変わる栃木駅周辺の風景 [懐かしい写真]
栃木市街地にて、平成になって大きく変わった風景は、やはり栃木駅周辺だと思う。
栃木駅舎に関しては昨年(2014年11月9日)の私のブログで「旧栃木駅の風景」として紹介しました。
(1976年4月撮影、栃木ガス会社北側を通っていた両毛線、現在は県道31号線が通る。)
平成15年(2003)の栃木駅高架化に伴い、駅南へのアクセスが大幅に改善した。それまで沼和田町を抜ける県道153号線(南小林栃木線)は、JR両毛線と東武日光線の二つの踏切を通らなければならず、朝夕の出勤時間帯は渋滞が発生していた。それが現在では何のストレスも感じずに沼和田町に、そして駅南にも行くことが出来る。
(1980年撮影、沼和田東武線踏切) (2013年撮影、元踏切が有った場所)
国土地理院平成25年発行の栃木の地形図を参考に作成した、栃木駅周辺の概略図に鉄道高架化される前の、路線を重ねて見ると、東武日光線は殆ど移動していません。それに比較してJR両毛線は、栃木駅の東側のルートが大きく変わっています。現在は東武線の北側にぴったりと付いて、巴波川を渡っています。その後、従来の交差部付近で東武線の下を潜り、円通寺の北側付近で以前のルートに戻って、南東方向の思川駅に向かいます。
(栃木駅周辺概略図)
※JR両毛線の旧路線位置を朱書き追記。新しく通じた県道31号線、「いっちょう栃木店」北側までJR両毛線の線路が伸びていました。現在「学悠館高校」となっている所は以前は東武線の踏切と、両毛線の踏切との間に挟まれた所で、先に添付した写真に見える様に、「トリウミ味噌」の工場が有りました。
駅南の大平町上牛久(とりせん栃木駅南店の西側付近)に九十九曲り用水が流れていますが、最近まで川岸にはアジサイなどが咲いて長閑な風景でしたが、今は道路も広がり住宅街に変わっています。
(1993年九十九曲用水の奉行橋付近) (2014年大平町上牛久の風景)
現在、栃木翔南高の北側で建設が進んでいる「栃木地区メディカルセンター」が完成すると又、大きく変わって行くでしょう。
駅の西側は昔は、鍋山の石灰会社の倉庫が有り、貨物線を引き込んで貨車への積み込みを行っていたが、現在は「えきまえ公園」と変わっています。
(1976年撮影、両毛線第一佐野踏切より栃木駅構内方向を望む)
(1978年撮影、栃木駅西側の風景) (2014年撮影、栃木駅西側のえきまえ公園)
栃木自動車教習所やその西側も両毛線の高架で風景も大きく変わりました。
(1965年撮影) (2015年撮影)
最後に両毛線と県道31号線(栃木小山線)が交差した踏切に跨線橋が出来た当時の写真が有ります。その頃はまだ両毛線にも蒸気機関車が走っていました。
栃木駅舎に関しては昨年(2014年11月9日)の私のブログで「旧栃木駅の風景」として紹介しました。
(1976年4月撮影、栃木ガス会社北側を通っていた両毛線、現在は県道31号線が通る。)
平成15年(2003)の栃木駅高架化に伴い、駅南へのアクセスが大幅に改善した。それまで沼和田町を抜ける県道153号線(南小林栃木線)は、JR両毛線と東武日光線の二つの踏切を通らなければならず、朝夕の出勤時間帯は渋滞が発生していた。それが現在では何のストレスも感じずに沼和田町に、そして駅南にも行くことが出来る。
(1980年撮影、沼和田東武線踏切) (2013年撮影、元踏切が有った場所)
国土地理院平成25年発行の栃木の地形図を参考に作成した、栃木駅周辺の概略図に鉄道高架化される前の、路線を重ねて見ると、東武日光線は殆ど移動していません。それに比較してJR両毛線は、栃木駅の東側のルートが大きく変わっています。現在は東武線の北側にぴったりと付いて、巴波川を渡っています。その後、従来の交差部付近で東武線の下を潜り、円通寺の北側付近で以前のルートに戻って、南東方向の思川駅に向かいます。
(栃木駅周辺概略図)
※JR両毛線の旧路線位置を朱書き追記。新しく通じた県道31号線、「いっちょう栃木店」北側までJR両毛線の線路が伸びていました。現在「学悠館高校」となっている所は以前は東武線の踏切と、両毛線の踏切との間に挟まれた所で、先に添付した写真に見える様に、「トリウミ味噌」の工場が有りました。
駅南の大平町上牛久(とりせん栃木駅南店の西側付近)に九十九曲り用水が流れていますが、最近まで川岸にはアジサイなどが咲いて長閑な風景でしたが、今は道路も広がり住宅街に変わっています。
(1993年九十九曲用水の奉行橋付近) (2014年大平町上牛久の風景)
現在、栃木翔南高の北側で建設が進んでいる「栃木地区メディカルセンター」が完成すると又、大きく変わって行くでしょう。
駅の西側は昔は、鍋山の石灰会社の倉庫が有り、貨物線を引き込んで貨車への積み込みを行っていたが、現在は「えきまえ公園」と変わっています。
(1976年撮影、両毛線第一佐野踏切より栃木駅構内方向を望む)
(1978年撮影、栃木駅西側の風景) (2014年撮影、栃木駅西側のえきまえ公園)
栃木自動車教習所やその西側も両毛線の高架で風景も大きく変わりました。
(1965年撮影) (2015年撮影)
最後に両毛線と県道31号線(栃木小山線)が交差した踏切に跨線橋が出来た当時の写真が有ります。その頃はまだ両毛線にも蒸気機関車が走っていました。
足尾銅山(2002年2月) [懐かしい写真]
昨今、廃墟ブームと言う言葉に出合う事が良くある。一時テレビで取り上げられていた、長崎の端島(通称軍艦島)は明治時代から昭和時代にかけて、海底炭鉱によって栄え、東京以上の人口密度を有していた。昭和四十九年(1974)の閉山に伴って、島民が島を離れてからは無人島になっているが、平成二十一年(2009)一月に「九州・山口近代化産業遺跡群」の一部として、世界遺産暫定リストに追加記載されるに至っています。
我が栃木県においても地元日光市(旧足尾町)を中心に、足尾銅山の世界遺産登録を目指して、平成17年(2005)から活動をしている事を知りました。
私も田中正造や足尾鉱毒事件の話から、以前から足尾の町には興味が有りました。このブログにても、今年の1月31日に栃木県内にて最初の鉄製橋梁としての「古河橋」について少し書きましたが、2002年2月頃何度か足尾町を訪れました。その時に撮影をした物を何点か紹介いたします。
(松木川<現在は渡良瀬川>の右岸に沿って立ち並ぶ、足尾製錬(株)の建屋群)
(渡良瀬川の上流、三川合流点に架かる仁田元沢水管橋)
(足尾通洞変電所)
(足尾通洞動力所) (本山坑に向かう途中、沢に架かる廃橋)
(掛水俱楽部近くに有る赤煉瓦倉庫)
まだ13年しかたっていませんが、その当時足尾銅山の建物はかなり廃墟化が進んでいる様に見えましたが、現在の状況は分かっていません。足尾製錬(株)の工場建屋は殆ど解体撤去されたと聞いています。少し陽気が良くなったら又、出かけて見たいと思っております。
我が栃木県においても地元日光市(旧足尾町)を中心に、足尾銅山の世界遺産登録を目指して、平成17年(2005)から活動をしている事を知りました。
私も田中正造や足尾鉱毒事件の話から、以前から足尾の町には興味が有りました。このブログにても、今年の1月31日に栃木県内にて最初の鉄製橋梁としての「古河橋」について少し書きましたが、2002年2月頃何度か足尾町を訪れました。その時に撮影をした物を何点か紹介いたします。
(松木川<現在は渡良瀬川>の右岸に沿って立ち並ぶ、足尾製錬(株)の建屋群)
(渡良瀬川の上流、三川合流点に架かる仁田元沢水管橋)
(足尾通洞変電所)
(足尾通洞動力所) (本山坑に向かう途中、沢に架かる廃橋)
(掛水俱楽部近くに有る赤煉瓦倉庫)
まだ13年しかたっていませんが、その当時足尾銅山の建物はかなり廃墟化が進んでいる様に見えましたが、現在の状況は分かっていません。足尾製錬(株)の工場建屋は殆ど解体撤去されたと聞いています。少し陽気が良くなったら又、出かけて見たいと思っております。
昭和40年頃の栃木市の風景 [懐かしい写真]
昭和40年と言えば、もう半世紀も前になります。
その頃の栃木市は田畑が多く、広々とした風景が多かった。高い建物などもほとんど無かった。
その頃の私は家のカメラを持ち出しては、栃木の町の中を、所構わず写真を撮っていました。
ですから、今になって残っている写真を見ても、どこを撮ったものか思い出せない風景が沢山有ります。
時々町を歩いていて、「あ!ここを撮っていた」と面影が残る風景に出合う事が有ります。
今回紹介する写真の中にも勘違いをしている物も有るかも知れません。出来るだけ確かの写真を添付いたしました。
(1965年3月、栃木西中学校遠景) (1965年10月、栃西中テニスコート)
(1963年7月、太平山遊覧道路よりゴルフ場を) (1965年9月、栃木自動車教習所)
私が自動車教習所に通っていたころは、本当に混んでいました。1月の寒い朝早く行って受け付けないと、待ち時間が長くて大変でした。
(1967年2月、薗部町一丁目より太平山を) (同日、永野川右岸より。奥には高橋が。)
(1965年9月、吹上中学校遠望) (1965年12月、新井町にて)
(1965年12月、大岩橋付近の永野川) (1965年12月、二杉橋付近の永野川)
(1965年10月、柳橋町付近) (1968年10月、日限富士浅間神社の鳥居)
柳橋町の写真は、今の芳賀耳鼻咽喉科医院付近から北の方向を撮影したもので、今は住宅が密集して、遠くを見通す事など到底できません。はるか遠くに日光連山がうっすらと写っていました。
その頃の栃木市は田畑が多く、広々とした風景が多かった。高い建物などもほとんど無かった。
その頃の私は家のカメラを持ち出しては、栃木の町の中を、所構わず写真を撮っていました。
ですから、今になって残っている写真を見ても、どこを撮ったものか思い出せない風景が沢山有ります。
時々町を歩いていて、「あ!ここを撮っていた」と面影が残る風景に出合う事が有ります。
今回紹介する写真の中にも勘違いをしている物も有るかも知れません。出来るだけ確かの写真を添付いたしました。
(1965年3月、栃木西中学校遠景) (1965年10月、栃西中テニスコート)
(1963年7月、太平山遊覧道路よりゴルフ場を) (1965年9月、栃木自動車教習所)
私が自動車教習所に通っていたころは、本当に混んでいました。1月の寒い朝早く行って受け付けないと、待ち時間が長くて大変でした。
(1967年2月、薗部町一丁目より太平山を) (同日、永野川右岸より。奥には高橋が。)
(1965年9月、吹上中学校遠望) (1965年12月、新井町にて)
(1965年12月、大岩橋付近の永野川) (1965年12月、二杉橋付近の永野川)
(1965年10月、柳橋町付近) (1968年10月、日限富士浅間神社の鳥居)
柳橋町の写真は、今の芳賀耳鼻咽喉科医院付近から北の方向を撮影したもので、今は住宅が密集して、遠くを見通す事など到底できません。はるか遠くに日光連山がうっすらと写っていました。
1974年大平町下皆川・西山田の点景 [懐かしい写真]
今、目の前に有る風景がずっと残る事は無い。それは今日・明日に変わるものでは無いが、ある日気が付くといつの間にか変わっている。二度と見る事が出来なくなってから、懐かしく思い出す風景が幾つも有る。なぜ写真に撮っておかなかったのかと、悔やむことも多い。でもそれはいつも無くなってから思うのです。
今回の懐かしい風景は大平町の下皆川から岩舟町に向かう道沿いで撮影をした写真です。
撮影をしたのは、1974年2月でした。
最初は下皆川の火の見櫓です。バックに見える煙突は「大平酒造」です。カラー写真も有りましたが、色褪せしています。
そして次の写真はその「大平酒造」を近くに寄って撮影した物です。明治元年(1868)に創業をした老舗の造り酒屋で、「黒龍」の銘柄を代々造っていました。
現在の大平酒造株式会社の写真です。今も以前の建物が健在です。趣が有って、昔ながらの酒蔵が残っております。ただ現在は、職人不足により工場での酒造りが出来なくなり、委託製造をした酒を販売している様です。
もう一ヶ所は、大平町と岩舟町の境辺りだったと記憶しています。カラー写真の背景に岩船山が見えます。田圃の中に揚水ポンプでしょうか。なぜかその時も懐かしい感じがして、遠くからや、近くに寄ってと何枚もアングルを変えて撮りました。
今回の懐かしい風景は大平町の下皆川から岩舟町に向かう道沿いで撮影をした写真です。
撮影をしたのは、1974年2月でした。
最初は下皆川の火の見櫓です。バックに見える煙突は「大平酒造」です。カラー写真も有りましたが、色褪せしています。
そして次の写真はその「大平酒造」を近くに寄って撮影した物です。明治元年(1868)に創業をした老舗の造り酒屋で、「黒龍」の銘柄を代々造っていました。
現在の大平酒造株式会社の写真です。今も以前の建物が健在です。趣が有って、昔ながらの酒蔵が残っております。ただ現在は、職人不足により工場での酒造りが出来なくなり、委託製造をした酒を販売している様です。
もう一ヶ所は、大平町と岩舟町の境辺りだったと記憶しています。カラー写真の背景に岩船山が見えます。田圃の中に揚水ポンプでしょうか。なぜかその時も懐かしい感じがして、遠くからや、近くに寄ってと何枚もアングルを変えて撮りました。
1970年代の栃木市、こんな風景覚えていますか。 [懐かしい写真]
1970年代と言うと昭和45年から55年ですが、この頃の栃木市の懐かしい風景。
今となってはもう見る事が出来無い風景。そんな写真をアルバムから引っ張り出しました。
この風景は新井町の瓦を干している所、背景に男体山の頭がのぞいています。
次の写真は、同じ場所で瓦を焼く窯の写真です。
これは万町交番前交差点の北東側の角、今は更地になって広告の看板が建っています。
次は境町の旧日光例幣使街道沿いの風景、今は駐車場に変わっています。
(右は現在)
倭町一丁目、自慢焼の富士屋さんの店頭。化粧看板で立派な見せ蔵が隠れていました。
県道269号線(太平山公園線)の祝町付近。現在はヨークベニマル栃木店の所。
城内町の栃木ガスのタンク、そして右は旧栃木消防署の火の見櫓、どちらも今は有りません。
今となってはもう見る事が出来無い風景。そんな写真をアルバムから引っ張り出しました。
この風景は新井町の瓦を干している所、背景に男体山の頭がのぞいています。
次の写真は、同じ場所で瓦を焼く窯の写真です。
これは万町交番前交差点の北東側の角、今は更地になって広告の看板が建っています。
次は境町の旧日光例幣使街道沿いの風景、今は駐車場に変わっています。
(右は現在)
倭町一丁目、自慢焼の富士屋さんの店頭。化粧看板で立派な見せ蔵が隠れていました。
県道269号線(太平山公園線)の祝町付近。現在はヨークベニマル栃木店の所。
城内町の栃木ガスのタンク、そして右は旧栃木消防署の火の見櫓、どちらも今は有りません。
栃木市の風景、前はこんなだった。 [懐かしい写真]
今回も、私のアルバムから、「前はこんなだった!」と言う写真を紹介致します。
何時の間に変わったのか知らないうちに栃木市もドンドン変わっていますね。
最初は現在栃木市役所の駐車場になっている「開運橋」下流左岸(東側)には以前は高層住宅でした。1階は店舗になっていて、寿司店なども入っていました。私もこんな所に住んでみたいと、憬れたものです
(2014年11月撮影) (1978年撮影)
次は元栃木市役所別館の東側に建つ「栃木聖公教会」。以前は煉瓦の塀の中に木造で赤い屋根の上に十字架が建っていてモダンだった印象が残っています。現在の建物はそれもまたコンクリートの打ちっぱなしの様な外観でまさに現代建築と言った感覚です。
(2014年11月撮影) (1981年撮影)
最後は巴波川に架かる「幸来橋」から西への湊町通りを少し進んで右手、小井沼商店西側の交差点の角にポケットパークが有りますが、ここには以前「湊町交番」が有りました。
(2014年11月撮影)
(1978年撮影)
何時の間に変わったのか知らないうちに栃木市もドンドン変わっていますね。
最初は現在栃木市役所の駐車場になっている「開運橋」下流左岸(東側)には以前は高層住宅でした。1階は店舗になっていて、寿司店なども入っていました。私もこんな所に住んでみたいと、憬れたものです
(2014年11月撮影) (1978年撮影)
次は元栃木市役所別館の東側に建つ「栃木聖公教会」。以前は煉瓦の塀の中に木造で赤い屋根の上に十字架が建っていてモダンだった印象が残っています。現在の建物はそれもまたコンクリートの打ちっぱなしの様な外観でまさに現代建築と言った感覚です。
(2014年11月撮影) (1981年撮影)
最後は巴波川に架かる「幸来橋」から西への湊町通りを少し進んで右手、小井沼商店西側の交差点の角にポケットパークが有りますが、ここには以前「湊町交番」が有りました。
(2014年11月撮影)
(1978年撮影)
永野川に架かる上人橋、錦着山から撮影 [懐かしい写真]
上人橋は栃木市の市街地の西側、錦着山と太平山の間を流れる、巴波川の支流です。
春、太平山の桜を見に行こうとすると、大体錦着山の横を通り永野川のこの橋を渡ります。
この上人橋を錦着山の上から定点撮影をしました。古い順から紹介いたします。
まずこの写真は1966年に撮影をしたものです。
このころ私は栃木工業高校に通っていましたので、3年間毎日この橋を渡っていました。
写真を見る通り、付近に人家はほとんどない状態でした。
二枚目の写真は1980年頃に撮影をしたものです。
水道山にタンクが一つ出来ています。山と永野川の間に栃木市民プールが写っています。当時としては珍しい流れるプールです。特徴的な物は上人橋が二本架かっています。新しい上人橋は1974年竣工されました。
三枚目の写真は昨年撮影をしたものです。
水道山のタンクが二つに増えています。すでに流れるプールは無く、住宅地に変わっています。すでに古い上人橋は撤去されています。
その時その時は毎日同じ風景と思っていましたが、振り返って見ると全然違う景色です。それでもバックに移る太平山はずっと変わっていません。
春、太平山の桜を見に行こうとすると、大体錦着山の横を通り永野川のこの橋を渡ります。
この上人橋を錦着山の上から定点撮影をしました。古い順から紹介いたします。
まずこの写真は1966年に撮影をしたものです。
このころ私は栃木工業高校に通っていましたので、3年間毎日この橋を渡っていました。
写真を見る通り、付近に人家はほとんどない状態でした。
二枚目の写真は1980年頃に撮影をしたものです。
水道山にタンクが一つ出来ています。山と永野川の間に栃木市民プールが写っています。当時としては珍しい流れるプールです。特徴的な物は上人橋が二本架かっています。新しい上人橋は1974年竣工されました。
三枚目の写真は昨年撮影をしたものです。
水道山のタンクが二つに増えています。すでに流れるプールは無く、住宅地に変わっています。すでに古い上人橋は撤去されています。
その時その時は毎日同じ風景と思っていましたが、振り返って見ると全然違う景色です。それでもバックに移る太平山はずっと変わっていません。
栃木市、こんな風景が有りました。 [懐かしい写真]
時代の流れから取り残されたような、栃木市ですがそれでも昭和の風景が次第に消えたり、新しく生まれ変わったりしています。今回は「この間まで有ったのに!」とか、「いつの間に変わったの!」と感じる「栃木市、こんな風景が有りました。」をご紹介いたします。
まず栃木駅北口から大通りを進んで行くと、河合町交差点に出ます。
以前ここはT字路で東に抜ける道は有りませんでした。そこには栃木商工会館の建物が建っていました。
(現在の風景)
(1964年頃の風景)
栃木駅周辺は駅舎の高架化に伴い、道路状況も大幅に変わっています。
大通りを更に北上します。巴波川に架かる「関門橋」が有ります。この付近から道路前方を見ると現在はNTTのビルの上の通信用アンテナの鉄塔が見えますが、以前はその手前に栃木警察署や栃木消防署が有り、消防署の火の見櫓が建っていました。
(現在の風景) (1964年頃の風景)
現在では警察署も消防署も他に移転して跡地は今も空き地のままで、臨時駐車場として利用されています。
大通りを更に北上すると万町交番前交差点が有りますが、ここも昔から大分風景が変わっています。
交差点の南東角に「万町交番」が有りますが、現在は蔵の街の交番という事で、建物が蔵の形に変わっています。又交番の南側には依然栃木郵便局のビルが有りましたが、現在は公園になっています。
(現在の風景)
(1965年頃の風景)
今では、昔の風景を全く知らない人の方が多くなっているかも知れません。
今後もそんな風景を紹介していきたいと思います。
まず栃木駅北口から大通りを進んで行くと、河合町交差点に出ます。
以前ここはT字路で東に抜ける道は有りませんでした。そこには栃木商工会館の建物が建っていました。
(現在の風景)
(1964年頃の風景)
栃木駅周辺は駅舎の高架化に伴い、道路状況も大幅に変わっています。
大通りを更に北上します。巴波川に架かる「関門橋」が有ります。この付近から道路前方を見ると現在はNTTのビルの上の通信用アンテナの鉄塔が見えますが、以前はその手前に栃木警察署や栃木消防署が有り、消防署の火の見櫓が建っていました。
(現在の風景) (1964年頃の風景)
現在では警察署も消防署も他に移転して跡地は今も空き地のままで、臨時駐車場として利用されています。
大通りを更に北上すると万町交番前交差点が有りますが、ここも昔から大分風景が変わっています。
交差点の南東角に「万町交番」が有りますが、現在は蔵の街の交番という事で、建物が蔵の形に変わっています。又交番の南側には依然栃木郵便局のビルが有りましたが、現在は公園になっています。
(現在の風景)
(1965年頃の風景)
今では、昔の風景を全く知らない人の方が多くなっているかも知れません。
今後もそんな風景を紹介していきたいと思います。
栃木市立第二小学校、消えし我が母校 [懐かしい写真]
私が小学生時代に6年間通った学校は消えた。校舎も母校の名前すらも。
私が通った小学校「栃木市立栃木第二小学校は、明治の初めに栃木県庁が置かれた、「旧県庁掘り」の中に建っていました。
私が1年生で入学をした時、丁度校舎が新築されたばかりの鉄筋コンクリートの3階建てと、その南側に職員室や図書室、特別室の入った2階建ての2棟でした。
3階建ての教室棟は昇降口が、校舎の左右と中央の3ヶ所有って、1・2年生は中央昇降口で私の教室「1年1組」は昇降口の東隣りでした。
教室の配置は中央昇降口の左右に各5教室。1階東が1年生、西側が2年生。2階東が3年生、西が4年生。3階東が5年生、西側が6年生の配置でした。
校庭もまだ、この前まで市役所だった建物も無く、南側の旧県庁掘りまで有り、堀の向こう側には第一小学校が有りました。一番驚いたのはトイレが水洗式だった事です。真新しい校舎も当時の私は古い木造の校舎を知らなかったので、それが当たり前だったと思っていました。(中学生になって木造校舎の栃木西中学校に通うまでは)
6年間、多くの友達と出会い、多くの先生方から色々な事を教えて頂き、多くの経験をした思い出多い校舎が無くなってしまいました。
少子化と都市のドーナツ化現象の影響でしょうか。その傾向は思えば私の頃から始まっていた様に思います。私の時まで5クラス有った学年も次の年から4クラスに減っていました。
そして自分の子供達が入る時には、3クラスから2クラスへと成って来ていました。
平成22年3月に栃木第二小学校は、お隣の栃木第一小学校と共に閉校となりました。
そして二つの学校が統合されて、新しく「栃木市立栃木中央小学校」として開校されました。
栃二小の校舎は解体された新しい中央小の校舎の建設が始まり、平成24年2月14日に新校舎が完成しました。ここで又、新しい歴史が作られて行くのでしょう。
(校舎が解体され更地と化した校庭に取り残されたような滑り台が寂しそうに感じます。)
(新しい校舎が眩しく感じます。)
私の学んだ校舎は、私のアルバムの中で有り続けます。
私が通った小学校「栃木市立栃木第二小学校は、明治の初めに栃木県庁が置かれた、「旧県庁掘り」の中に建っていました。
私が1年生で入学をした時、丁度校舎が新築されたばかりの鉄筋コンクリートの3階建てと、その南側に職員室や図書室、特別室の入った2階建ての2棟でした。
3階建ての教室棟は昇降口が、校舎の左右と中央の3ヶ所有って、1・2年生は中央昇降口で私の教室「1年1組」は昇降口の東隣りでした。
教室の配置は中央昇降口の左右に各5教室。1階東が1年生、西側が2年生。2階東が3年生、西が4年生。3階東が5年生、西側が6年生の配置でした。
校庭もまだ、この前まで市役所だった建物も無く、南側の旧県庁掘りまで有り、堀の向こう側には第一小学校が有りました。一番驚いたのはトイレが水洗式だった事です。真新しい校舎も当時の私は古い木造の校舎を知らなかったので、それが当たり前だったと思っていました。(中学生になって木造校舎の栃木西中学校に通うまでは)
6年間、多くの友達と出会い、多くの先生方から色々な事を教えて頂き、多くの経験をした思い出多い校舎が無くなってしまいました。
少子化と都市のドーナツ化現象の影響でしょうか。その傾向は思えば私の頃から始まっていた様に思います。私の時まで5クラス有った学年も次の年から4クラスに減っていました。
そして自分の子供達が入る時には、3クラスから2クラスへと成って来ていました。
平成22年3月に栃木第二小学校は、お隣の栃木第一小学校と共に閉校となりました。
そして二つの学校が統合されて、新しく「栃木市立栃木中央小学校」として開校されました。
栃二小の校舎は解体された新しい中央小の校舎の建設が始まり、平成24年2月14日に新校舎が完成しました。ここで又、新しい歴史が作られて行くのでしょう。
(校舎が解体され更地と化した校庭に取り残されたような滑り台が寂しそうに感じます。)
(新しい校舎が眩しく感じます。)
私の学んだ校舎は、私のアルバムの中で有り続けます。
旧栃木駅の風景 [懐かしい写真]
旧JR両毛線栃木駅の駅舎は2003年の栃木駅周辺の踏切解消を目的とした高架化に伴い撤去されました。まずは現在の駅舎の風景です。
栃木市の市街地に通じる北口駅前ロータリーにはモニュメントが設置されました。
すっかり近代的な駅舎に変わってしまっていますが、旧駅舎の風景を振り返って見ましょう。
まずは、以前駅前に有ったイトーヨーカドーの屋上から見た旧栃木駅舎です。
駅の南側には、まだ田畑が多く見受けられます。次は駅前の夜の風景です。
写真は1976年3月夜9時ごろに撮影したものです。下は同じ時に栃木駅南西側より撮影。
次は同じく駅南西側からを昼間撮影した写真です。奥にイトーヨーカドーが見えます。
撮影は同じ1976年の4月です。
栃木駅にはJR両毛線と東武日光線が有りますが、両毛線は東西方向で、日光線は南北方向の路線の為、必ず交差をすることになります。次の写真はその交差ポイントの写真です。
上の線路が東武日光線でここから大きく北にカーブして新栃木駅に向かいます。
1976年ごろは城内町二丁目でも、東武線の南側は水田が有りました。
この昭和時代の旧栃木駅舎は現在栃木市総合運動公園西側に移築されています。
栃木市の市街地に通じる北口駅前ロータリーにはモニュメントが設置されました。
すっかり近代的な駅舎に変わってしまっていますが、旧駅舎の風景を振り返って見ましょう。
まずは、以前駅前に有ったイトーヨーカドーの屋上から見た旧栃木駅舎です。
駅の南側には、まだ田畑が多く見受けられます。次は駅前の夜の風景です。
写真は1976年3月夜9時ごろに撮影したものです。下は同じ時に栃木駅南西側より撮影。
次は同じく駅南西側からを昼間撮影した写真です。奥にイトーヨーカドーが見えます。
撮影は同じ1976年の4月です。
栃木駅にはJR両毛線と東武日光線が有りますが、両毛線は東西方向で、日光線は南北方向の路線の為、必ず交差をすることになります。次の写真はその交差ポイントの写真です。
上の線路が東武日光線でここから大きく北にカーブして新栃木駅に向かいます。
1976年ごろは城内町二丁目でも、東武線の南側は水田が有りました。
この昭和時代の旧栃木駅舎は現在栃木市総合運動公園西側に移築されています。