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密に蜜 [自然の恵み]

今日もまたまた快晴。風も無く暑いくらいです。
真っ青な空にサザンカのピンクの花が鮮やかです。
サザンカの花.jpg

満開も満開、正に密な状態が続いています。
密状態のサザンカの花.jpg

庭の北の隅に有るヤツデの木にも花が咲きました。
ヤツデの花.jpg

匂いを嗅ぎつけたか、蜂がせっせと花から花へ飛び回って、蜜を集めています。
ヤツデにミツバチ.jpg

この暖かい陽気は何時まで続くのだろうか。
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庭のサザンカが満開に [自然の恵み]

11月も中旬に入り、我家の庭のサザンカも満開に成りました。
朝日を受けて、真っ青の空をバックに鮮やかなピンクの花が広がっています。
満開のサザンカ.jpg

今朝も、庭に散ったピンクの花びらや、ナツツバキの枯れ葉を拾い集めました。
落葉した夏椿の枯葉.jpg

秋も深まり、もうすぐ冷たい西風がナツツバキの落葉した枝の間を、吹き抜ける季節です。


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昭和の風景「栃木駅周辺」 [懐かしい写真]

昭和の風景として、栃木駅周辺の写真を紹介します。
昭和と言っても、私が撮影をしたものですから、昭和50年から昭和60年頃の栃木駅周辺に成ります。
写真の前に、栃木駅周辺が、どのように変化したか、3枚駅周辺の道路の変遷概略図を作ってみました。

最初は明治期の始めの様子を、明治前期測量 2万分1フランス式彩色地図、「栃木縣下野國下都賀郡栃木町」を参考に描きました。
「栃木町」のこの迅速測図は、明治19年に作成されていますので、その当時はまだ両毛線は開通していませんので、当然「栃木駅」もまだ姿を現していません。
栃木駅周辺の道路網 (明治).jpg

上の道路図だけでは、なかなか場所の特定が出来ないと思いますので、2枚目は一気に百年後「昭和61年」の栃木駅周辺の道路の様子を掲示します。
栃木駅周辺の道路網 (昭和).jpg

栃木駅は、明治21年(1888)5月22日に両毛線の開通と共に開業しました。
東武線は昭和4年(1929)4月1日、杉戸・新鹿沼間が開通しました。
道路は、旧例幣使街道はほぼ昔のままですが、駅北口から放射状に道路が伸びています。しかしこの時期でもまだ駅の南側は開発が遅れて水田が広がったままの状態でした。

そして3枚目は「平成」の栃木駅周辺の様子です。
栃木駅周辺の道路網 (平成).jpg

元号が昭和から平成に変わった1989年、栃木駅前土地区画整理事業が着手となり、平成3年(1991)には栃木駅南土地区画整理事業もスタートしました。
これにより、駅の南側の開発も進み、北口南口両方に駅前ロータリーが整備されています。大きな変化は平成12年(2000年)に東武線が、続いて平成15年(2003)に両毛線が高架化され、駅の東西に有った踏切も無くなり、道路の渋滞も解消されています。

それでは栃木駅の高架化ですっかり変わってしまった、昭和の栃木駅周辺の風景を見ていきたいと思います。
最初は昭和50年(1975)1月、駅の連絡橋からの構内の雪景色です。
連絡橋から駅西方向、太平山を望む(1975年).jpg
太平山を望む西方向の様子。構内には石灰運搬用の貨車が多く見られます。両毛線が真っ直ぐ西に向かって伸びています。東武線は写真左端、前方で左にカーブしています。

東武線連絡通路から駅東方向を(1974年).jpg
反対側東方向を望むと、左端に栃木駅舎の屋根。中央奥に写る煙突は、東武線(右側)と両毛線(左側)に挟まれた「鳥海味噌」工場のものです。

次に高架化で姿を消した踏切の様子。昭和51年から昭和53年頃に撮影したものです。
第一佐野踏切(昭和51年頃).jpg
上の写真は駅の西側、栃木自動車教習所の南東側に有った、両毛線の踏切です。写真右奥に栃木駅の連絡橋が見えます。その駅舎とこの踏切との間、線路の北側には石灰会社の倉庫や貨車溜まりが有りました。
石灰会社の倉庫(1974).jpg
昭和48年(1973)撮影、栃木駅西側の石灰会社倉庫。

石灰会社の倉庫(1975).jpg
昭和50年(1975)撮影、栃木駅西側、石灰会社の貨物積み込みエリア。

次は駅の東側の踏切です。
両毛線沼和田踏切(昭和51年頃).jpg
上の写真は昭和51年(1976)撮影、両毛線沼和田踏切を北東角から、鳥海味噌工場方向を望む。
駅東側、沼和田両毛線踏切(1978年).jpg
上の写真も同じく両毛線沼和田踏切の南東角から西の栃木駅方向を写しています。

この両毛線の踏切の南側には、もう一ヶ所踏切が有りました。東武日光線の踏切です。
ですから、この道路を通行する為には、続けざまに二つの踏切を渡らなければなりませんでした。
駅の直ぐ傍の踏切の為、閉まると結構な時間電車の通過を待たなければならず、運が悪いと両方の踏切がしまって、間に閉じ込められて不安を感じる事も有ったのではないでしょうか。

私はこの東武線の踏切を一度定点撮影の様な真似事をしました。最近の状況も含めて、ご紹介します。
最初に撮影をしたのは昭和41年(1966)だったと思います。
1966年沼和田東武線踏切.jpg
この写真は踏切の南西脇から写しています。浅草行の普通電車が接近してきています。
写真を見ると分かりますが、この頃はワイヤーロープが下がって来て通行を遮る方式でした。

昭和50年(1975)代に、ほぼ同じ場所から、ほぼ同じ方向に向かって撮影しています。
1974年沼和田東武線踏切.jpg
特急きぬが接近してきています。踏切は現在と同じ、バーが両サイドから円弧を描いて下りてくる形式に変わっています。警報ランプも見えます。
線路の北側に、「トリウミ きぬごし味噌」と大書した工場建屋が見えます。

3枚目は平成25年(2013)にほぼ同じ場所同じ方向を写した写真です。
2013年9月23日栃木駅周辺 (1).jpg
高架化により風景は大きく変わって、踏切も無くなりました。

最後に昭和の栃木駅に行きましょう。夜の栃木駅です。昭和51年(1976)に撮影しました。
栃木駅前夜景(昭和51年頃).jpg
写真左の端に写っているのが、駅前交番。その横に公衆電話ボックスが並んでいます。駅前にメンズショップが有りましたね。駅前広場にはロータリーもまだ有りません。
同じころ駅前に有ったイトーヨーカドーの屋上から撮影した栃木駅の風景も紹介します。
栃木駅前ヨーカドー屋上より(昭和51年頃).jpg
こうして改めて見ると、栃木駅前は意外と雑然としていたものですね。そして駅南にはまだ多くの田畑が広がっていました。

駅の中に入って行きます。1974年から1975年頃の撮影したものです。
改札口を入って1番線、小山方面ホームの様子を、2番線ホームより撮影しました。
両毛線2番線ホームより1番線ホームを撮影.jpg
その1番線ホームより、2・3番線ホーム、さらにその奥の東武線ホームを写した写真です。
1番線ホームより東武線ホームを撮影.jpg
そして、一番南側の東武線ホームの様子を写した写真。特急きぬ号が通過中
東武線ホームの様子.jpg

この間までこの駅から東京や日光・宇都宮方面に出かけていたのに、もう昔のことになってしまいました。
栃木駅も今はすっかり変わってしまいました。


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この秋最初のサザンカの花が咲きました。 [草花]

今朝、庭のサザンカの木に、この秋最初の花が咲いているのを、見つけ早速写真に収めました。
サザンカの花が1輪咲きました.jpg
サザンカの花が咲きました.jpg
早速、花をみつけた蜂がやって来ました。
早速蜂が見つけました.jpg

朝の天気予報によると、栃木県の今日の最高気温は28度と、暑くなると伝えていました。でも明日は一転して22度、明後日は20度と寒くなると言うので、この天気は逃がせないと、シーツを洗濯し、布団を干しました。そんなこんなで、朝から汗びっしょりになってしまいました。

冬の到来を感じて、サザンカも開花を始めています。木には沢山の蕾がふくらんで来ています、そろそろ冬支度の準備をしようか。
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謡坂(栃木市)に建つ石碑 [石碑]

栃木市から佐野市に行くルートのひとつに、主要地方道75号線(栃木・佐野線)が有ります。
この道路は、栃木市街地の中心点(倭町交差点)を起点として、西に向かい皆川城内町を抜け、廻り峠を越え、岩舟町小野寺を抜け佐野市伊勢山町で、主要地方道67号(桐生・岩舟線)と合わさる、伊勢山町交差点を終点としていますが、今回紹介する石碑が建つ謡坂(うたいざか)はこの道路の栃木市と佐野市の境界線となる地点に成ります。

石碑は、この栃木市と佐野市との境界線近くの、栃木市側の道路脇に建てられています。
道路脇と言っても、この道路、現在私たちが通常通行している道路では有りません。現在の道路の西側にほぼ並行して有る旧道の方に成ります。

この旧道、私も今回初めて通りましたが、「謡坂」の名称の通り、道路幅4から5メートル程の峠道になっていて、坂の一番高くなっている所が、市の境に成っている様で、「佐野市」と書かれた道路標識が立てられていました。

栃木市側から行くと、この「謡坂」の旧道は、岩舟町小野寺の集落を抜けて、北関東自動車道の高架下を潜った直ぐその先で、道路は大きく右にカーブをしていきますが、その手前で右側に分岐する細い道路が旧道の入口です。
謡坂1.jpg

旧道に入ると、道路は上り坂と成ります。道路の両側には人家や神社などが見られます。
謡坂2jpg.jpg

更に進むと、道路は更に狭くなってきました。道路の右側に今回紹介する石碑が現れました。その手前に白色のポールが建っていますが、以前ここに「岩舟町」と書かれた道路標識が有りました。
謡坂3.jpg

道路はまだ登って行きますが、坂を登り切った地点に「佐野市」と記した道路標識が建っています。
謡坂4.jpg

佐野市側に入ると道路は下り坂と成ります。道路脇の雑木の為道路が狭くなっています。
謡坂5.jpg

更に下って行くと、次第に視界が開けて、前方で広い道路に合流して行きます。旧道はここまでで、元の道路に戻りました。
謡坂6.jpg

上の写真の中央奥に、山を崩して砕石を採っている様子が写っていますが、元々この旧道の東側にも西側同様山になっていました。旧道は正に山合を抜ける峠道でした。
現在通行している新道は、山を崩して低くなった所を利用して道路が作られたことに成ります。新道は旧道の地点よりも20メートル程低いルートを通しています。

謡坂新道.jpg
上の写真は、新道脇から南方向を撮影したもので、道路右側(西側)の山の中程に、電柱が並んでいるのが確認出来ます。その所に旧道が走っています。
写っている山の標高は約160メートル程で、旧道の坂の最高点は75メートル程、私が写真を撮っている場所が丁度標高50メートル程度です。この新道が抜けている場所には、標高100メートル程の山が有りました。国土地理院が昭和32年5月30日に発行した5万分の1の「栃木」の地形図を確認すると、まだ新道は無く旧道が切通状に山合を抜けている状態で描かれています。そしてそこに「謡坂」と記されています。
ただそれは坂の名前ではなくその所の字名になります。イコール坂の名前でも有ります。

現在新道の東側にて、山を削って砕石を採取している会社の名前は、「株式会社藤坂」と言い、この場所の現場の名称は「音坂工場」となっています。
なぜ「謡坂工場」ではないのか、私は地元住民では無いので分かりませんが、「音坂」の方が言い易い気がします。
地名について岩舟図書館で資料を物色して行くと、「小野の里」という、小野寺むらづくり推進委員会発行 地域文化研究部会編集の小冊子が見つかりました。その中に「小野寺の地名」の一覧表が有り、そこに<謡坂 オトザカ(音)・ウタイザカ>と記されていました。地元の人達は、「オトザカ」と言っている様です。これで「音坂工場」となっていることに、納得しました。


前置きが長くなってしまいました。石碑を見ていきたいと思います。
石碑表面.jpg碑陰.jpg
石碑の正面からと裏側からの、2枚の写真を載せました。

道路側から見える、石碑正面には「坂路改修紀念碑」と有ります、その左側に「栃木県会議長 松永和一郎書」、その下には「石工 小田鐵碩■」(最後の文字は私には何の漢字か判断できなかった)
揮毫者と石工の署名部分は以下の写真の通りです。揮毫者「松永和一郎」氏の肩書部分もなかなか達筆で判断に迷いましたが、碑陰の功労者に「松永和一郎」氏の名前が有り、その肩書の文字で判明しました。
揮毫者署名.jpg石工署名.jpg

次に碑陰を見てみます。
最上部に、「改修貢献者芳名」として、関係役所の土木課長さんや土木主幹・土木技手の氏名が並んでいます。この紀念碑の対象とした事業は1回では無く、6回の事業に渡っていることが分かります。
一番古い所は「大正十一年郡道謡坂改修」それから大正十三年、大正十五年、昭和二年、と続き最後が「昭和四年縣道謡坂改修」となっています。時代の流れで「郡道謡坂」から「縣道謡坂」に変わって来ています。それぞれの事業で関係した役所の人物が記されています。
そして最後に「功労者」として二名の名前が並んでいます。一人は碑銘を揮毫した「栃木縣會議長 松永和一郎」氏、そしてもう一人は「栃木縣農會議員 野尻金一郎」氏です。
次の2段目から8段目にわたって、「寄附者芳名」がずらっと並んでいます。
その人数は重複も有りますが、「他所」が174名、「地元」が125名となっています。
一番下の段には「工事関係者氏名」が並んでいます。
碑陰の文字を必死に読み移してみました。上下を分割して掲載します。

碑陰上半分.jpg碑陰下半分.jpg

石碑を観察している中で、幾つかの疑問が出てきました。
その一つ疑問は、寄附者を「他所」と「地元」に分けて有りますが、「地元」と言うのは、「小野寺村に限定されるのだろうか。逆に「他所」はどこなのか、「他所」の人の名前の上に小さく住所が記されています。
確認出来た地名は「犬伏町」「堀米町」「足利市」「三谷」「藤岡町」「新里」「佐野町」「上岡」「赤見」「岩舟」「吉水」「旗川」などです。ここに出てこなかったのが「地元」に成るのでしょうが、「大字小野寺」(現在の栃木市岩舟町小野寺)です。石碑が建てられている地点も「小野寺」ですから、これで間違いないでしょう。

次に湧きあがった疑問は、石碑碑陰の最下段「工事関係者氏名」に関してです。
その冒頭に出てくる「阿蘇郡」に列挙されている「発起者」や「世話人」です。
「板橋六郎」「菊池徳太郎」(犬伏町)、「田口勝次郎」(堀米町)、「石塚由蔵」「石塚七平」「金田幸吉」「野本藤吉」(佐野町)。これらの人達は「寄附者芳名」欄でも「他所」の列に全て名を連ねています。
何故、地元民では無い人達が、発起者や世話人で、小野寺の人達でないのか。
ちなみにその次に続く「下都賀郡」の列に並ぶ「相談役」や「(工事)委員長」「副委員長」「會計」「常務委員」「委員」29名は、「寄附者芳名」欄では、「地元」の段に名を連ねています。
この疑問は今後機会が有ったら解明したいと思います。

最後の疑問、この石碑の建立時期は何時なのか、石碑には記されていないのです。
そこで、碑文に記された情報から類推をしていくと。
①最後の改修工事の時期は、昭和四年(1929)ですから、それよりも後に成ります。
②寄附者芳名欄に「栃木町」と出ているので、栃木市制施行昭和十二年(1937)よりも前に成ります。
この間に建てられたことに成ります。これ以上絞り込めませんでした。

石碑とは別ですが、現在私たちが通行している「新道」は、何時開通をしたのだろうか、気に成りました。
地形図では測量から発行までずいぶんタイムラグが有りますから、他の方法は。
国土地理院が提供しているインターネットの空中写真で確認出来ないか、検索してみました。
①平成6年(1994)11月4日撮影写真。旧道しか写っていません。これより後です。
②平成11年(1999)6月9日撮影写真。旧道に並行して新道が写っています。この年より前です。
  ※ちなみに平成11年6月1日発行の5万分の1「栃木」の地形図には、当然新道は描かれていません。

今、この旧道を通行する車は殆ど無くなりました。そしてこの石碑の存在も忘れられようとしています。

今回参考にした資料:
「小野の里」 小野寺むらづくり推進委員会発行
「栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人」 石崎常蔵著
「5万分の1地形図栃木」 国土地理院 昭和32年5月30日発行






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我家の回りの田圃で稲刈りが終わりいよいよ秋が深まります [自然の恵み]

10月に入って最初の週末、空は真っ青に晴れ上がっています。
この天候を待っていたかのように、昨日から今日に架けて我家の回りの田圃で、一斉に稲刈りが行われました。
あっちからこっちから、コンバインが走行音を鳴り響かせて、黄金色の田圃の中を右へ左へ走っています。
それでも人の姿は、どこも一人か二人です。旦那さんがコンバインを運転して、奥さんが周りで刈り残した稲穂を刈っているんでしょうか。
もう直ぐ収穫.jpg
しっかりと実って、収穫を待つ田圃

稲刈り.jpg
黄金色の田圃の中をコンバインが走りまわています。
稲刈り東.jpg

稲刈り西.jpg
西側の田圃、昨日一日コンバインが走り回って、すっかり刈り取られています。

疎開者1.jpgカマキリ.jpg
我家の網戸には田圃から疎開をして来た物か、カマキリやバッタが姿を現しています。

写真を撮っていると、目の前にトンボが現れ、塀のアルミサッシの先にとまりました。
トンボ.jpg

稲刈りも終えて、今年もまた一段と秋が深まって行きます。

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彼岸花が咲きました [草花]

今、田圃の畔や小川の土手には彼岸花が咲いています。
彼岸花1.jpg
彼岸花2.jpg
彼岸花3.jpg

道端には栗のイガが転がっています。

明日は9月23日秋分の日です。
我家の菩提寺、白旗山勝泉院では、彼岸中日に大施餓鬼会が行われて、例年境内にはお塔婆を受けに大勢の檀家の人達が集まりますが、新型コロナの感染対策の為、昨年に続き今年も、名前の順に3回に分けて行われます。
私の所は2回目、正午12時頃に来るよう事前案内が届きました。

お彼岸が過ぎれば、本格的な秋に入ります。
新型コロナの感染者数も、ここ数日、目に見えて減少してきています。
出来ればこのまま終息をしてくれればと願います。そして色付く紅葉を見に出かけられたら・・・・と。

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庭の花 [草花]

9月も10日を過ぎ、ここのところズッと不安定な陽気で、雨の日で肌寒い日が続いていたと思ったら突然30℃越えの暑い日と成ったりで、体調を崩しそうです。
我家の庭も、暑さや長雨でズット手入れをしてこなかったので、雑草が伸び放題で、今日は思い切って除草作業に専念し、ごみ袋4袋に詰め込みました。
塀際の草むらを刈り始めると、カエルやトカゲ、カマキリ等々が慌てて逃げ出す。3センチほどの赤ちゃんトカゲがブロック塀によじ登り、こちらの様子を窺う。
トカゲの家族の巣が有るのか、そこを刈るのは止めた。

少しさっぱりしたところで、今咲いている花を撮影しました。
花の知識は全くなく、自然に芽を出して来た物ばかり、毎年この時期に成ると、お約束した様に花を咲かせます。今は便利です、名前の分からない花は、携帯電話付属のカメラで花を写すとその花の名前を教えてくれるのですから。

濡れ縁の脇に咲く、ケイトウやシュウメイギクは雨戸の開け閉めに少し邪魔に感じますが、刈らずに残しました。
ケイトウの花1.jpgケイトウの花2.jpg

シュウメイギク1.jpgシュウメイギク2.jpg

シュウメイギクはまだ咲き始め、まだ蕾が沢山有りこれから色違いも咲き始めるか。
玄関の門扉横に、細く長い茎の先に線香花火の様に小さな白い花を咲かせる、韮の花。
韮の花1.jpg韮の花2.jpg

可憐な白い花を付けるタマスダレ。
タマスダレ1.jpg

これから秋が深まって行くと、又どんな花が咲きだすのか、季節はどんどん変わって行きます。
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福岡県八女市の星野川に架けられた「ひふみよ橋」 [橋梁]

今回巡る橋は、「ひふみよ橋」と称されている、福岡県八女市の星野川に架かる石橋です。
名前の通り、1(ひい)、2(ふう)、3(みい)、4(よお)の4本の橋をまとめた名称で、それぞれの橋には上流側から、「洗玉(せんぎょく)橋」、「寄口(よりぐち)橋」、「大瀬(だいぜ)橋」、「宮ヶ原(みやがはる)橋」という、橋名を持っています。
それでは何故「ひ・ふ・み・よ・橋」と称されるのか、「ひふみよ」はそれぞれの石橋の持っているアーチの数を表しています。即ち一番上流側に架かる「洗玉橋」は<単一式アーチ橋>、次の「寄口橋」は<二連式アーチ橋>、三番目の「大瀬橋」は<三連式アーチ橋>、そして一番下流に架かる「宮ヶ原橋」は<四連アーチ橋>に成っているので、この4本の石橋を総称して、「ひ・ふ・み・よ・橋」と呼ばれています。

八女市は福岡県の南端、南側は熊本県、東側は大分県と県境を成しています。
「ひ・ふ・み・よ・橋」が架かる星野川は、有明海に流れ込む「矢部川」の支流で、八女市の東の端、大分県との県境を成す山中(星野村)の沢水を源にしています。「ひ・ふ・み・よ・橋」が架けられている所は、星野川の下流域に有り、上陽町の北川内、上横山、下横山そして一番下流に架かる「宮ヶ原橋」が長野で、矢部川の合流点から5kmほど遡った地点に成ります。

それでは、「ひ・ふ・み・よ・橋」を上流側から順に巡って行きます。
まず最初は単一式アーチ型の「洗玉橋」です。
現在は直ぐ上流側に昭和36年(1961)3月に新しい鋼桁橋が架けられています。
洗玉橋全景.jpg

洗玉橋親柱の架橋年月示.jpg洗玉橋親柱の橋名表示.jpg

洗玉橋全景2.jpg

石造りの立派な高欄を持った、単一式アーチ型の石橋です。
擬宝珠を模った石の親柱に、橋名「洗玉橋」や架橋河川名「星野川」、そして架橋年月日「明治26年(1893)5月3日竣功」等が刻まれています。
右岸橋詰に平成7年11月21日上陽町教育委員会により、「上陽町指定文化財」として、橋の概要と架橋に至るエピソード等を記した石碑が設置されています。それによりますと石工棟梁は、橋本勘五郎と有ります。この人物は、熊本県の国指定重要文化財「通潤橋」架設時に副頭を務め、明治政府に呼ばれ、東京初の眼鏡橋である「神田筋違い眼鏡橋」などを架設しています。

「洗玉橋」の大きさは、橋長:32.5メートル、幅員:5.0メートル、径間:22.5メートルと記されています。

次の橋は、二連式アーチ型の「寄口橋」です。
現在は、上流の「洗玉橋」との中間に新しく「上名橋」が架けられ、「桜トンネル」とともに県道70号線のバイパス道で、旧道に架かる石橋「寄口橋」の負担軽減が図られています。

「寄口橋」に行った日は天候がよく暑い盛りでしたので、橋の下の川で水遊びする人が大勢来ていました。
寄口橋全景.jpg

寄口橋竣工表示1.jpg寄口橋竣工表示2.jpg

寄口橋全景2.jpg

高欄の端に竣工年を記したプレートが埋め込まれていますが、橋の右岸側と左岸側で異なった日付けが記されています。
大正9年(1920)7月竣工と有るのは、元々この橋本体が架橋されたもので、もう一方の、昭和45年(1970)2月竣功と有るのは、交通量の増加に伴い橋の両側を拡幅して歩道を設けた時の日付けに成ります。
「寄口橋」の大きさは、橋長:42.0メートル、幅員:4.0メートル、径間:16.5メートルと記されています。

3番目の橋は。三連式アーチ型の「大瀬橋」です。
大瀬橋全景.jpg

大瀬橋製造年月表示板.jpg大瀬橋橋名板.jpg

大瀬橋全景2.jpg

昭和50年(1975年)3月、石橋「大瀬橋」の下流側にピッタリとつけた形で桁橋が架けられ交通量の増加に対応した様です。アーチの間から増設した橋の橋脚が覗いています。
石橋の架橋年は、大正6年(1917)と伝えられています。洗玉橋を架けた橋本勘五郎の弟子「萩本卯作」や「川口竹次郎」などが建築に関わった大工や石工の名前が、アーチの頂上真ん中付近に刻銘されているそうですが、確認出来ませんでした。

「大瀬橋」の大きさは、橋長:45.5メートル、径間:12.0メートル、幅員データは確認できませんでした。
理由が分かりませんが橋詰に建てられた案内板の表示が剥がされていました。

最後、4番目は、四連アーチ型の「宮ヶ原橋」です。
宮ヶ原橋全景.jpg

宮ヶ原橋全景2.jpg

宮ヶ原橋災害復旧記念碑.jpg

宮ヶ原公園橋.jpg宮ヶ原公園橋橋名板.jpg宮ヶ原公園橋竣工年.jpg

上流から下流に来るにしたがって、川の幅が広くなっていくので、それに伴いそこに架けられる橋の長さも次第に長くなるのは当然でしょう。そこで橋のアーチの数が増えて行くのも必然の結果なのかもしれませんね。
この4番目の「宮ヶ原橋」の情報ですが、現地には何も掲示されてはいませんでした。
国土地理院地図(電子国土Web)を確認すると、橋の右岸近くに記念碑の地図記号が記されていますが、現地には違う場所に成りますが、「災害復旧事業 竣工記念碑 平成24年7月九州北部豪雨」が建てられていましたが、恐らくこれとは違う石碑が以前は建っていたのです。
私の蔵書「眼鏡橋」工学博士太田静六著にこう記されています。
<福岡県下には石造りアーチ橋が比較的に少なく、それも全部1連アーチ橋ばかりなのに、星野川にだけ2連・3連・4連アーチ橋が全部揃うのは面白いが、このような例は九州全体でも珍しい。上陽町の人も1連・2連・3連と各一つずつ揃うのに興味を抱いたと見えて、上記3橋を一括して一二三(ヒフミ)橋と呼んでいる。4連アーチ橋の宮ヶ原橋を抜かしたのは、厳密にはこの橋が上陽町でなく八女市に入るからであろう。代表して宮ヶ原橋を写真118にだしておくが、これは下流側から見た全景である。橋の左端に大きな記念碑が立ち、大正11年4月に竣工したことや、請負人は隣接する黒木町の豊嶋虎二郎であることなどが記されている。>この本が発行されたのが昭和55年ですから、事情が現在と少し異なっています。上陽町は現在は合併して八女市になっています。ただかつてあった大きな記念碑は現在無くなっています。おそらく平成24年の豪雨災害かなんらかで、流されてしまったのか、又はその復旧事業で、星野川の右岸側に、分水路の様な新しい河道が作られた折に撤去されたものか。(抜粋文中に有った「写真118」は著作権の関係で転載出来ませんが、確かに写真の左隅に大きな石碑が写っています。八女市ホームページ「上陽の石橋 ひふみよ橋」に掲載されている「宮ヶ原橋」の写真の橋の左端に石碑らしき物が写っています。もしも実際の石碑が今も保管されているのでしたら、現地に設置して頂きたいと願います。)
現在「宮ヶ原橋」の右岸側の河道に、新しい桁橋が架けられています。橋名は「宮ヶ原公園橋」、架橋されたのは「平成28年9月完成」となっています。

星野川に架かる4種類の石造りアーチ橋を巡って、今まで以上に「眼鏡橋」の虜になた気がします。

今回の参考資料:
八女市ホームページ「上陽の石橋 ひふみよ橋」
「眼鏡橋 日本と西洋の古橋」 工学博士太田静六著

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栃木の盆踊り唄 あれこれ [懐かしい写真]

8月ももうすぐ終わり、新型コロナ感染症の蔓延で、栃木市も未だに緊急事態宣言下に居ます。
不要不急の外出は自粛、市内の多くの公共施設が閉鎖となっています。
毎年行われていた夏のイベントも、何もかも中止に成り、街中の人通りもまばらです。

例年の8月であれば、あちらこちらで、「夏祭り」だ、「盆踊り大会」だ、「納涼祭」だ、等として夏を満喫しているところなのにと思います。

そこで、今回はそんな夏の風物詩のひとつ、「盆踊り」についての私の幼いころからの思い出を辿ってみたいと思います。

まだ小学校に通う前だったろうか、両親に連れられて「盆踊り」に行った時の記憶です。
会場は、栃木神明宮の南隣、現在「第二公園」となっている所。現在広場の中央にはクスノキが、大きく枝を伸ばして真夏に良い木陰を作っています。
第二公園のクスノキ.jpg
(今や第二公園のシンボル的存在のクスノキ)
今は無くなっていますが、そのクスノキの横に螺旋の滑り台が有って子供達が元気に遊んでいました。
第二公園の遊具で遊ぶ子供たち.jpg
(クスノキの下に有った螺旋状の滑り台、いつの間にか無くなっていました)
そのクスノキが、かつてどうだったのかもちろん記憶は有りませんが、その広場に櫓が組まれ、櫓から四方に祭提灯が架けられ、櫓の上では賑やかに笛や太鼓や鐘によるお囃子が演奏され、しわがれた爺さんの声がスピーカーから流れていました。
(ここで歌われていたものが、昔からこの地方で唄い伝えられた「盆踊り唄・口説き節」であることは、ずっと後の大人になってから知りました。「栃木市史 民俗編」の中に、「盆踊りの音頭」として、沢山の歌詞が紹介されています。「鈴木主水(もんど)」とか、「お吉清左」「国定忠治」などなど、聞き覚えが有りました。)
会場は大勢の人だかりで、小さかった私は、会場の中の様子を見る事は出来ませんでした。
曲が変わり、女性の歌声と成り、それが幼かった私の耳にも心地よく聞こえていました。それが「栃木音頭」でした。

小さい頃に、家に40センチメートル四方の、木製の箱型の蓄音器が有りました。蓋を開けるとターンテーブルが有り、レコード盤をセットしてハンドルを回して作動させました。何枚か残っていたレコード盤の中に「栃木音頭」と記された音盤が有り、何度か聞いた記憶が有りましたが、どんな曲だったかは全く記憶していません。

「栃木音頭」の歌詞を、しっかりと意識して聞いたのは、二十歳を過ぎてからで、勤労者が集う「勤労青少年ホーム」を利用するようになって、そこでお囃子会のメンバーに入って、八木節とか日光和楽音頭などと共に練習をしたのが始まりでした。
大杉囃子を練習するのに、仲間たちと小山市の小薬や小宅方面に出かけて、お囃子の練習している所を探しては、カセットテープに録音をさせて貰いました。(そのテープは今も大切に保管しています。)
「栃木音頭」や「栃木小唄」は踊り方を、民謡会の踊りの先生に教えて貰いました。
昭和47年8月には、勤労青少年ホームのテニスコートに本格的な櫓を組んで頂き、初めて櫓の上でお囃子を演奏しました。演奏するのはやはり日光和楽音頭と八木節でした。
「栃木音頭」と「栃木小唄」は録音され曲を流して踊って楽しみました。
栃木青少年ホーム盆踊り大会.jpg
(栃木市勤労青少年ホームのテニスコートで行われた盆踊り大会)
その当時は、盆踊りが盛大に行われていたのは、日光市の古河電気工業や真岡市でした。近くでは壬生町で藤井の「かんぴょう音頭」が有り、お囃子仲間と見に行ってきました。
その頃、栃木市では各地域、自治会等で盆踊りが行われていましたが、栃木市でも大きな祭にしたいと、栃木青年会議所が提唱して、昭和48年8月のお盆に、「10万人栃木まつり」として開催されました。
東中校庭に出現した盆踊りの櫓.jpg
(東中学校の校庭に組まれた櫓)
祭の初日は「栃木ヤングフェスティバル」として若者達が中心となってとして企画されました。
10万人栃木祭ヤングフェッティバル1.jpg
(中高生をはじめ、多くの若者が会場いっぱいに溢れた)
10万人栃木祭ヤングフェッセィバル.jpg
(櫓の脇で、井桁に組まれた丸太に火を付け、フィナーレのキャンプファイヤを楽しむ)

此の時昔から盆踊りで歌われてきた口説き節をリニューアルして「栃木やぐら音頭」がお披露目されました。
私が幼い時聞いた盆踊り唄です。
「栃木やぐら音頭」は、八木節と同じ歌詞で、七・七調です。八木節との違いは、お囃子と唄とがワンフレーズ毎に交互に唄い演奏されます。

<栃木名物 読み上げまする
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ

 陸の松島 太平山よ
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ

 桜つつじの 錦着山よ
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ

 女人平家で あの有名な
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ

 吉屋信子の 学びしところ
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ>
 
こんな感じで、音頭取りと囃子が掛け合いながら、進んで行きます。
上記の歌詞は、私が思い出すまま書きましたから、順不同かもしれませんが。
  
又、櫓音頭では音頭取りが交代するたびに、次のような口上が唄われます。

 <前の先生は 関東一よ
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ
 
  関東どころか 日本で一よ
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ
 
  前の先生の 読んだるように
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ
 
  うまいわけには 読めないけれど
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ
 
  鈴木主水を 読みあげまする
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ>

 こうして本題に入って行きます。ただ多くの唄の歌詞が長い為、まず最後まで唄われる事は無いようです。
 そこで

<まあだ まだまだ 読みたいけれど
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ

 後に先生 やまなすほどに
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ
 
 後は頼むよ 大先生に
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ
 
 頼みまするよ 品よく頼む
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ>

 こうして、音頭取りが順番に交代して行きます。
音頭取りによって、スピードが遅くなったり、調子が変わったりしますが、それも愛嬌に成ります。
調子よければ、踊りの輪もドンドン広がって行きます。
 
 
東中の校庭に櫓を組んで行われた盆踊りは2年間で、昭和50年8月から踊りの会場は大通りに変わりました。
大通り会場の踊りの列.jpg

大通り会場の踊りの列2.jpgしなやかに踊る.jpg
演奏に熱が入る.jpg

盆踊り唄として、メインは「栃木櫓音頭」と成りましたが、まだその頃は、各地域自治会等で開催される盆踊りでは、ま「日光和楽踊り」や「栃木音頭」も踊られました。

私の好みとしては「栃木音頭」が一番です。唄うような調子で筆記してみました。

<手拍子揃えて 踊りゃんせ~ (トコスットン スットントン トコ トコスットン スットントン)

  はぁあ~ あ あ あ あ~ あ~え~
  晴れの栃ぃ木ぃい~に~   コリャセ
  春ぅ 風ぇ 吹けぇばぁ~~
  街は黄金ぇえ~の コリャセ 
  街は黄金ぇえ~のぉ 花ぁ吹雪~
 手拍子揃えて 踊りゃんせ~ (トコスットン スットントン トコ トコスットン スットントン)

  はぁあ~ あ あ あ あ~ あ~え~
  春は 絵巻~ぃ~の コリャセ
  錦~着~山ぁに~
  つづく 花ぁ笠 コリャセ
  つづく 花笠 人ぉ~の 波
 手拍子揃えて 踊りゃんせ~ (トコスットン スットントン トコ トコスットン スットントン)

  はぁあ~ あ あ あ あ~ あ~え~
  唄も~可愛~い~い コリャセ
  娘ぇは 見頃~
  麻は 刈り~頃 コリャセ
  麻は 刈り頃 使ぁ~い頃
 手拍子揃えて 踊りゃんせ~ (トコスットン スットントン トコ トコスットン スットントン)

  はぁあ~ あ あ あ あ~ あ~え~
  さあっさ 繰りぃ~出~せ コリャセ
  祭~りの 太鼓~
  ドンと 響くぅ~は コリャセ
  ドンと 響くぅは 寄せぇ~太鼓
 手拍子揃えて 踊りゃんせ~ (トコスットン スットントン トコ トコスットン スットントン)

  はぁあ~ あ あ あ あ~ あ~え~
  さあっさ 踊~ろ~よ コリャセ
  シャ シャ~ン~ガ~ シャン~ト~
  花の 栃ぃ木ぃい~に コリャセ
  花の 栃木に~ 陽がぁ~昇る
 手拍子揃えて 踊りゃんせ~ (トコスットン スットントン トコ トコスットン スットントン)>

 前出した「栃木市史 民俗編」の中には上記の「栃木音頭」は掲載されていません。タイトルが「栃木音頭」と同じ名前の唄が有りましたが、私はそちらは聞いた事が有りません。

「栃木小唄」と言うものも有りました。これも「栃木市史 民俗編」の中に、サトウハチロー作詞の歌詞が掲載されていますが、私が知っている「栃木小唄」は又別の曲で、これも掲載されていません。

<ハァ~ ア~ ア~
 春は 花から ほのぼの 明けてょ~
 桜 つつじの 錦着山も~
 呼べよ 栃木の 晴れ姿 晴れ姿
 やんれ 栃木は よい ところ~

 ハァ~ ア~ ア~
 夏は あの娘と ネオンの 街をょ~ 
 涼み がてらに 仲よ~く ぬ~け~て~
 嬉~し 巴波の 蛍~狩 蛍狩
 やんれ 栃木は よい ところ~

 ハァ~ ア~ ア~
 秋は 太平 絵のよに 映えてょ~
 紅葉 錦の 化粧~姿~
 霞む 筑波も はづか~しや はづかしや
 やんれ 栃木は よい ところ~

 ハァ~ ア~ ア~
 冬は 山脈 屏風~に すえてよ~
 雪も 風情の 栃木の 街は
 あつ~い 人情の 花の~郷 花の郷
 やんれ 栃木は よい ところ~

 ハァ~ ア~ ア~
 さあっさ 踊ろよ 仲良く まるくょ~
 踊りゃ お国も まんま~る なぁ~て
 栃~木 繁昌の 灯もお~どる 灯もおどる
 やんれ 栃木は よい ところ~>

 上の「栃木音頭」も「栃木小唄」も、元々は栃木の花柳界の、芸者さん達により、お座敷で披露されていたものだったのでしょうか。演奏も三味線や小太鼓だった記憶が有ります。(録音していたテープは紛失しました)

幼いころの盆踊りの夜 人混みの向こうから聞こえた耳触りの良いお姉さんたちが唄う、盆踊り唄の思い出です。
又、踊りたくなりますね。


 

  

  



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