぼ一直線に流れ下った永野川が、吹上地区の仲方町と千塚町との境界付近から、流れを僅かに南に変えて吹上地区の西部に位置する千塚町と宮町のほぼ中央部を南流しています。
今回訪れた千塚八幡宮は、栃木の市街地から県道32号(栃木粕尾線)を北に走り、千塚小学校の先の歩道橋の架かる交差点を左折し、西に向かい永野川に架かる「千塚橋」を渡り、永野川の西岸域側にせり出している足尾山地の東の縁、山裾から少し石段を上がった所に祀られています。
千塚町八幡宮.jpg
(千塚橋の西方300メートル、道路の右側に参道入口の石の鳥居)

参道登り口に建つ案内板によると、主祭神誉田別命(ほんだわけのみこと)、境内地1,577坪、旧社格指定村社、本殿一間社流造柿葺、拝殿入母屋造瓦葺と成っています。
千塚八幡宮社殿.jpg
(石段を上った先に現れる、八幡宮社殿)

今回の石碑は八幡宮の社殿に向かって右隣に建てられています。
石碑全景.jpg
(社殿右手に建つ石碑)

石碑の上部篆額には「御大典記念」と有ります。
篆額.jpg
(石碑上部、「御大典記念」と篆書体文字が陽刻されています)

碑文最後に記されている「昭和3年11月吉辰」で明らかなように、篆額に有る「御大典」とは昭和天皇の即位の礼から大嘗祭等の一連の儀式を総称した言葉の様です。この年昭和3年には、日本各地で御大典を記念した行事や事業が計画執り行われたようです。そしてそうして実施された事業内容を記した記念の石碑が各地に建立されています。
ちなみに、この篆額の文字は、碑文冒頭に記されている「内務大臣、望月圭介」によるもので、この人物は御大典の時(昭和3年)、内務大臣に就任して御大典の警備最高責任者でした。

碑文に目を通します。昭和の初期に建立された石碑ですが、ありがたいことに非常に読みやすい、漢字とひらがなの文章です。明治期の漢文体や、戦前の漢字とカタカナで埋め尽くされた碑文は、とても読み解くことが難解な石碑が多いのですが。

碑文写し.jpg碑陰写し.jpg
(碑文を読みうつしました)            (碑陰の寄附者芳名一覧)

碑文によりますと御大典記念事業として、八幡宮氏子らが相談をして神社拝殿の改築、境内の整備を行った事などが記されています。そして、碑陰にはこの事業に寄付を行った多くの人達の名前が連ねられています。その数は、篤志寄附者として52名、寄附者として115名の名前と寄附の内容が記されています。
寄附金の額を集計してみると3,755円。最高寄附金は300円、一番多い寄付金額は6円で34名おりました。
これらの金額は現在の価値にしてみるとどの程度になるものか、昭和初期の物価などを調べて私なりに推定を試みました。その結果として寄付金の合計は2,854万円程度になるものと思われます。300円は現在では200万円以上となり、まさに高額寄附者と言うことにまります。
寄附者115名に内容を見ていくと、高久姓が一番多くて35名、次に横倉姓13名、その後には柴姓9名、名渕姓・臼井姓7名と続いています。
現在の千塚町の主要苗字をゼンリン住宅地図にて確認してみると、一番多い苗字はやはり高久さんで37軒、二番目は柴さんで10軒、三番目は臼井さんで9軒、次が熊倉さん、横倉さんで共に8軒、続いて琴寄さん7軒、名渕さん6軒となります。
千塚町の主要苗字の分布は昭和初期も現在もほとんど変わっていない事が分かりました。
また寄附者の名前の中に「保知戸」という珍しい苗字を見つけました。この苗字は2004年度版栃木市電話番号帳を見ると市内に8軒有りますが、その内5軒が千塚町に分布をしています。
この苗字は他に多く見られた「高久」や「横倉」「琴寄」と言うかつての皆川家臣団に当たるか、寛永12年の「皆川先祖譜代家臣録」(近藤兼利著「皆川廣照伝」附録)を開いてみると、「保知戸」の苗字は確認できませんでしたが、千手村の中に「宝冶戸」と言う苗字の人物が4名おります。この姓に関係するものと推定いたします。
この千手村とは現在の千塚町の一部のかつての名前で、「千塚」と言う地名は明治8年6月に「千手村」と「犬塚村」とが合併して生まれた地名だそうです。(「吹上地区小字の由来」吹上地区まちづくり協議会編集発行)

今年は今上天皇の即位の礼が行われます。「令和御大典の年」です。令和の時代が平和で豊かな時代になることを願いたいと思います。



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大皆川町の田んぼ脇に建てられた「報徳碑」 [石碑]

栃木市街地の西方に、かつての皆川村の大字のひとつ大皆川、現在の栃木市大皆川町と言う地域が有ります。、北側の千塚町や宮町から南流してきた永野川が、太平連山から北東部に張り出した舌状台地に、行く手を阻まれた形で大きく円弧を描いて、その流れを東方向に変える、その内側となる永野川右岸に位置しています。
永野川の西から南西側の対岸は皆川城内町、南東側は岩出町と成っています。
今回の石碑はそんな大皆川町の西域、家屋脇水田の畔の上に建てられています。
報徳碑1.jpg報徳碑3.jpg
(家屋をバックに水田に面して建つ石碑3基)(一般の石碑より厚さが薄い)

私が撮影に訪れた日は、梅雨の冷たい雨がシトシトと降っていました。
報徳碑2.jpg
(3基並ぶ石碑は、中央が碑文を刻した主碑、両側は普通碑陰に刻される関係者芳名一覧)

中央に建つ石碑の表面に刻された文字を書き写しました。□は判読する事が出来なかった文字の箇所になります。
報徳碑(碑文).jpg
石碑上部の篆額の文字「報徳碑」は、建立時に陸軍大将従二位勲一等伯爵であった、山縣有朋によるもの。碑文は大日本帝国神道修正教官長の新田邦光の撰文であるとが、碑文冒頭に刻されています。明治初期の日本政界及び宗教界で活躍された人物の名前でまず驚かされます。
碑文は「晃山峩峩 永川滾滾」と韻を踏んで始まっています。「こうざんがが えいせんこんこん」これは何を描写したものか、私のお粗末な頭で考えてみた。「晃山峩峩」は皆川の地の南側に東西に連なる「晃石山」を最高峰に連なる山々の事か、そして「永川滾滾」とは皆川の地を貫流する「永野川」の流れを詩的に表現したもの。次に続く「螺貝丘」は通称「法螺貝城」と呼ばれた「皆川城」の事。やっとの事でそこまで読み込むのですが、その後が続かない。どのように読んで行けば良いのか、遅々として読み進むことが出来ない。
「文糸翁」とか「關口保」「長沼五郎秀宗」など単語として読みとれますが、文章として成り立たない。「長沼五郎」と云えば1159年頃に小山城を築いた、下野大掾「小山政光」の二男「宗政」で、下野国芳賀郡長沼に居を構え「長沼氏の祖」が思い浮かんできますが。又、「秀宗」の名前は、第二次皆川氏の祖の事と思われます。西隣、皆川城内町の金剛寺境内に有る、皆川家歴代祖廟の中に「初祖長沼秀宗公」と記された墓石が見られます。その説明文に「永享元年(1429)会津田島より移住」と記されています。
金剛寺の伝によると秀宗は下野国に移り、初め岩田郷皆川庄滝の入に住み、その後白山台に移った。更に観音山に築城したとしています。
皆川家累代墓所.jpg皆川秀宗の墓.jpg
(金剛寺、皆川家歴代祖廟)      (長沼秀宗公墓前に立てられた表示版)

こうして観るとこの「報徳碑」の人物は皆川家に関係した人との推定が成される。碑文にはその人物の人となりが、縷々と記されていますが、私には難解な漢文で読み切れません。
このブログで前に紹介した、細堀町の田んぼの畔に建てられた石碑の場合の様に「大川鴻山先生碑」と有れば、誰の為に建てられた石碑か一目瞭然なのですが、今回の石碑はその人物にたどり着くことがなかなか出来ません。
碑文の最後に記された日付けは、「紀元貮千五百五十五祀愛景」と記されています。これは西暦にすると「1895年」、この年日本は日清戦争に勝利し下関にて「日清講和条約」が締結された時です。

次に中央に建つ主碑の両側の石碑に目を向けてみます。
まず左側の背の高い石碑。上部に「主師高恩」の文字。その下に多くに人物の名前が連ねられています。その筆頭には、「衆議院議員の新井章吾」皆川村の北東側に隣接する吹上村の出身。次に「県会議員の高久倉蔵」、この人は同じ皆川村出身で、大皆川の東隣り泉川の生まれ。この人物は後に第九代皆川村長や、明治41年(1908)の第10回衆議院議員選挙にも当選して活躍をした人の様です。≪石崎常蔵著「栃木人・明治・大正・昭和に活躍した人びとたち」を参照させて頂きました。≫
その他には「里長」「親友」「親戚」故旧」「門人」「世話人」等の名前が続いています。
日付けは「明治廿八年七月」と刻されています。
主師高恩(左).jpg主師高恩(右).jpg
(碑に向かって左側に建つ「主師高恩」碑)  (碑に向かって右側に建つ「主師高恩」碑)

そして、右側の小ぶりな石碑を見ると、左側の石碑同様「主師高恩」と有ります。
その筆頭には「門人」として、「村長関口豊次郎」の名前。村長とはもちろん地元皆川村の長になります。
「門人学友」の次に「皆川旧臣」として7名の名前が連なっています。下段には「門人」そして「発起人」達の名前になります。下段は雑草に遮られて名前が確認できない所が有りました。

改めてこれらの石碑の主人公は誰なのか考えてみます。
「門人」とする名前が多く連なっている所から、先の細堀町の石碑「大川鴻山先生」の「錬武館」のような剣道場を設けて多くの門下生を教えた人物なのか。明治初期の大皆川の教育機関を調べてみると、明治5年8月2日に日本最初の近代的学校制度を定めた「学制」が太政官より発せられると、栃木の周辺地域でもそれぞれの村で私塾的な教育施設が出来てきます。大皆川にも関口源治氏による「分校国宝舎」が開校しています。この人は先に記した村長関口豊次郎氏の父親になります。しかし碑文の中に「源治」の名前は見つかりません。発起人の名前の中に「関口」と言う文字が多くみられますし、碑文の中にも「關口」の名前も認められますから、関口姓の人物で間違いないと考えますが、この石碑の建つ地区「西大皆川」には現在も約100軒の住居が有りますが、その内関口姓は13軒確認されますので、特定は出来ません。昭和33年8月15日発行「皆川廣照伝」(編者:近藤兼利)の付録「皆川先祖譜代家臣録」の中にも、大皆川に「關口」姓が10名分確認されますから、ここからも絞り込みは出来ません。(皆川先祖譜代家臣録の中に収められている「關口」姓の人物は一番多く68名数えられています。)
この石碑に関しては今後も調査を進めていきたいと考えています。

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東武佐野線田沼駅前公園に建つ「日本列島中心の町」の碑 [石碑]

元号が令和に変わってから最初に訪れた石碑は、東武佐野線田沼駅前の公園に建てられています。
日本列島中心の町1.jpg
(東武佐野線田沼駅を出て、右手方向に進むと目的の石碑は、公園の中に有ります)

高さ1メートル程、幅2メートル弱か、厚さは50センチメートルほどの直方体。正面に「日本列島中心の町」その下側に、「東経139°30′21″」そして「北緯36°30′54″」。そして石碑の右下隅に「佐野市」と記したプレートが設置されていますが、元は「田沼町」と陰刻されていました。元々「日本列島中心の町」と称して町をアピールしたのは「田沼町」ですが、2005年2月28日に葛生町と共に佐野市と一緒になったので、田沼町の名前の上に「佐野市」のプレートを設置したようです。
又、石碑左下側には日本列島の形が線刻をされています。その他には、碑陰や側面等には何の表示も有りませんので、何時頃設置されたものかなど、確認できませんでした。
日本列島中心の町2.jpg
(大きな直方体の石の正面に「日本列島中心の町」の文字、下に経緯度が刻される)

日本列島中心位置の定義付けに関しては、石碑の隣に説明板が添えられています。それによりますと、
「北海道最北端①」と「九州最南端②」から、それぞれ同じ距離となる「日本海側③」と太平洋側④」を算出します。そしてこの2点を結んだ線の中間点の場所として、その地点がこの田沼町に存在します。と記されています。
日本列島中心の町3.jpg
(日本列島の中心「田沼町」の定義付けの説明板)

実際どうなのか私なりに確認を試みました。専門的な計算方法など解りませんから、グーグルマップを利用して①から④のそれぞれの場所を探してみました。違っているかも知れませんがその結果は、石碑に記された経緯度の地点が上記の定義付けに一致する事を確認出来ました。
日本列島中心の町4.jpg
(石碑に記された経緯度の地点が、日本列島中心の中心の定義に一致した検証図)

北海道最北端①の地点は「宗谷岬」で、九州最南端②の地点は「佐多岬」は容易に決まりますが、③と④の2点は探索する為に何度もポイントを変えて、①と②から同距離に有る場所を見つけています。結果として日本海側の地点③は新潟県上越市五智4丁目近辺で、①と②からの距離は約980km。太平洋側の地点④は茨城県神栖市須田浜海岸近辺で、①と②からの距離は約1,082km。そしてその③と④の地点を結んだ線の中間点を求めると、その地点は③及び④から約135kmとなり、石碑に記された経緯度となりました。

ところが、気になることが一つ見つかりました。グーグルマップで石碑で記された経緯度の数値を入力してその場所を検索したところ、そこには「栃木県佐野市秋山町」の地名が現れたのです。「秋山町」はかつては「田沼町」ではなく、北東側に位置する「葛生町」の地名です。
そこで、手元に有る国土地理院、平成元年6月1日発行の2万5千分の1の地形図「中粕尾」を広げて確認をすると、「東経139°30′21″、北緯36°30′54″」の地点は、田沼町側に位置しています。但し葛生町との境界線まで僅か50メートル程しか無い山中でした。
そして、もう一つ判明したことは最新版の「中粕尾」の地形図(平成26年10月1日発行)で同じ経緯度の場所を確認すると、場所が変わっています。その地点は以前の地図よりも南南東方向に約460メートルもずれていました。現在は田沼町と葛生町は合併により佐野市に変わっている為、その間の境界線は地図上には表示されていませんが、その場所はかつての葛生町(現在の秋山町)に入っています。

平成元年と平成26年発行の地形図を重ねて観ると、経緯度を合わせた場合表示されている地形の場所が一致しないことに気付きました。この違いの原因は日本の測量の基準が、「日本測地系」から「世界測地系」へ変えられた為で、平成13年(2001)6月に測量法改正案が国会で成立しています。
※素人の私には理屈が難しすぎるので、興味の有る方は(一財)日本地図センター発行の「二万五千分の一地形図が変わった 進化する地図の世界」(大竹一彦、秋山実 著)を参照して下さい。

ちなみに田沼駅及び石碑の建つ所の現在の住所は「佐野市栃本町」であり、石碑に刻された経緯度の所在地はこの場所ではありませんし、石碑に表示された経緯度の地点も「田沼町」ではありませんから、「日本列島中心の町」として「田沼町」から「佐野市」に変更したのはそのような背景が有ったものかと思われます。

それにしても、かつて「田沼町」の人達が、自分の町が「日本列島の中心である」という定義を見つけた事は素晴らしい郷土愛に基づくものと、改めて感心をしました。
色々な事を再認識をさせられた、石碑に出会うことが出来ました。
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旧喜連川町(栃木県さくら市)の道路元標 [石碑]

先日、栃木県さくら市喜連川へ道路元標の写真を撮るために行ってきました。
これまで「道の駅喜連川」には何度も行っていますが、喜連川の街中に行くのは、今回初めてに成ります。
喜連川は「角川日本地名大辞典9栃木」によると、≪荒川上流域に位置する。地名の由来は、古名を狐川と称し、狐川が喜連川と書くようになったという(旧県史)。喜連川城跡・喜連川館跡がある。喜連川城は倉ケ崎城ともいわれ、規模は長径600m、幅は平均約150mの連郭式山城。文治2年塩谷惟広の築城と伝え、以降塩谷氏累代17代までの城として天正18年まで同氏の本拠であった(県の中世城館跡)。喜連川館は文禄2年から足利氏の居城(同前)。≫と有ります。
現地到着後まづ訪れたのが、「さくら市喜連川庁舎」で、玄関を入ったロビーに置いて有った現地の観光パンフレットを入手しました。
さくら市教育委員会事務局生涯学習課発行の「さくら市奥州道中マップ」の中に、喜連川宿付近の絵図を手に、街中を散策しました。それらの資料を基に喜連川宿周辺概略図を作成しました。
喜連川周辺概略図.jpg
(奥州街道喜連川宿周辺概略図)
 ※上概略図中に記した道路は喜連川市街地に繋がる国道・県道で、色分けして表示しています。
   ・オレンジ:国道293号
   ・ピンク:県道74号(塩谷喜連川線)
   ・みどり:県道114号(佐久山喜連川線)
   ・きみどり:県道167号(蛭田喜連川線)
   ・ちゃいろ:県道180号(蒲須坂喜連川線)
     台町交差点から本町交差点の間は、みどり(県道114号)とピンク(県道74号)の重複区間。

宇都宮にて日光街道から分かれた奥州街道は、白沢宿、氏家宿を経て、ここ喜連川宿に至ります。
喜連川宿は概略図のように、南側を荒川が東流し、北から東側を流れる内川とが合流する内側に有り、西側からは喜連川丘陵から続く小丘が半島状に突き出た舌状大地の先端に位置しています。
現在お丸山公園展望台付近の標高は194メートルで、商店街からの比高はおおよそ50メートル程となっています。
奥州街道は概略図に赤色で記しました。ひとつ前の氏家宿からは、概略図左下の弥五郎坂を越えて荒川の右岸に出、荒川に架けられた「連城橋」を渡ると、喜連川宿に入ります。現在橋を渡る手前の交差点の南東側角に、昔の道標が残っています。
南の道標1.jpg南の道標2.jpg
(荒川に架かる連城橋南側交差点脇に建つ道標)
道標には「右江戸道、左下妻道」と刻されています。

連城橋1.jpg連城橋2.jpg
(喜連川宿の南側の入口、荒川に架かる「連城橋」、左奥に喜連川スカイタワーを望む)

喜連川宿内の街道は大きく左にカーブするようにして北上しています。
旧奥州街道1.jpg旧奥州街道2.jpg
(喜連川宿を通る街道は左に大きくカーブしています)
街の中ほどのに丁字路状の本町交差点が有ります。奥州街道に東(馬頭)方向からの道路が突き当たります。その突き当たった所に今回訪れた目的の「喜連川町道路元標」が建っているのを見つけました。
喜連川町道路元標2.jpg喜連川町道路元標1.jpg
(本町丁字路の突き当たった所に道路元標が) (「喜連川町道路元標」の文字が読めます)

1970年に指定された国道293号のルートは、1976年7月21日に喜連川バイパスが開通する以前は、弥五郎新道路から「連城橋」を渡り喜連川の街中を走り、先ほどの本町丁字路を右折東進し、内川に架かる「旭橋」を渡って鍬柄坂へと抜けていたようです。

奥州街道はこの本町丁字路を直進北上、仲町交差点も直進、ここから道路は右方向にカーブし、台町交差点に至ります。この交差点の北西側角にも又、江戸時代の道標が建っています。
北の道標1.jpg北の道標2.jpg
(台町交差点北西角に建つ道標)
道標には「右奥州海道、左在郷道」と刻されています。

かつての奥州街道は、この台町交差点の所で右折して狭い道に入り東側の裏通りを北上して行き、内川に架かる「金竜橋」を渡って、次の宿場「佐久山宿」へ向かいます。

一方ここ喜連川は宿場町と同時に、喜連川氏の城下町でもありましたので、喜連川館の有った街道の西側裏通りには武家屋敷の名残を残す、「寒竹囲」の生垣の家や「御用堀」が今も見る事が出来ます。
寒竹囲.jpg御用堀.jpg
(「寒竹囲」の生垣が残る)          (武家屋敷だった横町付近の「御用堀」)

御用堀は整備が成され、澄んだ水の流れを透して、大きな鯉がゆうゆうと泳いでいました。もっとゆっくり街の中を散策して見て回りたかった喜連川を後に家路につきました。

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栃木市細堀町の水田脇に建つ「大川鴻山先生碑」 [石碑]

栃木市内に建てられている石碑を探し求めて、日々市内を歩き回っています。太平山や錦着山をはじめ、第二公園内などは、多くの石碑が確認できます。その他市内の神社仏閣にも必ずと言っていいほど、石碑が建てられています。
これまでもこの「巴波川日記」の中で、幾つも紹介をしてきましたが、今回は細堀町の水田の脇に建てられた石碑です。細堀町は旧栃木市内吹上地区に有り、町の中央を赤津川が北から南に貫流、東側には東北自動車道がやはり南北に走り、東北側に北関東自動車道との栃木都賀ジャンクションが見える。西側には足尾山地の南東端となる、標高183メートルの鴻巣山(別称、富士山)を中心に150メートル程度の低い山々が連なっています。
鴻巣山遠望.jpg
(細堀町の水田から西方の山並みを望む。山頂に展望タワーが見えるところが鴻巣山。写真中央右側、水田の先に石碑が建てられているのが見えます。)

栃木の市街地から向かうと、東北自動車道の狭いアンダーを抜けるか、吹上町から赤津川沿いの道を北上するルートと成る為、赤津川沿いを歩く事以外、私個人では滅多にこの地に踏み入れることは無い場所でした。
その細堀町を地形図で確認をしていたところ、田んぼの道路脇に石碑の地図記号を発見、さっそく現地確認をして写真に収めました。
大川鴻山先生碑1.jpg
(綺麗に整えられた石碑廻り)
石碑の正面上部に、「大川鴻山先生碑」の文字が陽刻されています。
大川鴻山先生碑2.jpg
(顕額の文字は侍従長海軍大将正三位勲一等功三級の鈴木貫太郎による)

碑文.jpg碑陰.jpg
(石碑正面、碑文)             (碑陰には多くの氏名がびっしりと刻されています)

碑文は海軍主計中将従四位勲二等刑部齊の撰並びに書と記されています。
「大川鴻山先生」とはどんな人物なのか、碑文にはその人の生い立ちから、慶応元年(1865)野州吹上村(現在の栃木市細堀町)に生まれる。名は元太郎。少年時代より武道を志し、明治28年(1895)鹿島神伝心影流相伝の免許を受け、秘奥皆伝を許され、第17代を承継しました。武道家として大成、明治31年(1898)に自邸に附設した道場「練武館」を設けています。又、栃木武徳会支部の創立や剣道の中等学校正科編入・剣道型の普及等に力を尽くし、大正6年(1917)武徳会本部大会に際して総裁 久邇宮殿下より精錬證を拝受、大正12年(1923)摂政宮殿下(後の昭和天皇)の拝謁を賜る。身老齢に達しても常に野に在り、地元青年育成に尽くしたこと等、記されています。
大川鴻山先生碑文.jpg
(碑文を書き写しました。ただしカタカナはひらがなに変えています。)

栃木市史(通史編)の「近代教育制度の発足」の項に、この「練武館」の事が記されています。
≪所在 吹上村大字細堀、 師範 大川元太郎、 大川元太郎は鴻山と号した。慶応元年生、明治28年鹿島神伝神影流の免許皆伝をうけ、同31年自邸に道場練武館を設け、剣道を教えた。 その門下の有段者は五十余人にのぼった。≫

碑陰に刻された「門人」を見ると、地元吹上96名を含む200名程の名前が連ねています。その上部には「後援団」として120名(その筆頭に代議士松村光三氏の名前も見られます)
多くの賛同者を得てこの碑が建てられました。碑文の最後の日付けは昭和6年(1931)11月3日と成っています。

大川元太郎が「鴻山」と号したのは、生まれ育った細堀の地から望む「鴻巣山」から採ったのではないかと、これは私の勝手な想像に過ぎませんが。

ちなみに、「大川」という姓は2003年~2004年版の電話帳を見ると61軒、その内細堀町が17軒で一番多くなっています。次に多いのが神田町7軒、3番目が今泉町で5軒となります。
尚、細堀町で特徴的な苗字は「玉田」姓になり、8軒です。少ないですが栃木市全体でも20軒しか見られませんから、4割が細堀町に集中していることに成ります。
昭和33年8月15日近藤兼利氏が著した「皆川廣照伝」の付録「皆川譜代家臣録」を見ると、「大川」姓が3名見えるが、全て細堀村でした。又、「玉田」姓は15名見えますが、その内9名が細堀村に名を連ねていました。

田んぼ沿いに建てられた1基の石碑から、栃木市の一つの歴史に触れることが出来ました。





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栃木市吹上地区の米山に登る [石碑]

栃木市吹上地区の米山は標高86メートル程、周囲約500メートルの小丘。周辺田畑の標高が60メートル程有りますから比高としては26メートル程になります。
米山遠望1.jpg
(赤津川に架かる平和橋上から上流側を望む。正面奥の小丘が米山です。)

近くの三角点は米山から北西650メートルの吹上中学校の校舎南側に有り標高は81.7メートルですから、米山の山頂は丁度吹上中校舎の2階ほどの高さになります。東側を赤津川が南流しています。山の南東側半分が野中町で、南側中腹に長宮神社が祀られています。この神社は明治40年10月15日吹上村大字野中の神饌幣帛料供進指定村社となっています。
長宮神社入り口.jpg
(米山の南端部に建つ長宮神社の石の鳥居)
長宮神社境内.jpg
(鳥居を潜り杉木立の中の参道を進むと高台に社殿が見えてくる)
神楽殿.jpg社殿.jpg
(中段部に建つ神楽殿)      (上段部の拝殿、左横に「水神社」等の境内社が並ぶ)

山の北西側半分は吹上町で、山頂近くには墓地が有り、中央部に米山薬師如来の石仏が祀られています。
この米山薬師は、この吹上の地に昔から住まわれている塩田家が一族の永遠の繁栄を祈願して、新潟県の上越市と柏崎市との境に聳える霊峰米山(標高993メートル)の山頂に祀られている米山薬師を勧請されたと云われています。米山薬師は三河(愛知県)の鳳来寺薬師と、日向(宮崎県)の法華嶽薬師と共に、日本三薬師の一つとして知られています。
米山薬師入口.jpg米山薬師.jpg
(米山薬師への階段と脇に建つ石碑) (山頂部墓地内に鎮座する米山薬師如来)

米山薬師が祀られている塩田家一族の墓地への入口は、米山の西側に有りました。周辺には最近新しい住宅が建てられ、以前は道路脇に建てられていた案内の石碑も現在は米山登り口階段脇に移されています。
上端が尖った自然石の案内の石碑には「日本三體米山薬師」「塩田一族之墓入口」、そして碑陰には「紀元貮千六百年 昭和拾五年五月 一族一同 式臺 本碑 建之」と刻されています。
「栃木口語り 吹上 現代故老に聴く」(野村敬子・原田遼・共編、2010年11月10日 瑞木書房発行)の書籍の中にこの米山薬師のお話が詳しく語られています。その中に≪米山の薬師様への石段は六十三段ですが、この六十三段は七×九で七難九厄をよけるとされています。登ることに意味があります。≫と述べられています。私も一段一段数えて石段を登ってみました。確かに63段を数えました。

墓地のほぼ中央に米山薬師が祀られています。薬師様はお座りになられ、両手で薬壺を持たれています。後方の大きな舟形光背には、「奉本願吹上村米山薬師」と「寛文四甲辰禾五月八日」の文字が並んで刻されています。寛文4年は1664年で甲辰の年で、今から355年前に建てられた薬師如来様です。

この塩田家墓地の一段高くなった右奥の墓所に大きな石碑が建てられています。
塩田家譜之碑.jpg碑銘.jpg
(塩田家墓地の右奥に建つ石碑)   (石碑上部の碑銘、篆書体文字が陽刻されています)

石碑上部の碑銘には「鹽田家譜之碑」と篆書体にて陽刻されています。碑文に目を移すと、先頭行に少し大きな文字で「鹽田氏畧譜碑」と、ただ本文は容易に読むことが出来ません。私の苦手な漢文の文章体で、どのように読んでいいのか皆目見当が付きません。見たこともない漢字を含めて646文字が整然と並んで刻されています。
最終行に、「明治三十九年九月二十九日  當家十一代孫奥造朝眞謹撰并書」と有り、この碑文が書かれた日付けと、文を作り清書した人物が「塩田奥造」であることがわかりました。
塩田氏畧譜碑(吹上町).jpg
(石碑の碑文部分を書き写してみました。難読文字も多く読み間違いも有りますが)

「塩田奥造」と言う人物に付いては、いまさら紹介するまでも無い、栃木市吹上町出身の偉人の一人です。
下野新聞社が昭和47年4月7日に発行した「郷土の人々(栃木・小山・真岡の巻)」より抜粋させて貰いますと、≪塩田は、吹上村の名主嘉門の長男として嘉永二年十月十五日に生まれた。壬生天狗党事件、出流天狗党事件のさい、吹上藩士として活躍、その後官軍に味方して会津戦争に参加している。明治にはいって五年に吹上村外九ヵ村の戸長となり、十三年県議、二十二年田中正造が議長のとき副議長をつとめた。二十三年新井とともに衆議院に打って出て三回当選した。しかし、ニ十七年の衆院選に敗れるとあっさり政界を去り、東京火災保険会社取締役となり実業界に入った。(後略)≫、その後も多くの銀行・保険・殖産等数々の事業に関係し活躍をし、昭和2年(1927)2月6日、79歳で亡くなられています。

米山よりの展望.jpg
(米山の山上からの展望)

米山からの展望は雑木が生い茂っている為、木々の間より吹上の町を垣間見る程度でした。
最後に米山薬師様にお参りして、山を下りました。

<今回参考にさせて頂いた文献>
・「郷土の人々(栃木・小山・真岡の巻)」下野新聞社・昭和47年4月7日発行
・「栃木人(明治・大正・昭和に活躍した人びとたち)」石崎常藏・2017年4月1日発行
・「栃木口語り 吹上 現代故老に聴く」野村敬子・原田遼・共編、2010年11月10日 瑞木書房発行
・「吹上地誌(中部編)」吹上地区まちづくり協議会・平成22年1月26日発行
・「吹上郷土誌」吹上尋常高等小学校・大正2年8月25日発行



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