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栃木市惣社町の大神神社 [栃木市の神社]

栃木市の東部に位置する惣社町、そのほぼ中央部に「大神神社」は有ります。宇都宮に通勤していた頃は、県道2号線(惣社今井バイパス)を毎日「大神神社」の有る、室の八嶋の森の前を通っていました。もちろんバイパス道が開通する前は旧道でしたので、「大神神社」の西参道前を通っていました。
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(表参道入口の鳥居)           (表参道側より「大神神社」拝殿を望む)
一度朝の通勤時に寄り道をして、杉木立の中朝日が差し込む境内の写真を撮影した事が有りました。
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(朝の木漏れ日が境内に差し込む。)
子供が小さかった頃は室の八嶋で遊ばせた事も有りました。その時は池に水も無く、「八嶋橋」の下で銀杏の実をを拾ったりしました。
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(1988年11月撮影。 室の八島を祀った池には水が無かった。)
最近栃木市の市民大学の中で、室の八嶋を巡りましたが、池には水がはられて、錦鯉が悠々と泳いでいました。
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(2013年10月撮影。八嶋橋)
境内に栃木市教育委員会が立てた「下野惣社(室の八嶋)」の説明板が有ります。
≪大神(おおみわ)神社は、今から1800年前、大和の大三輪(おおみわ)神社の分霊を奉祀し創立したと伝えられ、祭神は大物主命(おおものぬしのみこと)です。惣社は、平安時代、国府の長官が下野国中の神々にお参りするために大神神社の地に神々を勧請し祀ったものです。また、この地は、けぶりたつ「室の八島」と呼ばれ、平安時代以来東国の歌枕として都まで聞こえた名所でした。幾多の歌人によって多くの歌が、残されています。≫
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(2013年10月撮影。大神神社拝殿)
元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)弟子の河合曾良を伴って、江戸深川の採荼庵(さいとあん)を出発した松尾芭蕉は、29日の朝、間々田を出て、小山を抜け飯塚の宿外れより左に曲り、小倉川(現在は思川)を渡り、惣社河岸から此処「室の八嶋」を訪れています。「おくのほそ道」には載っていませんが、曾良の俳諧書留に「室の八島」と題して、5首の芭蕉の句が認められています。その中の一句が境内に建てられています。境内には他にも多くの石碑が建てられていました。
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(芭蕉句碑 「糸遊に結つきたる煙哉」)





栃木市藤岡町大前の星宮神社に有る「横綱栃木山守也」の碑 [栃木市の神社]

今朝の読売新聞の栃木版に「栃木山の化粧まわし寄贈 大正期の横綱 子孫から栃木市へ」という記事が載っていました。
私は先日、この「栃木山守也」の石碑を見て来ていました。石碑は藤岡町大前、県道11号線(栃木藤岡線)を南進して藤岡方面に向かい、東武日光線の跨線橋を渡って、650m程行った道路の右手に木々が茂る神社が有ります。「星宮神社」です。
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道路から見ると石の鳥居を潜った参道の奥に社殿が見えます。
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この鳥居の所で右手方向に立派な石碑が建っています。
石碑の右上に少し小さく「横綱」そして石碑中央に「栃木山守也」と力強くしっかりとした字で大書されています。そして左横に「時津風定次書」と有ります。
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「栃木山守也」は明治25年2月5日に下都賀郡(現栃木市)藤岡町赤麻に生まれました。十九歳の時に常盤山(出羽海)の弟子となって、大正七年二月に第27代の横綱に昇進しています。横綱在位八年十五場所、大正十四年一月優勝した土俵を最後に引退。春日野部屋を興し、横綱「栃錦」「栃ノ海」などを送り出しています。昭和三十四年十月三日、67歳の生涯を閉じています。
この碑は、七回忌にあたる昭和四十年十月に春日野一門によって建立されました。石碑入口に有る二つの石燈籠は当時の横綱「栃ノ海晃嘉」と大関「栃光正之」が寄贈したものです。
碑の題字を書いた、時津風定次は前人未踏の69連勝の偉業を達成した、第35代横綱「双葉山定次」で第3代日本相撲協会理事長です。
石碑の裏手に回って、碑の背面に刻された碑文に目を通します。
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(石碑の背面、碑文の内容を読み移しました。栃木山守也に付いて詳しく書いています。)
碑文は非常に清楚で読みやすい文字で刻まれています。撰文は、酒井忠正(横綱審議委員会初代委員長)です。酒井忠正は備後福山藩の最後の藩主だった、阿部正桓の次男に生まれ、旧姫路藩主酒井家の酒井忠興の娘・秋子を娶り、婿養子となります。貴族院議員、農林大臣。スポーツに造詣深く、「日本中央競馬会第三代理事長」や「日本プロレス協会初代会長」なども務めています。昭和29年「相撲博物館初代館長」にも就任しています。
文字は、日本書道美術院審査員の阿部海秋の書丹と有ります。「阿部海秋」は宮城県仙台市生まれの書家で、戦後の石巻地方に書道の文化を弘めた人です。

太平山神社の境内に祀られた蔵稲荷 [栃木市の神社]

太平山神社は、栃木の市街地の西方に連なる、太平山(標高341m)の山の上に鎮座しています。
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(栃木市役所駐車場より望む太平山の山並み)
祭神は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、相殿には天照皇大御神(あまてらすおおみかみ)・豊受姫大神(とようけひめのおおかみ)をお祭りしています。
境内には多くの境内社が祀られていますが、その中の一つに「蔵稲荷」という神社が有ります。
「蔵稲荷」は江戸時代、現在の東京両国あたりの商家たちに信仰された稲荷社です。江戸時代、栃木と江戸とは河川を通じて舟運が開け、物資や人の交流も盛んに行われていました。そうした歴史的な背景で、ここ太平山神社に勧請されたのでしょうか。
1990年6月の事です、私は偶然にこの「蔵稲荷」の社殿を、太平山の東麓に沿って流れる永野川に架かる太平山神社の表参道にも当たる「二杉橋」から、山の上まで山車の上にのせて曳き上げる神事を見る事が出来ました。
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(「蔵稲荷神社」社殿の山上げの列を先導するのはやはり天狗です。)
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(山車の上に載せられた、新築された社殿、多くの曳手によって、山を登る)
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(二杉橋を渡り、太平山神社の大鳥居を潜っていく)
1979年7月8日に90年ぶりに繰り広げられた太平山神社の奇祭「精勝祭(せっかちさい)」を撮影して以来の、生きている内に二度と見られないと思われる、太平山神社の神事です。
現在は太平山神社本殿に向かって右方向、神社としては珍しいお堂造りの星宮神社の隣りに、鎮座されています。
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(境内に鎮座する蔵稲荷神社)
農耕殖産・商売繁盛・商家安全等に御利益の有る神社です。

栃木市嘉右衛門町の神明神社 [栃木市の神社]

今日も又、暑い一日でしたが、昨日より風が強かったので、陽が落ちてからは、家の中より外の方が、涼しく感じました。午前中街内に、出かける用が有ったので、自転車を使いました。帰りに嘉右衛門町の神明神社前を通った時、通りに面した玉垣の向こう側に、真新しい立札が目に留まりました。
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(旧日光例幣使街道嘉右衛門新田に鎮座された神明神社)
先日新聞の記事「栃木市の神明神社、明治の高札復元」に載っていた「高札」です。想像をしていた物より大きく立派な物です。
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(今年7月5日に復元お披露目された高札)
明治39年9月に出された「県の定め書き」で境内内で行ってはいけない項目が記されています。この種の高札に関しましては、明治五年に縣社に列した、旭町の神明宮が明治六年に境内に於ける禁制の高札を、栃木県下にて最初に下賜されています。
嘉右衛門町の通りは、いつも通っていますが、改めて神明神社に参拝した事が有りませんでしたので、今回初めて参拝をさせて頂きました。
境内に入ると右手に手水舎が有りましたが、使えませんでした。左手は社務所でその奥に神楽殿。拝殿前まで進み参拝を済ませてから、ゆっくり境内内を散策しました。拝殿に掲げられた「神明神社」の扁額は見事な彫刻が施されていました。
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(神明神社の拝殿と周囲に彫刻が施された扁額)
拝殿も本殿も均整がとれた美しい建物です。本殿は神明造りで、旭町の神明宮を小ぶりにした感じです。
境内には他に境内社が二つ建っていますが、扁額等がない為祭神が分かりませんでした。社殿に向かって右手奥に祀られているのが、恐らく須賀神社ではないかと思われます。
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(拝殿の後ろに神明造りの本殿)            (境内の南東隅に祀られた境内社)
社殿に向かって右手に新しい山車蔵が建てられています。正面出入り口のシャッターの面に「仁徳天皇」の人形を載せた山車の絵が描かれています。二年に一度開催される栃木市の秋祭りに嘉右衛門町から巡行する山車が、ここに格納されています。
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(新しく建てられた人形山車蔵)             (境内に奉納された石燈籠)
この神明神社は江戸初期の慶長三年(1598)に創建されたと伝えられます。祭神は天照大神です。幕末の嘉永四年(1851)に拝殿を改築。その後昭和三年に村社に昇格した際に神殿の新築を計画、昭和六年に社殿が竣功して、現在に至っています。


栃木市藤岡町藤岡の藤岡神社 [栃木市の神社]

今日も暑い一日となりました。家の中に居ても暑くて何もする気になりません。午後には辛抱出来ず、車で出かける事に。出かけるとなればどこか目的地をと考え、今回は藤岡方面に向かいました。カーエアコンをガンガンに利かして、快適空間に変わりました。先ほどまでのベトベト肌が、サラッとしてきました。
藤岡町なら「藤岡神社」へと考え、一路県道11号線を南下します。途中分岐で右の道に入り、渡良瀬川に架かる「新開橋」を渡ります。藤岡の街中を貫く県道9号線の南の端に有る交差点、左に曲ると曹洞宗の「桂繁寺」の山門前に出る。この交差点を逆に右に曲る。
東武日光線の踏切を渡ると、道は三方に分かれ、中央の道には大きな石の鳥居が道を跨いでいる。鳥居の手前右手に、「藤岡神社」と刻した大きな石柱が建っている。
石の鳥居を潜って、真直ぐに500m程進むと、目の前に緑の木々に覆われた藤岡神社が現れます。道路脇に車を停め、境内に入ります。参道の両側に欅の大木が立っています。この欅は平成元年(1989)に栃木県名木百選に選ばれています。樹齢は400年と推定されています。
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藤岡神社に付いては、「栃木縣史第三巻神社編」田代善吉著に、
≪下都賀郡藤岡町藤岡字城山に鎮座せり、祭神はイザナギノミコト、イザナミノミコト、オオヒルメムチノミコト、ツクヨミノミコト、アメノコヤネノミコト、アメノウズメノミコトとす、本社は天慶三年の創建にして昔は、六所大明神と尊称したるという。天正五年四月佐野城主佐野小太郎宗綱は、其の臣松本丹波、津布久弾正の二人に命じて、藤岡城を攻めしめた、二将は決死の士三十六騎を以て、韛沼を渡り急に城を攻めて、各所に火を放ったので、本社も兵火に罹つた。天正十八年漸く本社拝殿等の再建を成して、本村の大鎮守神として尊崇した。しかし境内荒れて神威を穢す恐れあるので、元禄七年更に社殿を大修理し、諸般の装飾を施し、完成を告げたので始めて旧観に復する事を得た。正徳二年吉田家より5神階正一位を授けらる。享和元年三月華表を建立す。文政四年に至りて神号を御告文によって、紫岡神社と改め、明治六年四月境内を4653坪と定めらる。同八年藤岡神社と改称せられた境内は古杉老樹奇松に富む、或は藤有りて風景佳である。≫と紹介されています。
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参拝を済ませて、境内の中を散策しました。境内は木陰に成っているので涼しく感じます。境内は実に多くの石碑が建てられています。
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社殿に向かって左手、手水舎の後方に背の高い石碑が有ります。石碑上部に「鴎村先生碑」、碑文右したに岩崎清七篆額と有ります。
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「鴎村先生」とは、漢学者の「森鴎村」(1864~1907)、「岩崎清七」とは、鴎村の弟子であった財界人。二人のお墓は近くの繁桂寺境内に有ります。
他に句碑も三基見られました。
「市人に いで是うらん 雪の笠」(芭蕉)
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「七五三縄に 風情等しや 藤の花」(北岱)
「むかしいま 花ふさ長き 藤かつら」(作者不詳)
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尚、松尾芭蕉の句碑は、先ほどの繁桂寺山門前の弁天池跡にも有ります。
「名月や 池をめくりて 夜もすから」
明治前期に測量された「迅速測図」下都賀郡藤岡町の地図を見ると、この藤岡神社の直ぐ裏手(西側)には、北から南に渡良瀬川が流れています。大正七年(1918)河川改修により流路が変更となり、現在は藤岡の北側を東に流れ、渡良瀬遊水地に流れ込んでいます。元の渡良瀬川の跡は今も栃木県と群馬県との県境として残っています。「迅速測図」を見ますと地図の左側に渡良瀬川、その左岸近くに藤岡社の文字が確認できます。又渡良瀬川上部左岸に直線状に築かれた堤防は、江戸時代に苦労して築かれた堤防跡です。
今もその場所に行くと、道路の下に「葭立修理碑」と篆刻された明治二十七年(1894)建立の石碑と「愛国開墾記念碑」と大書された、昭和十年(1935)建立の石碑が建っていました。
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柳橋町の日限富士浅間神社 [栃木市の神社]

栃木市柳橋町に有る日限富士浅間神社は、以前は参道にびっしりと木の鳥居が並んでいました。
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北隣りの箱森町から南流する、清水川の左岸に沿って広がる境内は、皆川街道に参道入口が有ります。入口に建つ石の鳥居の足元の石碑に「奉納大鳥居 大正四年四月十六日建之」と有り、世話人・発起人等の指名が並んでいます。昔はこの石の鳥居から参道にずーと木の鳥居が並んでいましたが、現在は一本も残っておりません。
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私の子供の頃は神社の境内の周りは殆ど田圃が広がり、人家はまだまばらでした。田圃のあぜ道で、セリやヨモギを採ったり、ノノヒロを採って味噌を付けて食べたり、脇の清水川では魚を捕ったりして遊んだ。
正月や毎月一日、十五日は参拝客が行列を作っていました。 今日、久しぶりに行って参拝をして来ました。
参道の鳥居は少しまばらになっておりましたが、境内の中は綺麗に清掃が行き届き、狛犬や参拝者が蝋燭に火を燈して奉納する獻燈台も新しくなっていて、今も信仰が衰えていない様子が覗えました。
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(1965年9月撮影)
日限富士浅間神社の参拝は、最初正面の本殿でお参りして、次に本殿に向かって左手奥の小さい社へ、
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更にその社の左奥の小社に順にお参りをして、本殿の後ろを回って、再度本殿に戻りお参りをします。それぞれの社殿間はびっしりと木の鳥居が立ち、参拝者はその鳥居を潜って回る形になります。
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日限富士浅間神社が祀っている神様は、「木花咲耶姫命」(コノハナサクヤヒメノミコト)です。日を限って祈願をして参詣すれば、願い事が叶うと言われることから、「ヒギリの浅間さん」と呼ばれています。
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境内の南西の隅に大きな石碑が建てられています。表に大きく「建築記念碑」、裏側には「建築費寄附者芳名」と最上部に有り、その下側に寄付金と氏名がビッシリと並んで記されています。左上部に「昭和九・・・」の文字が読めます。現在の社殿は昭和9年の建立です。

栃木市湊町の白旗八幡宮と力石 [栃木市の神社]

今日は、昨日の天気とは一転して朝から晴れて、暑い一日となりました。
今日訪れるのは、栃木市湊町白旗山勝泉院の東隣りに祀られた、白旗八幡宮です。
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(白旗八幡宮の南側鳥居前より。左横に見えるのが白旗山勝泉院鐘楼)
もともと白旗山勝泉院は、この白旗八幡宮や片柳村の総鎮守であった二杉神社の別当寺で、貞観年中(859~877)に慈覚大師の開基になると伝え、初めは法泉寺阿弥陀坊と称する修験寺でした。元は栃木女子高校の前に有りましたが、万延元年(1860)に現在地に移転されました。
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(昔は白旗八幡宮の別当寺であった、白旗山勝泉院)
明治四年の神仏分離令でこの勝泉院より分かれました。白旗八幡宮は源義家が、後三年の役の戦勝を祈願した時に、源氏の旗指物の白旗を立て掛けた桜の木、「義家旗掛桜」で有名になりましたが、現在は枯れてしまい、社殿の裏側にただ「旗掛桜」と記した石碑が立つのみです。
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(白旗八幡宮の社殿を東側面から望む。本殿裏に「旗掛桜」の石碑が立つ)
この八幡宮の境内、社殿に向かって左端に台の上に載せられた、米俵より少し小さい楕円形の石が有ります。石の表面に「三十三〆  片柳新田 松本藤兵ヱ  安永二年」と彫られています。
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(白旗八幡宮境内に奉納された力石。石表面に安永二年等の文字が読める)
「〆」は質量の「貫」の略字で、一貫は3.75kgですから、33貫は123.75kgという事になります。米1俵60kgですから、約米俵二個の重さになります。奉納されたのは安永三年と有りますので、1774年となります。
下野史談会の近藤亀吉氏が昭和13年5月発行の「下野史談」に寄稿した「栃木市の力石を見て」と言う小作品が有ります。その中でここ白旗八幡宮の力石と同様の物が、入舟町の大日堂境内にも有ると書いています。以前大日堂へ行った時はその様な力石が有る事には気が付きませんでしたが、今回改めて大日堂へ出向き境内を見直しました。
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(入舟町大日堂境内。松の木の根元長方形の石。力石を載せた台石だった)
有りました。境内の松の木の根元に半分埋まった状態になっていました。又、近くには力石を載せていたと思われる四角い石が2個置かれていました。
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近藤亀吉氏は書いています、≪栃木市入舟町大日尊に詣でし所、堂前に手澤滑らかなる楕円形硬質岩の、台上に横たわるを見て、力石と察したれば巨細に検せしに、台石の南側には「片柳新田 松本藤兵衛奉納力石三十六〆目安永二年とあり、北側には藤兵衛孫為水月院追福万町二丁目松本松蔵大正二年八月とあるを見れば、その際台石を修理せしものとす。≫
どちらの力石も、同じ人が、同じ時期に奉納したものでした。ちなみに白旗八幡宮の力石の台石は、昭和五十七年三月に後裔松本達郎氏が奉納しています。

又、栃木市藤岡町の部屋八幡宮では昔、若衆の奉納相撲が行われ、その為か境内には10個の力石が並べられていると、「ふじおか見てある記」という2002年2月15日に藤岡町教育委員会が発行した小冊子に載っておりましたので、今度機会が有ったら行って見てみたいと思っています。
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白旗八幡宮の参道脇に、季節の花「アジサイ」が咲いていました。秋になるとコスモスの花が彩りを添えてくれます。
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(2013年9月23日撮影、白旗山勝泉院大施餓鬼会の日)

栃木市錦町の向島八幡 [栃木市の神社]

今日は朝からシトシトと雨が降り続いて、肌寒い一日となってしまい、何処にも出かける事が出来ず、一日ただ本を読んだり、テレビを見たりして、時間を潰していました。
そんな事とは全く関係も無く、今回は栃木市錦町(以前の住所は入舟町)の向島八幡宮を訪問します。
巴波川に架かる大川橋の近くの、木立の中にその社は有ります。
大川橋の西詰、巴波川の川沿いを通る道の脇に、石の鳥居と「向島八幡宮」と大書された石碑が建っています。
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鳥居を潜ると、立派な狛犬が祀られています。狛犬を載せた台石には「国家安全」と「武運長久」の文字が彫られています。
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その先に少し小ぶりの石の鳥居が有って、その鳥居と社殿との間、丁度社殿の真正面前に大きな木が有ります。
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境内には他に杉の木や銀杏の木も有り、秋には境内一面黄色に染まります。
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(2013年12月7日撮影、鳥居の前に立つ幟旗「正一位向島稲荷大明神」は八幡宮社殿の隣りに祀られている神社の物になります。)
八幡宮の社殿は小ぶりながら見事な造りです。社殿の前両側に建つ石灯籠に「長谷川氏」と有ります。
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当所は徳川末期頃より、明治初年にかけて長谷川藤助氏が管理をしていたので、俗に藤助山と云われてました。神社の創建は不明ですが、古老の言によると、「鎌倉時代に祠を建てて祀ったものでしょう」と、又一説には源義家奥州へ下向の途中、当所にて幾線かの河の流れ渡に当たり、僅かの間此の丘に駒を休め、神を祀るにふさわしき地なりと、仰せられるにより、後年里人祠を建て、八幡を勧進したと言われております。その後度々修築し、徳川末期よりそろそろ荒れはじめ、その後甚だしくなりましたのを現在の管理人、長谷川調七氏が大正三年四月改築、九州宇佐八幡を更に勧進、今日に及んでいます。
≪栃木名所旧蹟物語 大浦倉蔵編より引用いたしました。≫
長谷川調七氏は明治40年10月1日発行栃木縣営業便覧を見ると、栃木町大通り万町にその名が載っております。「書肆出井書店 長谷川調七」。 「肆」と言う漢字は音読みで「シ」、訓読みでは「つらねる、みせ」となります。尚、長谷川調七は昭和初期の栃木町長で、昭和初期の大不況の時、生活困窮者の救済事業として太平山遊覧道路新設と言う一大事業を提案して、昭和七年から九年(1932~1934)にかけて、総延長4kmの道路を完成させました。遊覧道路の途中、国学院高校側からの道との合流点の場所を、「長谷川平」と呼び、「長谷川調七」氏の記念碑が建っています。又、長谷川調七氏は第三代栃木市長としても、栃木市発展に尽くされています。
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